第3話_国境で、一人だけ戻らない
荷車が動き出すと、リディアの身体が横へ傾いた。ロランは肩を抱きとめ、畳んだ外套を背と板壁の間に挟んだ。
「揺れますよ。こちらにもたれてください」
リディアは動かない。背に手を添えると、少し遅れて身体を預けた。
北門の外には、焼けた荷車がまだ転がっている。門扉に打ちつけられた応急の板も、そのままだ。護送の荷車は城壁の外を西へ回り、南の街道へ向かった。都の中を抜けた方が近いが、隊長は人の集まる通りを避けた。
それでも、道端には何人か立っていた。
「……あれが、禁忌薬を飲んだ聖女か」
荷を運ぶ男が足を止めた。そばの女は、子供の顔を自分の胸へ押しつける。
少し先では老人が帽子を取った。荷車が通り過ぎるまで、頭を下げたままだった。
リディアの目は、膝に掛けた毛布へ落ちている。
御者台から隊長の声がした。
「ロラン。具合はどうだ」
「背を支えていれば大丈夫です。ただ、食事や水は一人では難しいようです」
「国境まで無事に運べればいい。よく見ておけ」
「……承知しました」
ロランは外套の端をもう一度直した。
*
昼前、馬を休ませるために荷車が止まった。トーマが干しパンの包みを差し出した。北門で何度もロランと夜番を組んだ若い守衛だ。
「ロランさん。聖女様は、ご自分で食べられないんですか」
「手には持てる。だが、そこから口へ運ぶのが難しいんだ」
ロランはパンを水で少し湿らせ、小さく割ってリディアの手に置いた。指は閉じたが、彼女はそのまま動かない。
「聖女様。パンを食べましょう」
ロランはリディアの手首を支え、パンを口元へ運んだ。何度か促して、ようやく唇が開く。飲み込むまで待って、次の一欠片を渡す。
トーマは向かいに腰を下ろした。
「俺の弟、聖女様から菓子をもらったことがあるんです。北門に差し入れに来てくださったときに」
「お前を迎えに来ていた子か」
「はい。北門に魔物が押し寄せた日、弟も避難民の中にいました」
トーマはリディアの手元を見た。
「戦っているところを見て、しばらく怖がってました。でも今朝は『聖女様、食べ物はあるの』って。俺も答えられなくて」
ロランは水筒の栓を抜き、リディアの口元へ運んだ。
*
その夜、護送隊は街道脇の古い番小屋に泊まった。土間の炉を隊長とトーマ、もう一人の兵が囲んでいる。
ロランは壁際のリディアのそばに座り、義足の革紐を緩めた。荷車の振動で革が擦れ、足がひりついていた。
「明日には国境へ着く。戻ったら北門の見張りだ」
隊長が薪をくべながら言う。
「補修が終わるまでは人を減らせん。分かっているな」
「……はい」
昨日までは、任務が終われば都へ戻るつもりだった。
毛布の擦れる音がした。
リディアが毛布から片手を出している。指は宙で止まり、何かをつかもうとしている様子もない。
ロランが毛布を掛け直すと、その指先が袖に触れた。
「寒いですか。もう一枚、掛けましょう」
返事はない。
「……みんな……まもら、なきゃ……」
トーマが薪を持つ手を止めた。
隊長は火から目を離さなかった。
ロランは毛布の端を折り込み、彼女の手が冷えないよう中へ戻した。
*
翌日の午後、国境の石標が見えた。王国の紋章を刻んだ石の向こうには、別の国の宿場がある。こちら側には古い詰所が一軒残るだけだった。
「ここまでだ」
隊長は荷車から降り、命令書を広げた。
「王太子殿下の裁定により、元聖女リディアを国外へ追放する。以後、王国への帰還は認められない」
リディアは荷台に座ったまま、何も答えない。
「降ろせ」
ロランは先に地面へ下りた。
「聖女様、足をこちらへ。ゆっくりで大丈夫です」
リディアの靴が荷台の縁に掛かる。前へ傾いた身体を、ロランは腰に手を添えて支えた。重みを受け止めた拍子に、義足の先が砂利を踏み外しかける。
反対側からトーマがリディアに肩を貸した。二人で彼女を支えて数歩ずつ進み、石標の向こうへ出る。
「よし。戻るぞ」
隊長の声にトーマが手を離した。
ロランはリディアの腕を支えたまま、振り返った。
「……隊長。自分は……戻りません」
「……何だと」
「ここからは、自分の意思でこの方に付き添います」
隊長はロランを見た。
「お前には帰還命令が出ている。勝手に離れれば無断離隊だ」
「承知しています」
「分かっていて言っているのか。除隊の許可も出ていないんだぞ」
「はい」
ロランは守衛の徽章を外し、腰の貸与剣を鞘ごと差し出した。自分で買った短剣だけは、反対の腰に残してある。
「支給品はお返しします」
「剣を返せば済む話じゃない」
隊長は剣を受け取らなかった。
「その脚で、どうやって連れていく。そいつは一人では歩けんだろう」
「向こうの宿場で、馬車を探します。金はあります」
「その先は」
「南の医療大国に、戦傷者を診る施設があると聞いています。そこまで連れていくつもりです」
「噂だけで行くのか。治る保証などないぞ」
「……分かっています」
リディアの身体が傾き、ロランは支える腕に力を込めた。
彼女の目は足元の砂利に落ちたままだった。
「この方がいなければ、北門は落ちていました。自分も生き残れなかったでしょう」
隊長は何も言わない。
「ここに置いて帰ることは、できません」
しばらくして、隊長が差し出された剣を受け取った。
「戻ったら、ありのまま報告する。どうなっても知らんぞ」
「……はい、すみません」
隊長は剣を荷台に置き、御者台へ戻った。
「ロランさん!」
トーマが食料の袋を持ってきた。
「これ、持っていってください。自分で買った分です」
「お前の帰りの食料だろう」
「俺は帰れば食事にありつけます。ロランさんは、これから先が長いでしょう」
ロランが受け取ると、トーマはリディアへ頭を下げた。そのあと、トーマはもう一つ、布で厚く包んだ小さな荷をロランの手へ押し込んだ。
「北門で回収した物の中に、未開栓の薬が二本残っていました。戻ったら神殿へ返そうと思って持っていたんです」
包み越しにも、ガラスの小瓶が二つ触れ合う音がした。
「こんなものを、どうしろと」
「飲ませるためじゃありません。南には医療大国があるでしょう。医者に何を飲んだのか調べてもらう手がかりになると思って」
ロランは返そうとした。危険な薬だとは知っている。だが、中に何が入っていて、なぜ彼女の身体が壊れたのかは分からない。
「……分かった。医者に渡すまでは、絶対に開けない」
布包みを背嚢の底へ押し込み、口を固く結んだ。
「気をつけてください、ロランさん」
「……ありがとう、トーマ。お前もな」
ロランが付け加えた。
「北門の第3支柱の裏、ひびが広がっている。隊長には伝えたが、補修が済むまで近づきすぎるな」
「分かりました。戻ったら、もう一度報告します」
もう一人の兵は御者台から黙って二人を見ていた。隊長が手綱を引くと、荷車が街道を引き返し、車輪の音が遠ざかっていく。
ロランはリディアを支えたまま、その姿が見えなくなるまで立っていた。
*
石標から宿場までは近かったが、二人は何度も足を止めた。リディアは声をかければ歩こうとする。それでも途中で動きを止め、ロランが促すまで次の一歩が出ない。
宿場の外れに、馬と荷車を扱う店があった。店主は店の奥から出てきて、リディアに目をやった。
「連れのお嬢さんは、具合が悪いのか」
「はい。長くは歩けません。幌のある荷車を探しています」
店主が見せたのは、古い幌馬車と、年を取った馬が一頭だった。
「幌は雨が漏れるし、馬も速くは走れんぞ」
「構いません」
「車軸も少し緩い。出る前に締めておけ」
「分かりました」
何年も貯めた金が、半分以上なくなった。
ロランは店主から道具を借り、車軸の留め金を締め直し、店主にも手を貸してもらいながらリディアを荷台へ乗せる。
干し草の上に毛布を敷いた。リディアは言われた通り腰を下ろしたが、渡した外套は膝に置いたままだ。ロランがその外套を肩へ掛け、幌の端を結んだ。
「聖女様。ロランです。これから南へ行きます」
リディアの目は、荷台の板に落ちたままだった。
少し待ってから、ロランは御者台へ上がる。
手綱を引くと、馬はゆっくり歩き出した。
国境の石標は、道が曲がると見えなくなった。




