見知らぬ言葉
秋が深まり、街の街路樹が黄色や赤に染まり始めた頃のことだった。
その日は日曜日で、勝叔父さんが、手続き関係の確認のために我が家を訪れていた。
千夏さんは「おもてなしだ!」と気合いを入れ、朝からお茶菓子の準備やお茶汲みに奔走していた。けれど、勝叔父さんの態度はどこか冷ややかだった。
リビングのソファに座り、お茶を一口すすった叔父さんは、千夏さんが台所に引っ込んだ隙を見計らって、廊下にいた私にボソッと声をかけてきた。
「希穂。あの人……佐伯さん、ちゃんと飯作ってくれてるか? 変なこととか吹き込まれてないか?」
「……ごはんは(お惣菜とかだけど)、ちゃんと食べてるよ。変なことって何?」
「そうか……。まあ、あかりも病気で頭が弱ってたのかもしれんが、よりによってな。女同士でそんな……気味の悪い真似してさ。世間に知られたらどう思われるか」
吐き捨てるような、軽蔑の混じった低い声。
千夏さんにお礼を言うでもなく、どこか汚いものでも見るような目つきで部屋を見回す叔父さんの姿に、胸の奥が冷たく凍りついた。
(女同士で? 気味の悪い真似……?)
「叔父さん、それ、どういう意味?」
「ん? あー、いや、希穂は知らんでいいことだ。とにかく、何かあったらすぐ叔父さんに連絡するんだぞ」
叔父さんはそれ以上何も答えず、用件だけ済ませると逃げるように帰っていった。
玄関で見送った後、リビングに戻ると、千夏さんは叔父さんが残した湯呑みを静かに片付けていた。その背中はどこか小さく、唇をかみ締めながら黙々と作業をしている姿を見て、私は何も聞けなくなってしまった。
***
叔父さんの言葉が、どうしても頭から離れなかった。
『女同士で』『気味の悪い』。
それってどういう意味だろう。
叔父さんのあの嫌そうな言い方は、ただの友達に対するものじゃない。まるで何か、汚いものを見るような目だった。
千夏さんは「ただの親友だよ」と言っていた。お母さんの大好きな友達。
でも、もし本当にただの親友なら、なんで叔父さんはあんなに嫌そうな顔をするんだろう。なんで千夏さんは「親友だよ」と言うとき、あんなにも切なそうに笑うんだろう。
疑問が胸の中でどんどん膨らんで、苦しくなってきた。
千夏さんが「半額のお惣菜買って来るね!」とスーパーへ出かけた夕方。
私は、リビングの隅に積まれたままになっている千夏さんの段ボール箱の前に立っていた。
引っ越してきてからもうすぐ2ヶ月。
リビングの隅に積まれた千夏さんの段ボール箱は、相変わらず乱雑にガムテープが引きちぎられ、中身が溢れかえっていた。スケッチブックや画材、着替えの服がごちゃごちゃに突っ込まれていて、いかにも大雑把な千夏さんらしい。
けれど、部屋の中でたった一箇所だけ、驚くほど綺麗に片付けられている場所があった。
千夏さんが仕事に使っている、小さな本棚の二段目。
厚手のデザイン書やイラスト集が几帳面に背表紙を揃えて並べられているその隙間に、ひとつだけ、ひっそりと挟み込まれているものがあった。
薄い、透明なクリアファイル。
普段なら人の本棚を勝手に覗くなんて、絶対にやってはいけないことだ。
勝手に手を伸ばそうとしている自分に、激しい罪悪感が押し寄せてくる。手がかすかに震えた。
(何も出てこなければいい。ただの私の勘違いだったって思いたい――)
胸の中で言い訳しながら、私は息をひそめて、本棚の隙間からその透明なファイルをそっと引き抜いた。
ファイルを開いてみる。
中に大切そうに挟まれていたのは、十一歳の私がこれまで見たこともない文字が並ぶ、二枚の紙だった。
『パートナーシップ宣誓書受領証』
『公正証書 合意契約書・遺言状』
市役所のスタンプが捺された、硬い質感の用紙。
お母さんの名前。そして、千夏さんの名前。
二人の名前が、並んで綺麗に印刷されている。
「なに……これ……?」
声が漏れた。
パートナーシップ……? 公正証書……?
私には、書かれている法律用語の意味がさっぱり分からなかった。契約? 監護権? 遺言?
ただ、そこに書かれている文章を一つずつ目に追っていくと、お母さんと千夏さんが何年も前から、すごく硬くて重要な「約束」を交わしていたことだけは伝わってきた。
お母さんと千夏さんは、ただ「たまに家に遊びに来る仲良しな友達」じゃなかった。
二人の間には私の知らない、大人たちの深い繋がりがあったのだ。
でも――どうして?
どうして二人は、こんな書類を交わしていたんだろう。
なんで叔父さんは、これを「気味の悪い真似」なんて言ったんだろう。
「親友」じゃ、ダメだったの? 友達同士でこういう約束をするのは、おかしいことなの?
頭の中がぐちゃぐちゃになって、何一つ答えが出なかった。
ただ、千夏さんが私に言っていた「お母さんの親友」という言葉が、本当のことのすべてではないということだけが、ぼんやりと分かってしまった。
千夏さんは、私に隠し事をしている。
お母さんも、私に何も言わないままいなくなってしまった。
私は子どもだから、何も教えてもらえなかったんだ。二人の本当の関係も、あの難しそうな書類の意味も、全部子ども扱いされて蚊帳の外に置かれていたんだ。
手にした書類が、カサッと音を立てて震えた。
悲しいのか、寂しいのか、裏切られたような居心地の悪さなのか、自分でも処理しきれない感情が胸の底からこみ上げてきて、視界がじんわりと涙で滲んでいった。
ガタゴト、と玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ただいまー! 希穂ちゃん、コロッケ安かったよー!」
リビングから聞こえる、いつもの呑気で大人げない声。
私は難しそうな書類を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
この紙は何なのか。
千夏さんとお母さんは、本当はどういう関係だったのか。
何も分からないまま、でも「知りたい」という気持ちと「騙されていた」という戸惑いだけを抱えて、私は足音のする廊下へと向かった。




