雨の日の熱と、言葉
朝起きた瞬間から、体が鉛のように重かった。
視界が妙にフワフワとして、額の裏側でズキンズキンと重い痛みが波打っている。喉はカラカラに乾いていて、つばを飲み込むだけでも火で炙られたような激痛が走った。
「……う、そ」
自分の声が、自分ではないみたいに掠れていた。
カレンダーに目をやると、外は朝から冷たい秋雨が降っている。昨日の夜から急に肌寒くなっていたけれど、薄着のまま寝てしまったのが良くなかったのかもしれない。
私は重い体をなんとか起こし、壁に手をつきながら廊下へ出た。自分の部屋からリビングまでのわずかな距離が、まるで果てしなく遠い砂漠のように思えた。
「……千夏さん」
リビングのドアを開けると、ソファに突っ伏して原稿を描いている千夏さんの姿があった。締め切り直前なのだろう、デスクライトの灯りの下で液晶タブレットに向かい、必死にペンを走らせている。
私が部屋に入ってきた音に気づき、千夏さんが振り返った。
「あ、希穂ちゃんおはよう! ごめんね、今日ちょっと締め切りがヤバくて朝ごはん作れなさそ……って、え!? 希穂ちゃん!?」
私の顔を見た瞬間、千夏さんの表情が一変した。
フラフラと足元がおぼつかない私のもとへ、千夏さんは椅子を倒さんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「ちょっと、顔真っ赤だよ!? 大丈夫!?」
「……なんか、体、重くて……」
千夏さんが大きくてゴツゴツした手を、私の額にそっと当てた。
ひんやりとしたその手のひらの冷たさが、たまらなく心地よかった。
「あつっ! なにこれ、めちゃくちゃ熱いじゃん! 熱唱したあとのマイクくらい熱いよ!」
「……例えが、意味分かんないです……」
「しゃべらなくていい! ほら、ベッド戻るよ! つかまって!」
千夏さんは私を優しく支え、部屋のベッドへと連れ戻してくれた。布団を頭までかけ直してくれると、どこからか体温計を持ってきて私の脇に挟ませた。
ピピピ、と電子音が鳴る。千夏さんが体温計を引き抜き、表示画面を見た瞬間に「ひえっ」と短い悲悲鳴を上げた。
「三十八度八分……! 高熱じゃん! 完全なる高熱!」
いつもなら、ここで「どうしよう! 救急車!? 冷えピタどこ!?」と部屋中をパニックになって走り回り、かえって私を疲れさせるのが千夏さんのはずだった。
けれど――今日は違っていた。
「希穂ちゃん、ちょっと待っててね」
千夏さんは深呼吸をひとつすると、驚くほど静かで落ち着いた声で言った。
そのまま自室へ戻ると、スマホで素早く何かを操作する音が聞こえ、数分後に戻ってきた。
「よし。雨もひどいし熱も高いから、往診のお医者さん頼んだからね。もうすぐ家まで来てくれるって。学校にもちゃんと連絡しておいたから、希穂ちゃんは何もしなくて大丈夫」
「え……でも、千夏さん、お仕事……」
「仕事より希穂ちゃんの健康が百億倍大事に決まってるでしょ。今日の締め切りは担当さんに拝み倒して延ばしてもらったから! 今日は希穂ちゃんの看病に専念します!」
迷いのない、テキパキとした指示。
締め切り前で一番忙しいはずなのに、自分の仕事をあっさりとストップさせて私を最優先にしてくれた。普段は靴下すら裏返して脱ぎ散らかすような大人が、今の私に必要な手配を完璧にこなしていく。その姿に、私は熱に浮かされた頭で呆然とするしかなかった。
***
しばらくするとインターホンが鳴り、往診のお医者さんと看護師さんがやってきた。
手際よく診察と検査をしてくれ、季節外れの風邪と判明した。解熱剤と喉の薬を処方してもらい、看護師さんは「ゆっくり休んでね」と優しく声をかけてくれた。
お医者さんたちが帰り、静かになった部屋で、千夏さんは「ちょっと待っててね」と言って台所へ向かい、ガサゴソとレジ袋の音を立てた。あらかじめ買ってあったゼリー飲料と、レトルトのおかゆをレンジで温めて持ってきてくれる。
「はい、希穂ちゃん。梅おかゆとスポーツドリンク。熱冷ましシートもおでこに貼ろっか」
千夏さんはひんやりとしたシートを私のおでこに優しく貼り、温かいおかゆを小さなトレーに乗せて差し出してくれた。
スプーンですくって口に運ぶ。出汁のきいた温かいおかゆが、痛む喉を滑り落ちてお腹の底を温めてくれた。
「千夏さん……料理、作らなかったんですか」
私が掠れた声で尋ねると、千夏さんは照れくさそうに頭を掻いた。
「作ろうと思ったんだけどさぁ……前にあかりが『希穂が熱出したら絶対手作りおかゆとか作ろうとするなよ! あんたが作ったら鍋焦がして余計に大変なことになるんだから、大人しくレトルト使え!』って口酸っぱく言われてたのを思い出してさ」
「……お母さん、正しいです」
「でしょー? だから今日は文明の利器に頼ることにしました!」
千夏さんはふははと笑いながら、ベッドの脇の床に直接ペタリと座り込んだ。
壁に背中を預け、私の顔を覗き込むようにして見守っている。
薬を飲み、おかゆを半分ほど食べたところで、私は猛烈な不安と倦怠感に襲われ始めた。
熱のせいで頭がフワフワして、心まで細くなっていくような感覚。締め切りを伸ばしてもらったと言っていたけれど、本当なら今頃、部屋で必死にペンを走らせていなければいけないはずだ。イラストレーターの仕事は、締め切りを守れなければ次の仕事が来なくなるかもしれない厳しい世界だって、お母さんから聞いたことがある。
私を看病するために、千夏さんの大切な仕事が遅れてしまう。私が熱を出したせいで、また何かを壊してしまうんじゃないか。
急激な不安が押し寄せてきて、私は掛け布団をぎゅっと握りしめた。
「……千夏さん」
「ん? なに? お水飲む?スポドリがいい?」
「……ごめんなさい」
「え? なんで謝るの?」
千夏さんが不思議そうに眉をひそめた。私は掛け布団を口元まで引き上げ、掠れた声で本音をこぼした。
「私……迷惑、かけてますよね」
「……」
「千夏さん、大事なお仕事があるのに。本当なら、私の面倒なんて見ないで自分の仕事だけしてればいいのに……。私が急に熱なんて出すから、千夏さんのお仕事が遅れちゃう……」
言っているうちに、涙がじわっと目に溜まってこぼれ落ちた。
お母さんが死んでから、私は「しっかりしなきゃ」「迷惑をかけない『いい子』でいなきゃ」とずっと気を張っていた。それなのに、高熱を出して不安に耐えかね、この手のかかる大人に全部頼ってしまう自分が情けなくてたまらなかった。
千夏さんは、しばらく何も言わなかった。
ただ、静かに座り直し、膝を抱えるようにして窓の外の雨を見つめていた。
沈黙が流れる。
不安になって千夏さんの顔を見ようとした時、千夏さんがぽつりと口を開いた。
「希穂ちゃん」
その声は、普段のドタバタした千夏さんからは想像もつかないほど、静かで、低く、あたたかかった。
「人間ってね、ひとりで生きていけるようにできてないんだよ」
「……え?」
「迷惑かけないで生きるなんて、そんなの無理なの。子どもだって、大人だって、誰かに迷惑かけて、手助けしてもらって、そうやって生きてくものなんだよ」
千夏さんは窓から視線を外し、ゆっくりと私を見た。
メガネの奥の瞳は、まるで遠い昔の痛みを思い出しているかのように、優しく揺れていた。
「私ね、昔……誰にも頼れなくてさ。自分の存在が周りの迷惑なんじゃないかって思って、誰の目にもつかないところで一人で消えちゃいたいって思ってた時期があったの」
「……千夏さんが?」
「うん。頼ることは『ダメ』だと思ってたし、助けてって言うのが怖かった。でもね、そんな時にあかりが現れて、私の胸ぐら掴んで怒鳴ったんだよ。『一人で勝手に完結してんじゃないよバカ! もっと頼りなさいよ! 迷惑かけ合って生きていくのが友達でしょ!』って」
千夏さんはふっと柔らかく笑った。
「あの時、あかりに迷惑をかける許可をもらって、私は救われたの。……だからね、希穂ちゃん。仕事の遅れなんてどうとでもなる! 私に頼ることは全然迷惑なんかじゃないんだよ。頼ることはダメじゃないし、弱さでもないよ」
その言葉が、私の胸の奥にすうっと染み込んでいった。
痛みをたくさん知っている人だからこそ持てる、深くて優しい眼差しで、私の不安をまるごと包み込んでくれている。
「だからさ」
千夏さんは身を乗り出すと、私の頭に乗せた熱冷ましシートの上から、大きくて温かい手でぽんぽんと優しく叩いた。
「不安な時くらい、思いっきり甘えなさい。千夏さんお仕事遅れないでね〜、お水ちょうだい〜ってワガワー言いなさい。それが今の希穂ちゃんの『お仕事』なの。わかった?」
「……千夏さん、言い方が威張りすぎです」
「えっ、威張れてた!? やった、私今すごい『大人』っぽかったでしょ!?」
「……台無しです」
私が呆れて顔を背けると、千夏さんはガハハと嬉しそうに笑った。
いつもの、情けなくて手のかかる千夏さんに戻っていた。
でも、私の胸の中にあった「仕事の邪魔をしちゃいけない」「不安になっちゃいけない」という冷たい壁は、いつの間にか綺麗に溶けてなくなっていた。
「……千夏さん」
「ん?」
「……お水、おかわり」
「あいよっ! 冷たいやつ持ってくるね!」
パタパタと嬉しそうに部屋を出ていく千夏さんの足音を聞きながら、私は深く息を吐いた。
熱で不安だった心も、解熱剤とともに少しずつ落ち着いていく。
雨音はまだ続いていたけれど、この部屋の中は、驚くほどあたたかかった。




