ずっと好きな人
秋が深まり、通学路のイチョウ並木が鮮やかな黄色に染まり始めた頃のことだった。
十一歳の私にとって、学校は世間の縮図だ。大人たちが家の中でこっそり交わしている噂話や偏見は、子どもたちの素直すぎる言葉となって、教室の隅々にまで簡単に侵入してくる。
「ねえ、希穂ちゃん」
放課後、掃除用具入れの前で雑巾を絞っていたとき、同じグループの真由ちゃんがチラッと私を見ながら話しかけてきた。
「参観日に来てた人って、希穂ちゃんのおばさん?」
「……ううん。お母さんの友達」
「へえ、友達なんだ。親戚じゃないんだね」
真由ちゃんは悪気のない顔で、雑巾をパンパンと叩いた。
「うちのお母さんがね、『きれいな人なのに、結婚してないのかな』って言ってたよ。希穂ちゃんの面倒見てたら、彼氏とか作る暇もないんじゃない?って」
「……」
「もし希穂ちゃんがいるせいで結婚できないとしたら、ちょっと可哀想だよね」
バケツの水に、波紋が広がった。
真由ちゃんに悪意がないことは分かっていた。ただ、親が食卓で話していた雑談を、そのまま口にしただけなのだ。
けれど、「希穂ちゃんがいるせいで」という言葉が、トゲのように私の胸の奥深く刺さった。
言われてみれば、そうだった。
千夏さんは三十五歳で、部屋の中ではカピバラのTシャツを着てボサボサの髪をしているけれど、たまにおしゃれをして出かける時は、ハッとするほど綺麗な人だ。
なのに、千夏さんに男の影を感じたことは一度もなかった。休日は部屋にこもって原稿を描いているか、私と一緒に買い出しに行くか、二人でくだらないテレビを見て笑っているかだ。
(私のせいなのかな……)
胸の中がざわざわとした。
千夏さんは自分の家を引き払い、仕事の時間を削り、不慣れな家事をして、私という子どもの面倒を見ている。
もし私がいなかったら、千夏さんはもっと自由で、誰かと付き合ったり、結婚して自分の家庭を持ったりできたのではないだろうか。私の存在が、この人の人生の邪魔をしているんじゃないだろうか。
一度芽生えた疑問は、打ち消そうとすればするほど、どんどん大きくなっていった。
***
その日の夜。
夕飯のカレーを食べ終え、千夏さんが淹れてくれた温かい緑茶を飲んでいたときだった。
千夏さんはテレビのバラエティ番組を見て「ギャハハ!」と手を叩いて笑っている。いつも通りの、大人げない姿だ。
私は湯呑みを両手で包み込み、意を決して口を開いた。
「ねえ、千夏さん」
「んー? なになに、お代わり? おかわりなら自分で淹れてねー、私いま良いところだから」
「そうじゃなくて。……千夏さんって、彼氏とかいないの?」
ぽつりと投げかけた言葉に、千夏さんの手がピタリと止まった。
テレビの中の笑い声だけが、部屋に空虚に響く。
千夏さんはゆっくりと首をこちらへ向け、丸メガネの奥の目を瞬かせた。
「……え? 何急に? 彼氏?」
「いいから答えてよ。いるの? いないの?」
「んー……」
千夏さんは人差し指を口元に当て、いたずらっぽく片目を瞑った。
「ないしょー」
「えー! ズルい!」
「なになに、急にどうしたの希穂ちゃん? 恋のお悩み? 好きな男の子でもできた!?」
「ちがう! 私のことじゃなくて!」
ふざけて身を乗り出してくる千夏さんを、私は少し強めの声で押し返した。
千夏さんは「おっと」と体勢を直すと、不思議そうに私を見つめた。
「……今日、学校で友達に言われたの」
「友達に?」
「うん。『きれいなのに、彼氏いないのかな』って。『希穂ちゃんの面倒見てたら、結婚とかできないんじゃない?』って……」
言っているうちに、喉の奥がキュッと詰まりそうになった。
膝の上に置いた自分の拳にぎゅっと力を込める。
「……私、千夏さんの邪魔になってるんじゃないの? 私と暮らしてるせいで、自分の結婚とか、諦めたりしてない……?」
ずっと胸につっかえていた本音を吐き出すと、部屋の中にしんと静けさが戻ってきた。
千夏さんはテレビのリモコンを取り、画面の電源を消した。パッと静まり返ったリビングで、千夏さんは静かに私を見つめていた。
呆れられるか、笑い飛ばされるかと思った。
けれど、千夏さんの表情から冗談っぽい空気がすうっと消えていった。
「……そっか。そんなこと心配させてたんだ。ごめんね」
千夏さんは自分の膝の上に置いた緑茶の湯呑みを見つめ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
そして、何か大切な思い出を遠くから手繰り寄せるように、しばらく静かに考え込んでいた。
一秒、二秒、三秒。
長い沈黙の後、千夏さんはゆっくりと顔を上げた。
「いたよ」
「え……?」
「彼氏っていうか……ううん、恋人だね。すごく大切な人が、いたよ」
千夏さんの声は、いつもの高いおちゃらけた声ではなく、静かで落ち着いたトーンだった。
私は息を呑んだ。
「過去形……ってことは、別れちゃったの?」
「ううん、別れてないよ。……死んじゃったんだよね」
死んじゃった。
その一言が、私の胸にずしりと重く響いた。
あ、と声が漏れた。聞いてはいけないことを聞いてしまったような、触れてはいけない傷口に触れてしまったような激しい後悔が押し寄せてくる。
「ご、ごめんなさい……私、そんなこと知らなくて……」
「ううん、謝らなくていいんだよ。希穂ちゃんが気にするようなことじゃないんだから」
千夏さんはふっと優しく笑って、私の頭にポンと手を置いた。その手は、いつも通りあたたかかった。
「私ね、その人以上に好きになれる人なんて、この先も絶対に現れないと思うの。だから誰かと付き合うつもりも、結婚するつもりも最初からないんだよ。希穂ちゃんがいるから諦めたんじゃない。私が、自分でそう決めてるの」
「……でも、寂しくないの? ずっと一人なんて……」
私が尋ねると、千夏さんは少し首をかしげて、窓の外の夜空を見上げた。
その横顔は、いつも見ている大人げない千夏さんではなく、どこか遠い世界を見つめているような、美しくて切ない「一人の女性」の顔だった。
「寂しくないよ」
千夏さんは言った。
「だってね、今でも、これから先も、ずっとずっと大好きな人だから。会えなくなっても、どこかに行っちゃっても、私がその人を好きな気持ちは何も変わらないの。だから私、今すごく幸せだよ?」
まっすぐな瞳でそう語る千夏さんを見て、私は何も言えなくなった。
死んでしまっても、ずっと好きな人。
一生分の愛を捧げられる、たった一人の大切な人。
千夏さんの胸の中にいるその人は、一体どんな人だったのだろう。
どれほど深く愛されていたのだろう。
千夏さんは「さ! しんみりした話はおしまい! お茶飲んでお風呂入ろ!」と、いつものおどけた調子に戻って立ち上がり、パタパタとキッチンへ向かっていった。
その後ろ姿を見送りながら、私の胸の中に、不思議な違和感が残った。
――いたけど、死んじゃったんだよね。
千夏さんが言った「大切な人」。
私の頭の中に、ふと、亡くなったお母さんの顔が浮かんだ。
お母さんが病気で倒れたとき、誰よりも早く駆けつけて、自分の仕事を投げ出してまで看病していた千夏さん。
お母さんの遺影の前で、子どものように声を上げて泣いていた千夏さん。
私に「あかりの宝物だから」と、愛おしそうに言っていた千夏さん。
(……まさか、ね)
頭に浮かんだ突飛な考えを、私は慌てて打ち消した。
千夏さんとお母さんは、ただの仲良しな「親友」のはずだ。二人でゲラゲラ笑ってお酒を飲んでいた、大好きな友達同士のはずだ。
けれど。
千夏さんが言った「ずっと好きな人」という言葉の余韻が、私の胸の底で、静かに、けれど消えない波紋を広げ続けていた。




