言えなかった理由、言わなかった理由
手に持った透明なファイルが、指先の中でカサカサと乾いた音を立てていた。
『パートナーシップ宣誓書受領証』
『公正証書 合意契約書・遺言状』
二枚の公的文書に印刷された、お母さんと千夏さんの名前。
言葉の意味も、法律の仕組みも、十一歳の私にはまだ完全には理解できない。けれど、そこに書かれた文字の羅列から、逃れようのないひとつの事実だけが重く突きつけられていた。
千夏さんは、お母さんのただの「親友」なんかじゃなかった。
「ただいまー! 希穂ちゃん、コロッケ安かったよー! あ、あとキャベツもちゃんと買ってきたからね!」
玄関から聞こえる、いつもの明るくて能天気な声。
靴を脱ぐ音、ビニール袋のカシャカシャいう音。廊下をパタパタと歩いてくる足音が、どんどんリビングへと近づいてくる。
「ちょっと希穂ちゃん、見てよこれ! 半額だよ――」
買い物袋を抱えてリビングのドアを開けた千夏さんが、ピタリと動きを止めた。
私の手元。そして、本棚の二段目。
千夏さんの丸メガネの奥の目が一瞬で大きく見開かれ、顔からさっと血の気が引いていくのがわかった。抱えていたレジ袋が、床へ落ちそうになるのを必死で手で押さえている。
「希穂……ちゃん……それ……」
「これ、なに?」
私の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
胸の奥で何かが破裂しそうだった。悲しさなのか、寂しさなのか、裏切られた怒りなのか、自分でも感情の整理が追いつかない。
「パートナーって、なに……? これ、どういうこと……!?」
「あ……えっと……それは、その……」
千夏さんは珍しく言葉を詰まらせ、視線を泳がせた。いつもの軽快な口調も、ふざけた態度も完全に消え去っていた。
「友達じゃ、ないんだよね!?」
声が裏返った。我慢しようと思っていたのに、涙が勝手に目から溢れ出してきた。
「千夏さん、お母さんの『親友』だって言ったじゃん! 学校の先生にも、周りの人にも、私の前でも、ずっと『お母さんの親友』だって言ってたじゃん! なんで嘘ついたの!?」
「希穂ちゃん、落ち着いて……! 嘘をつくつもりじゃなくて……」
「嘘じゃないなら何なの!? 女同士なんて、おかしいことなんでしょ!?」
叫んだ瞬間、千夏さんの体がビクッと跳ね上がった。
「叔父さんが言ってたよ! 女同士でそんなの気持ち悪いって! 世間に知られたらどう思われるか分からないって言ってた! だから私に隠してたの!? おかしいことだから、気持ち悪いことだから、私に嘘ついて騙してたの!?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。叔父さんの言葉を千夏さんにぶつけたいわけじゃなかったのに、戸惑いと悲しみがトゲのある言葉になって溢れ出てしまう。
「何がおかしいの!?」
千夏さんが、爆発するように叫んだ。
抱えていた買い物袋が床にドサリと落ち、コロッケのパックが転がった。
千夏さんは乱暴にメガネを外すと、涙でぐしゃぐしゃの顔を露わにして、畳の上にお互いの膝が触れ合うほどの距離へ激しく詰め寄ってきた。
「何がおかしいのよ……っ! どうして女同士だとおかしいの!? 私は……私はただ、あかりが好きだっただけだよ! あかりも、私を好きになってくれただけ! 男の人と女の人と同じように、ただ好きになって、一緒に生きていきたいって思っただけだよ! それの何がおかしいの!? 何が気持ち悪いの……っ!」
千夏さんは胸を上下させ、子供のように大声を上げて泣いた。
三十五歳の大人が、鼻水を垂らし、顔を真っ赤にして、ずっとずっと胸の底に押し込めていた怒りと傷をぶちまけている。
「気持ち悪くなんてない……っ! あかりと過ごした時間は、あかりと交わした想いは、私の人生で一番綺麗で、一番大切なものだったよ……っ! それを……そんな風に言われたくないよ……っ!」
千夏さんは畳に両手をつき、ポタポタと大粒の涙を床に落としながら、途切れ途切れに声を絞り出した。
「希穂ちゃんに嘘をついたのは……ごめん。本当にごめんね。でもね、気持ち悪いから隠したんじゃないんだよ……。希穂ちゃんを……騙したかったわけじゃないの……」
「……じゃあ、なんで……」
「守りたかったからだよ……っ!」
千夏さんが顔を上げた。涙で濡れた瞳が、まっすぐに私をとらえる。
「世間はね、叔父さんみたいに、私たちを簡単に『おかしい』って切り捨てるんだよ。……そんな冷たい言葉や偏見から、希穂ちゃんを守りたかったの。お母さんを亡くして悲しい思いをしてる希穂ちゃんが、学校や周りから変な目で見られたり、傷ついたり、嫌な思いをしたりしないように……あかりと二人で決めたんだよ。『希穂が大人になるまでは、私たちのことは親友って言おう』って……!」
千夏さんは震える手で自分の胸をぎゅっと掴んだ。
「関係の名前なんて、何でもよかった。『親友』でも『居候』でも……世間が私を何と呼んだってどうでもよかったの。私とあかりがどういう関係だったかより、私にとって一番大切だったのは……あかりが遺した一番大切な宝物を、希穂ちゃんを守ることだよ……っ!」
宝物。
千夏さんが言ったその言葉が、胸の奥に温かく、深く突き刺さった。
「あかりの代わりになんてなれないのはわかってる。でもね、あかりが愛したものを、私も同じように愛したいの。希穂ちゃんが笑って、ご飯を食べて、大きくなっていく姿を、一番近くで見守りたいの。……これは私のわがまま。あかりはそれを叶えてくれたんだよ」
千夏さんは大きくてゴツゴツした手を伸ばし、私の小さな手を両手でぎゅっと包み込んだ。
その手は震えていたけれど、驚くほど温かかった。
「私が希穂ちゃんと一緒にいたいって思う気持ちに……希穂ちゃんを守りたいって思う気持ちには、何一つ、嘘はないよ」
嘘をつかれたことが悔しかったのではない。
気持ち悪いなんて、本当は私も思っていなかった。
ただ、大好きな千夏さんとお母さんが、世間からそんな風に言われていたことが悲しくて、悔しくてたまらなかったのだ。
この人は、ずっと一人で戦っていた。
お母さんを失った途方もない絶望の中で、世間から私を守るために、「親友」という枠の中に自分を押し込め、ずっと笑っていたのだ。
「……バカ」
私の口から、掠れた声がこぼれた。
「千夏さん……バカだよ……っ」
「うん、バカだよ。大バカ野郎だよ……」
「一人で……我慢して……っ、気持ち悪くなんてないのに……っ! バカじゃないの……っ!」
堪えていた感情が決壊した。
私は千夏さんの胸に顔をうずめ、声を上げて泣き出した。
お母さんが死んでから、一度もこんなふうに泣いたことはなかった。親戚の前でも、告別式でも、「しっかりした良い子」でいようと必死に背筋を伸ばしてきた。
でも、もう無理だった。
「お母さんに……会いたいよぉ……っ!」
「うん……っ、会いたいねぇ……っ!」
「なんでお母さん死んじゃったの……っ! 寂しいよぉ……っ!」
「寂しいよぉ……っ! あかりぃ……あかりぃ……っ!」
千夏さんは私を押し潰さないように、でも力強く、両腕で私をしっかりと抱きしめてくれた。
リビングの奥、小さなお仏壇の遺影の中で、お母さんが優しく笑っていた。
二人で仏前に膝をつき、声を限りに泣いた。
お母さんがいなくなってからの数ヶ月間、溜め込み続けていた悲しみも、寂しさも、秘密を抱え込んでいた苦しさも、全部吐き出すように、私たちは抱き合って泣き続けた。
大人のくせに私以上に泣きじゃくる「母のパートナー」の腕の中で、私は初めて、自分の本当の孤独を誰かに預けることができた。
***
外の空気がすっかり夜の闇に包まれた頃。
泣き疲れた二人は、畳の上に並んで仰向けに転がっていた。
天井を見上げる千夏さんのメガネは涙で真っ白に曇っており、私も目が腫れ上がって重かった。お互いに鼻をすする音が、静かな部屋に交互に響く。
「……希穂ちゃん」
「なに……」
「鼻水、すっごい出てるよ」
「千夏さんこそ、メガネ曇ってて何も見えてないでしょ」
「ふふっ……ほんと、真っ白」
千夏さんがメガネを外して、スウェットの裾でゴシゴシと拭いた。
その顔は相変わらず情けなくて、鼻が真っ赤だったけれど、そこにはもう隠し事のない、本当の千夏さんがいた。
「ねえ、千夏さん」
「ん?」
「私……千夏さんとお母さんのこと、おかしいなんて思わないよ」
「……え?」
「ふたりがすごく大事に思い合ってたこと、分かったから」
千夏さんは一瞬目を見開き、それから、ふにゃりと崩れるような笑みを浮かべた。
今度の笑顔には、あの切なさや痛みの影はどこにもなかった。ただただ、温かくて、愛おしさに満ちた、本当の千夏さんの笑顔だった。
「ありがとう、希穂ちゃん」
千夏さんは横を向き、私の小さな手を自分の大きな手でぎゅっと握りしめた。
「これからも、一緒にいてくれる?」
「……千夏さんがちゃんとご飯作れるようになるまでは、いてあげます」
「えー! ハードル高っ! 生涯同居決定じゃん!」
「千夏さんがしっかりしないのが悪いんです」
「希穂様、容赦なさすぎるー!」
天井を見上げながら、小さく吹き出した。
秘密はもうなくなった。
お母さんはもういない。でもお母さんと同じように私を愛してくれる人がここにいる。
壊れた絆の破片を拾い集めるようにして、私たちは手探りで、新しい「家族」の第一歩を踏み出し始めていた。




