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おクスリ聖女様 ―『薬に逃げた』と断罪され、追放されました―  作者: 灯野ましろ


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第1話_婚約破棄された聖女は、何も言わない

「聖女リディア! お前との婚約を破棄し、国外追放を命じる!」


 戦勝の曲が途切れた。楽士の弓が弦を離れ、最後の一音だけが大広間に残る。

 王太子アルベルトは隣のピンク髪の男爵令嬢ミレーヌを抱き寄せ、貴族たちを見渡した。


「殿下……。わたくしのせいで、お二人がこんなことに……」

「お前は何も悪くない。ようやく、間違った婚約を正すだけだ」


 ミレーヌが王太子の胸に頬を寄せる。アルベルトは満足げに顎を上げた。


「父上が決めたとはいえ、平民上がりを王妃に迎えるなど、初めから我慢ならなかった!」


 向かいに立つ聖女は、一言も返さない。

 ミレーヌの髪には小さな宝石が揺れ、リディアの白い礼装には胸元の銀の証しかない。かつては一目見ようと民が集まった女性なのに、今夜は誰も近寄ろうとしなかった。

 ただ一人、傍らの守衛兵がその手を取っている。


「黙り込んだところで、罪が消えるわけではないぞ」


 アルベルトは聖女を見下ろす。


「貴様は戦の現実に耐えかね、禁忌の薬に逃げた! 聖女のくせに、自分の弱さに負けたのだ!」

「まあ……お薬に頼るなんて。わたくし、リディア様はもっと立派な方だと思っておりましたわ」


 ミレーヌが口元に手を当てると、何人かの貴族がうなずいた。床に目を落とす者もいれば、聖女を見て小さく身震いする者もいる。


 数か月に及ぶ魔物の大侵攻が止み、王都にはようやく音楽が戻ってきた。北門の向こうから、夜ごと聞こえていた咆哮もない。

 だが、崩れた城壁にはまだ手がついていない。宴の花を運ぶ馬車は行き交っても、北門の補修に使う石は届かずじまいだ。

 城門の外には食料の配給を待つ人々が並ぶ。家族を戦場で失い、喪章をつけたまま夜会に呼ばれた貴族もいた。


 喪章をつけた老貴族が、杯を置いて進み出た。


「殿下。禁忌薬の使用は確かに重い罪。ですが、婚約破棄だけでなく、追放までも、今ここでお決めになるのですか」

「何か不満でもあるのか?」

「せめて、聖女殿の事情をお聞きになってからでも」

「事情? 戦の最中に薬へ逃げた女の、何を聞けというのだ!」


 老貴族は口をつぐんだ。ミレーヌがアルベルトの袖をそっと引く。


「殿下、皆さまが見ておられますわ」

「だからこそ、皆の前ではっきりさせるのだ!」


 王太子が広間を見渡しても、目を合わせる者はほとんどいない。

 聖女だけは、最初と同じ方向に顔を向けている。


「見ろ。反省の一言もない! それでも私には慈悲がある。最後に申し開きくらいは許してやろう」


 アルベルトはリディアへ手のひらを向けた。その口元には、薄い笑みが浮かんでいる。


「どうした、リディア。何か言いたいことがあるのだろう?」


 リディアが顔を上げる。

 衣擦れの音が広がり、貴族たちの視線がその口元へ集まった。

 聖女の唇が開く。


「……ァ、は……ぅ、あ……?」

「おやぁ?聞こえんな」


アルベルトはわざとらしく耳に手を添えた。


「もっとはっきり言ってくれ。皆も、お前の弁明を聞きたがっているぞ」

「……ぅ……ぁ……」

「くくくっ。言葉すらまともに出てこないとはなぁ」


 リディアの視線は王太子の顔を通り過ぎ、背後の燭台で止まる。アルベルトが何度も答えを要求しても、彼女は口を開いたままだ。


「ご覧のとおりだ。かつて聖女と呼ばれた女の、これが今の姿だ。禁忌の薬に溺れた結果がこれとは、情けない話ではないか」


 アルベルトは満足げに笑い、さらに言葉を重ねようとしたとき、リディアの身体がふらりと傾いた。足は床についているのに、体勢を立て直そうとしない。


「こちらです」


 守衛兵が肩を支えて促す。リディアは二呼吸ほど遅れて、ようやく片足を踏み直した。

 広間の隅で上がりかけた忍び笑いが、途中で消える。もはや彼女に続きを促す者はいなかった。


「……お可哀想に」


 ミレーヌは目を伏せる。その声はかすかに震えたが、アルベルトが鼻を鳴らすと、すぐに微笑みを作り直した。


「自分で招いた結果だ。私が哀れむ道理はない」


 守衛兵は聖女を支えたまま、口を閉ざしていた。名はロラン、二十八歳。かつては王国軍で将来を嘱望された兵士だったが、数年前の戦で片脚を失い、今は城門を守る仕事に就いている。

 足先まで木で作り、革靴を履かせた義足で立ち続けるのは楽ではない。それでも、彼女を支える腕は緩められなかった。


 ロランは覚えている。

 彼女が以前、どんな声で話したかを。

 そして、その声がまるで別のものに変わってしまった夜を。


*


 北門の外は、燃えていた。煙に混じり、焦げた獣毛と血の臭いが城壁まで届く。門扉は裂け、守衛たちの矢筒はほとんど空だ。


 その門の前に立つのは、聖女ただ一人。

 白い衣は血と泥で黒ずみ、右腕は肩から先がない。


「聖女様! もう下がってください!」


 城壁の上から叫ぶロランの声にも、彼女は振り向かない。

 巨大な魔物が前脚を横殴りに振るう。


 ごきり、と音がした。


 何が折れたのか、すぐには分からなかった。聖女がまだ立っていたからだ。

 魔物の前脚が退く。


 聖女の顔が、肩に乗っていた。

 顎は不自然な角度で鎖骨に押しつけられ、口元から垂れた血が白い襟を濡らしている。


 ロランは自分の首を押さえた。あれでは息をすることさえできない。

 なのに、膝が折れない。肩が小刻みに揺れる。

 泣いているのかと思った。


 違う。


 ――笑っていた。


「……か、はっ……キャハハハッ!」


 折れた首から、空気の漏れるような笑い声が響く。魔物が一歩後ずさった。

 聖女は残った左腕でその顎をつかみ、頭を石畳へ叩きつける。鈍い音がして、黒い血が石の継ぎ目を走った。


 一撃で魔物の動きが鈍る。

 だが、聖女はとどめを刺さなかった。握った指をわずかに緩める。魔物が頭をもたげたところで、また地面へ打ちつけた。


 二度目で、ロランは気づく。逃がしかけているのではない。わざと頭を持ち上げさせているのだ。

 魔物が身をよじるほど、折れた首から漏れる笑い声が大きくなった。


 城壁の上で誰かが後ずさる。ロランも足を引こうとしたが、義足が石の継ぎ目に引っかかって動かない。


 右腕を失った肩口から、白いものが突き出した。

 骨だと分かったときには、すでに赤い肉が覆い始めている。指の形が浮かび、真新しい手がゆっくりと開いた。

 首も、いつの間にか真っすぐに戻っていた。


 かつて彼女は、傷ついた兵士が痛がれば、自分のことのように眉を寄せた。

 その人が今、敵の苦痛に笑っている。


 ロランは吐き気をこらえた。助けられているはずなのに、彼女の顔がこちらを向くのが怖い。


 そのとき、門の陰から子どもの泣き声がした。瓦礫のそばでは母親が幼子を抱いてうずくまっている。もう一匹の魔物が二人に気づき、大口を開けた。


 笑い声が途切れる。聖女は、押さえつけていた魔物を捨てて駆けた。


 母子と魔物の間へ、ためらいなく身を差し出す。牙が肩に食い込み、衣がまた赤く染まった。傷が塞がるより早く、新しく生えた腕で魔物の頭を押さえつける。


 逃げろとも、安心しろとも言わない。

 二人が門をくぐるまで、その場を一歩も退かなかった。


 母親に抱かれた子が振り返る。聖女の顔を見るなり母親の胸にしがみつき、また泣き出した。


 ロランには責められない。

 彼自身、あの笑い声をもう聞きたくなかったのだから。


 聖女は母子を追わず、新たに現れた魔物へ向き直る。

 また、喉の奥から笑い声が漏れた。


 門の内側には、一歩も踏み込まずに。


*


「――禁忌薬の使用は、王国の法に背く重大な罪である!」


 アルベルトの声に、ロランは広間へ意識を戻した。書記官はすでに裁定の文書を抱えている。国王に代わって政務を執る王太子の命令は、決定事項として扱われていた。


「刃を入れても傷は塞がる。処刑は難しい。牢に入れたところで、いつ民を襲うか分からん!」


 広間では、あの夜を思い出したように顔をこわばらせる者もいる。

 ロランの耳には笑い声が残り、目には彼女が守った母子の姿が焼きついていた。


「……殿下」


 アルベルトが顔をしかめた。


「何だ、守衛」

「聖女様は民を傷つけておりません。私が見ていた限り、一度もです。北門で、あの方は――」

「黙れ!」


 王太子は片手を振って遮った。


「今まで襲わなかったから何だ! 明日も襲わぬと保証できるのか!」


 ロランは答えられなかった。見たことなら証言できる。見ていない未来を保証することなど、誰にもできない。


「ほら見ろ! お前にも責任は取れんのだ!」


 アルベルトは勝ち誇ったように笑う。


「国の外へ出せば、それで済む。これ以上の温情があるか?」

「殿下はお優しいのですね」


 ミレーヌが、その腕にすがった。


「殿下、お言葉を」


 老宰相ヴェールナーが人垣から進み出た。抱えた帳簿には、北門の印と、何度も開かれた跡がある。


「禁薬が戦場へ運ばれた理由だけでも、報告をご覧ください。北門の守備は、すでに――」

「また聖女派の言い訳か」


 アルベルトは帳簿を受け取らなかった。


「近衛。この男を控えの間へ。追って沙汰があるまで屋敷で謹慎させろ」

「殿下! 北門の損耗日報には、まだ――」


 近衛兵に両腕を取られて引き立てられ、宰相の声は扉の向こうへ消えた。帳簿からこぼれ落ちた紙片を、王太子の靴が踏む。ロランには、紙の端に押された北門の検印だけが見えた。

 広間の端では、包帯を巻いた守備隊長が進み出ている。


「殿下。北門の修理と街道の見張りについて、至急――」

「またその話か! 魔物はもういない。今夜は勝利を祝っているのだぞ!」


 隊長は一礼して退いた。アルベルトは書記官から命令書を受け取り、ロランへ突きつける。


「残った兵で護送隊を組め。明朝、この女を国境まで運び、二度と戻すな」


 ロランはリディアの手を離さず、空いている方の手で命令書を受け取った。


「……承知しました」


 傍らでリディアの指がかすかに動く。

 それまで王太子へ向いていた顔が、わずかに下がった。何を告げられたのか、分かっている様子はない。


「……みんな……まもら、なきゃ……」


 楽団が演奏を再開した。


 ロランは命令書を握り潰しそうになり、指の力を緩める。隣のリディアは、まだ同じ場所を見ていた。

 あの夜、北門へ駆け込む人々の列が途切れても、彼女は門の外に立っていた。

 明朝、ロランは彼女を南の国境へ護送し、王国の外へ送り出さなければならない。


 広間を出て北回廊を進んだところで、床を拭いていた下働きの少女が桶につまずいた。床についた膝から血が滲む。

 その赤い傷へ、リディアの視線が動いた。

 ロランの手から細い指がほどける。前へ倒れかけたリディアをロランが支えると、彼女は足をもつれさせながら少女の前に膝をついた。震える両手を、血の滲む膝へ重ねる。


「聖女様……?」


 指の間に淡い光が灯り、擦り傷がゆっくり塞がった。少女が礼を言ったときには、リディアの額に汗が浮かび、呼吸が浅くなっていた。

 以前なら、擦り傷ひとつで息を切らすことなどなかった。

 ロランは彼女を支え起こした。礼を聞き取れたのかは分からない。少女の膝から血が消えても、リディアの手はすぐには離れなかった。


 戦争から逃げた女だと、王太子は言った。

 だが最後まで門の外に残っていた聖女の背中を、ロランは忘れられなかった。


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