第2話_禁忌の薬を飲んだ理由
追放を命じられた翌朝。北門の兵舎で、護送隊長が木箱の蓋を開けた。空の小瓶が三本並んでいる。
《禁忌薬使用の証拠》
蓋の裏に貼られた札を見て、ロランはしばらく動けなかった。
三本。
たった三本で、いったい何が分かるというのだろう。
「神殿が最後に回収した分だそうだ」
箱の底に残った黒いしみから、金属を舐めたような苦い臭いが立ちのぼった。
「こんなものを飲み続けるとはな。殿下が追放を決めるのも無理はない」
ロランは答えない。
薬を飲んだのは事実だ。禁じられていたことも、聖女自身が知っていた。
だが、なぜ飲んだのか。
その答えを、王宮では誰も聞こうとしなかった。
窓の外では護送用の荷車が整えられている。リディアはその横の椅子に座り、渡された水杯を見つめていた。取っ手に指が触れているのに、持ち上げようとしない。
ロランは外へ出て、リディアのそばに膝をつき話しかける。
「聖女様。少し、飲みましょう」
ロランが杯を支えてもう一度促すと、ようやく唇が開く。水が顎を伝い、彼は慌てて布を当てた。ロランはリディアが水を飲み込んだのを確かめ、兵舎へ戻った。
あの人は、瓶の栓を片手で開けられた。
何十本も。
最後には、開けた栓を閉めることすらできなくなった。
*
北門の内側に押し寄せていたのは、兵士ではなかった。
片方の靴をなくした子供。鍋を抱いた老婆。背中に老父を負い、もう立てなくなった農夫。
避難民の列が途切れると、守衛たちが横木を落とした。
王国軍の旗は一本も見えない。
間もなく、横木が軋んだ。門扉の向こうで、硬いものを引っかく音がする。魔物の爪だ。守衛たちが矢を射るたび、城壁の下で空しい音がする。
「南へ逃がせないのか」
「南門はまだ無事だ。だが街道にも群れが出た。あの人数じゃ抜けられん」
誰かが答え、誰も続きを口にしなかった。
ロランは義足の留め具を締め直す。剣ならまだ振れる。だが、逃げ遅れた人を背負って魔物から逃げ切れる脚ではない。
臨時の治療所では、リディアが幼い少女の手を包んでいる。生来の膨大な魔力で、運び込まれた負傷者を次々と癒やしていた。裂けた皮膚が、リディアの指の下でふさがっていく。傷が消えても少女は手を離さない。聖女は膝を折ったまま待っていた。
「もう大丈夫ですよ」
泣きじゃくる子に、少しだけ笑う。
ロランはその声を覚えている。戦の前、門番たちに差し入れを持ってきたときも、彼女は同じ調子で話していた。
「聖女様。お逃げください。お一人なら、まだ南門から――」
「みなさんも、一緒に逃げられるのですか?」
そう言われると、何も返せなかった。
リディアは少女を母親に預け、治療所の奥へ向かう。戻ってきたときには、両腕で古い木箱を抱えていた。
箱の側面には、王立錬金術院の焼印。その上に、神殿の封蝋が幾重にも重ねられている。
「……聖女様、それは」
年老いた神官が立ちすくんだ。箱の中身を知っているのだろう。封蝋に触れる指が震えている。
「開けてはなりません。あれを作った男は、兵を死ぬまで戦わせようとしたのです」
リディアが封を切ると、黒い薬液の入った小瓶が、箱の奥まで何列も並んでいた。薄い帳面が一冊、瓶の上に載っていた。ロランが覗くと、細かな文字が並んでいる。
《試験七号。投与後、筋力・反応速度が著しく上昇》
《左腕を失った後も前進を継続》
《帰還命令への応答なし》
《戦意衰えず。成功》
最後の二文字だけ、ほかより太い筆跡だった。その下には別の手で書き足された警告がある。
《再投与を禁ず》
「研究が封じられたとき、神殿が書き足した警告です」
老人の声はかすれていた。
「飲めば、強くなります。腕の力も、動く速さも、普通の兵とは比べものにならない。ですが、その力に身体が耐えられない」
神官は小瓶へ目を落とす。
「最初の一本で死ななかった者も、二本目からは……。あの錬金術師は、兵が死なずに動いていれば成功だと言い張った。人に戻れるかどうかなど、数えもしなかった」
リディアは帳面を閉じる。木箱の中には、まだ何十本もの小瓶が残っていた。
「これを飲んだら、戻れなくなるかもしれません」
神官が最後の一言を絞り出す。
リディアの手が止まった。
「……怖いです」
声は震えていた。彼女は小瓶ではなく、門の内側で待つ人々の方へ目を向けた。
ほんの少しの間、彼女は小瓶を見つめている。栓にかけた指先が白い。
門の方から、子供の叫び声が届いた。
聖女は顔を上げ、一本の小瓶を手元に残して木箱をロランへ差し出した。
「前線へ運べる場所に、分けて置いてください」
「……聖女様」
「中の方々を、お願いします」
ロランが聞いた、彼女の最後のまともな頼みごとだった。
栓が抜かれる。
リディアは目を閉じ、最初の一本を飲み干した。
門が破られたのは、そのすぐ後だった。
先頭の魔物が人の列へ突っ込んでくる。城壁から矢を放っても、勢いが落ちない。
誰かが「聖女様」と叫んだ。
リディアは、もう魔物の目の前にいた。
最初は何が起きたのか分からなかった。巨大な頭が石畳に沈み、遅れて衝撃が城壁を揺らす。彼女が素手で押し倒したのだと気づいたのは、魔物がもう一度起き上がろうともがいたときだった。
魔物の牙が、リディアの右腕に食い込む。
骨の砕ける音。
リディアは引き抜かなかった。折れた腕をそのまま魔物の口の中へ押し込み、空いた手で顎を押し広げる。
裂けた皮膚が、牙の間でふさがり始めた。
ロランは治療所で見た少女の手を思い出す。同じだ。リディアは自分の腕に治癒術を使っている。
魔物が噛み直し、つながりかけた骨がまた砕ける。
ロランは思わず、自分の腕を押さえた。
骨が戻るより早く、次の魔物が倒れる。
城壁の上から歓声が上がった。
その下で、リディアは倒れた魔物を見下ろし、口の端をつり上げていた。
「……あ、はっ……」
ロランの知っている穏やかな微笑みは、そこにはなかった。
魔物が退き、広場の人々が市街地の奥へ駆けていくと、リディアは追撃せずに道を空けた。次の群れへ向き直る足だけは、止まらない。
夕刻、ロランは空になった小瓶を拾った。
栓はきちんと閉められている。
その夜、守衛たちは破れた門を板と梁で塞ぎ直した。
翌朝、その瓶を見つけた場所には、もう別の空瓶が転がっていた。
数日で済むと、誰もが思いたかった。
けれど魔物は途切れない。
峠から新しい群れが来る。砦が一つ落ち、次の砦も黙る。南門の守衛たちは小さな群れを追い払っていたが、北から来る魔物は数が違った。北門の外には焼けた荷車と、戻らなかった兵の槍が増えていく。それでも時折、避難民が北門へたどり着いた。
リディアは眠らない。
昼は門の外、夜は峠の入口。戦いが一段落すると、彼女は瓦礫の陰や廃砦に置いた木箱へ戻り、また小瓶の栓を抜く。
ロランが補給に出るたび、箱の中身は減っていく。
最初は一列ずつ。やがて、箱ごと空になった。
次の箱を運ぶ。さらにその次を。
魔物の群れが途切れたわずかな間、リディアは短い手紙を書こうとした。紙の一行目には、途中で途切れた「ありが」の文字。誰に宛てたものか、ロランには分からなかった。書き直そうとした指は、同じところを何度もなぞった。
湯を注いだ杯が倒れ、熱いしずくが手の甲に散る。赤くなった皮膚はすぐ元へ戻った。彼女は手を引かず、書きかけの紙を見ていた。
ある夜、聖女が薬を飲もうとしているのが見えた。
濡れた手で瓶を持ち、指を滑らせている。栓が抜けない。
リディアは瓶の首を噛み割った。
血が唇を伝う。破片を吐き捨て、薬をあおる。
空になった瓶が手から落ちた。
硝子が砕ける。
ロランは、前に拾った空瓶を思い出した。
あの一本には、ちゃんと栓が戻されていたのだ。
聖女は血のついた口元を拭おうともせず、魔物の咆哮が聞こえる方へ駆け出した。傷ついた肩が走りながら膨らみ、裂けた衣の下で皮膚が閉じていく。
欠けた身体だけは、何度でも元に戻った。
一方で、栓を抜けなくなった不器用な手つきは、翌日も、その次の夜も、元には戻らなかった。
どれほど飲めば、もう十分なのか。
ロランは聞けなかった。次の群れが来れば、また彼女に頼るしかなかった。
雨が降った日、城壁の上にいた兵士が一人、声を失った。
泥の斜面で魔物が横たわっている。聖女はそのそばにしゃがみ込み、首元へ顔を寄せていた。
ロランは、傷を診ているのだと思った。
ほんの一瞬だけ。
聖女の肩が動く。
一度、二度。
魔物の身体がびくりと跳ねた。
彼女が顔を上げる。
歯の間に、黒いものが挟まっている。
魔物の肉を、喰っていた。
「……っ」
隣の兵士が手すりにすがった。
雨に薄まった黒い血が、リディアの顎を伝っていた。彼女はゆっくり喉を動かし、また魔物へ顔を戻す。
肩が、小刻みに揺れていた。
食べ物が足りなかったのか、薬にそうさせられたのか。それは分からない。ロランに分かったのは、彼女がそれを嫌がっていないということだけだ。
城壁の下で、避難民の老人が転んだ。
倒れた老人へ別の魔物が迫る。リディアの肩の揺れが止まった。黒い血のついた口のまま、彼女は駆け出した。
ロランが目を向けたときには、すでに老人と魔物の間に彼女が立っていた。
魔物は聖女の腹に角を突き立てた。ロランは息を呑んだが、彼女は老人に背を向けたまま巨体を押し返す。
老人は助かった。
だが、門をくぐる直前に聖女を振り返り、悲鳴を上げた。
ロランにその声を責める資格はない。
自分だって、さっきの光景をもう一度見ろと言われたら、首を振る。
それでも、リディアは老人が門をくぐるまで、魔物の前から退かなかった。
小瓶は、何十本も空になった。その数を正確に記録した者はいない。砦が焼け、箱が砕け、薬液が泥に混じる日もあった。
最後の群れが峠の向こうへ退いた頃、南門からも街道の魔物を退けたとの報せが届いた。北門に運び戻された木箱はほとんど空になっていた。
リディアが現れたのは、鐘の鳴り終わった後だ。
白い衣は裂け、血に染まっている。けれど肌に傷はない。失ったはずの指も、折れたはずの脚も、すべて元に戻っている。
彼女は既に笑っていなかった。
ロランは、それを見て胸をなで下ろしかけた。
「聖女様。終わりましたよ」
リディアが顔を上げる。
彼女の唇がわずかに動き、声にならない息が漏れた。
「……ァ……ぅ……」
ロランがもう一度呼ぶと、彼女は少し遅れて目を動かす。視線は彼を通り過ぎ、門の内側へ吸い寄せられた。
避難した人々が抱き合っている。誰かが泣き、誰かが生き残った子供を抱きしめていた。
リディアの指が伸びる。
「……みんな……まもら、なきゃ……」
それきり、何を聞いても返事はなかった。
ロランは彼女の腕に触れた。どこにも傷がない。あれほど壊れ、何度もつなぎ直した身体は、戦う前と変わらないように見える。
ただ、彼女の手には、空の小瓶が一本、握られたままだった。
ロランが指を一本ずつ開くと、瓶がころりと転がる。
リディアは拾おうともしない。
*
「……おい。聞いているのか」
ロランは机の上の三本の空瓶に目を戻した。窓の外では馬が鼻を鳴らしている。護送の準備はほとんど済んだようだ。
「証拠の三本は神殿へ戻す。裁定書だけを持っていけ」
「承知しました」
隊長が木箱を持ち上げた。小瓶がぶつかり、小さく鳴る。
ロランは外へ出た。リディアの水杯はまだ椅子の横にある。さっき飲み損ねた水が、縁に少し残っていた。
「聖女様。馬車に乗りましょう」
彼女は動かない。
ロランが手を差し出すと、しばらくして細い指が触れた。
あの手は、何十本もの瓶を開け、何度も身体を壊しながらこの国を守った。
今は、水の杯ひとつ、自分では持ち上げられない。
ロランはその手を包み、急がせずに立ち上がるのを待った。
北門の外に、追放者を南へ運ぶ荷車が待っている。




