名前のない家族
お母さんがいなくなってから、季節は一巡りした。
ベランダから見える桜の木は青々と葉を茂らせ、セミが騒がしく鳴く夏が過ぎ、またあの冷たい秋風が吹き抜ける季節がやってきた。
お母さんの一周忌。
初七日や四十九日のときには、頭の中が真っ白で何が起きているのか分からなかったけれど、この一年で私は少しだけ背が伸びて、千夏さんの作る焦げた卵焼きに文句を言いながらも、二人分の味噌汁を手際よく作れるようになっていた。
法要を終えた午後。
我が家のリビングには、久しぶりに重苦しい空気が漂っていた。
遠方から新幹線に乗ってやってきたおじいちゃんとおばあちゃん。そして勝叔父さんが、仏前の前に並んで座っている。
千夏さんは「皆様、お茶をどうぞ」と慎重にお盆を運び、ペコリと深く頭を下げてから、少し離れた廊下近くの畳の上にぽつんと正座した。
一周忌という節目の法要が終わった今、親族たちがここに集まった理由はひとつしかなかった。
「……佐伯さん」
静寂を破り、口を開いたのは叔父さんだった。
「この一年間、希穂の面倒を見ていただいて、感謝しています。……ですが、一周忌も無事に終わりました。いつまでも、赤の他人であるあなたに希穂を預けておくわけにはいかないでしょう」
叔父さんは手元の書類をトントンとテーブルで揃えながら、冷淡な声で続けた。
「父さんも母さんも、足腰は悪いが、地元の施設やデイサービスを利用すれば希穂を引き取る準備はできると言っています。それに、小学校を卒業すれば中学校に入る。いつまでも『母の友達』なんていう曖昧な立場の人間と暮らしていたら、この子が世間からどんな目で見られるか……あなたも分かっているでしょう?」
世間体。世間の目。
叔父さんの言葉の端々には、「女同士のパートナー」に対する拒絶と偏見が透けて見えた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、申し訳なさそうに視線を落としながら、何も言わずに叔父さんの言葉を聞いている。高齢の二人にとって、自分たちの地元で親族として希穂を引き取るのが「正しい形」なのだと、自分に言い聞かせているようだった。
千夏さんは、膝の上で握りしめた自分の拳をじっと見つめていた。
「……はい」
千夏さんの声は、小さく掠れていた。
「皆様のおっしゃる通りです。私は……あかりの親戚でもありませんし、法律上の家族でもありません。希穂ちゃんの将来を考えたら、ご親族の元で暮らすのが、一番……」
千夏さんは一歩引こうとしていた。
私を守るためなら、自分の立場なんてどうでもいい。自分が身を引くことで希穂が正当な「家族」のもとで暮らせるのなら、それが一番なのだと、彼女なりに自分を納得させようとしていた。
その背中が、あまりにも小さく、頼りなく見えた。
あの夜、二人で仏前で抱き合って泣いた日のことを思い出す。
「お母さんに、会いたいよ!」と泣いた私に、「あかりが遺した一番大切な宝物を守りたい」と泣きじゃくった、あの愛おしい夜のことを。
(なんで……)
胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
なんで、この人はいつも自分を後回しにするんだろう。
なんで、大人たちは「世間」とか「法律」とか、そんな紙切れや噂話みたいなものばかり見て、私たちの「今」を見てくれないんだろう。
「……希穂。荷物の準備は、少しずつ進めておきなさい。次の春には向こうの中学校に――」
叔父さんがそう言って話をまとめようとした、その瞬間だった。
ダツ、と畳を蹴る音が響いた。
「希穂ちゃん……?」
驚く千夏さんの隣に、私は力強く膝をついた。
そして、膝の上で震えていた千夏さんの大きくてゴツゴツした手を、私の小さな両手で、ぎゅっと握りしめた。
「……希穂?」
叔父さんが不審そうに眉をひそめる。
私は大きく息を吸い込んだ。
一年前に告別式で背筋を伸ばしていたのは、大人の前で「良い子」を演じるためだった。でも、今の私は違う。自分の足で立ち、自分の人生を選ぶために、まっすぐに叔父さんとおじいちゃんたちの目を見据えた。
「私、ここにいる」
静かな、でも絶対に引かない声が、リビングに響いた。
「希穂、何を言っているんだ。お前はまだ子どもで――」
「子どもだからって、勝手に決めないで!」
私の叫びに、叔父さんが息を呑んだ。
「叔父さんたちが言いたいことは分かってる。千夏さんは『普通のお父さんやお母さん』じゃない。料理だって下手だし、洗濯物はピンク色に染めるし、すぐ泣くし、全然大人らしくない人で……!」
「き、希穂ちゃん、どさくさに紛れて酷くない!?」
驚く千夏さんの声を無視して、私は手にギュッと力を込めた。千夏さんの温かい体温が、手のひらから伝わってくる。
「でも! お母さんが倒れたとき、自分の仕事を投げ出して毎日私のお世話をしてくれたのは千夏さんだよ! 私が熱を出したとき、泣きそうな顔で手を握ってくれたのも千夏さん! お母さんがいなくなって、世界で一番寂しかった私と一緒に、声を上げて泣いてくれたのは……千夏さんなんだよ!」
涙が視界を滲ませたけれど、私は絶対に目を逸らさなかった。
「千夏さんは、お母さんが世界で一番大切にした人。そして、私にとっても……お母さんと同じくらい、大切な家族なの!」
家族。
その言葉を口にした瞬間、握っていた千夏さんの手がピクッと跳ねた。
「世間が千夏さんのことを何て呼んだってどうでもいい! 法律に名前がなくても関係ない! 私を一番に大切にしてくれて、私が大切にしたい人が、ここにいるんの。……私、これからも千夏さんと暮らしたい。千夏さんと一緒に、ここで生きていきたい!」
叫び終えた私の胸は、激しく上下していた。
ポロポロと溢れ落ちる涙が、二人の繋いだ手の上に落ちて濡らしていく。
リビングは、水を打ったように静まり返っていた。
叔父さんは何か言い返そうと口を開かけたが、私の強い眼差しと、その横で涙をボロボロと流しながら私の手を握り返す千夏さんの姿を見て、言葉を失っていた。
沈黙を破ったのは、おじいちゃんだった。
深く、深くため息をつくと、おじいちゃんは皺の刻まれた手で眼鏡を外し、目元を押さえた。
「……勝。もう、いいじゃないか」
「父さん! しかしだな――」
「あかりが死んだとき……わしらは悲しみに暮れるだけで、この子をどうするかという話ばかりしていた。だが、佐伯さんは違った。あかりが遺した希穂の『今日』と『明日』を、ずっと一人で支えてくれていたんだ」
おじいちゃんは静かに立ち上がり、千夏さんの前に歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「佐伯さん……申し訳なかった。そして、ありがとうございました。……あかりの選んだ人は、間違っていなかった。希穂を……どうか、これからもよろしくお願いします」
「え、え……っ!」
千夏さんは畳に額を擦り付けるようにして泣き伏した。
「私の方こそ……私の方こそ、ありがとうございます……っ! 希穂ちゃんを……希穂ちゃんの笑顔を、絶対に守りますから……っ!」
叔父さんも、おばあちゃんも、もう何も言わなかった。
大人たちの世間体や、公的な枠組みを超えて、十一歳の私が自分の言葉で掴み取った「ふたりの暮らし」。
お仏壇の中で、遺影のお母さんが「よく言った!」とでも言うように、満足そうに微笑んでいる気がした。
***
親戚たちが帰り、夕闇が迫るリビング。
法要の片付けを終えた二人は、疲れたように畳の上に座り込んでいた。
千夏さんは相変わらず涙でメガネを曇らせ、鼻を真っ赤にしている。
「……希穂ちゃん」
「なに?」
「さっきの……すごく嬉しかった。『大切な家族』って言ってくれて……全米が泣いたよ……」
「その表現なんですか。それに、本当のこと言っただけだし」
照れくさくて顔を背けると、千夏さんはふはっと温かく笑い、私の頭を大きくてゴツゴツした手で、乱暴に、でも愛おしそうに撫でまわした。
「ありがとね、希穂ちゃん」
「……髪がボサボサになります」
「いいじゃん! 家族なんだから!」
千夏さんは威張るように胸を張った。
そこにいるのは、完璧な保護者でも、立派な大人でもない。けれど、誰よりも私を愛し、お母さんが大切にしていた「パートナー」だ。
特別な名前なんてなくてもいい。
世間が私たちをどう呼んだって構わない。
焦げた朝ごはんと、伸びたうどんと、くだらない口喧嘩があるこの日常の中に、確かに私たちの「家族」は存在しているのだから。
窓の外には、一番星が静かに輝いていた。




