エピローグ
ジリリリリ、と甲高い目覚まし時計が鳴る。
私はベッドの中で小さく伸びをして、掛け布団をすっと押しのけた。時計の針は午前六時三十分。カーテンを開けると、澄み切った朝の光が部屋いっぱいに広がり、ベランダの青空を柔らかく照らしていた。
洗面所で顔を洗い、パジャマから制服に着替えてリビングのドアを開ける。
すると同時に、鼻をかすめる香ばしいにおい――を、ほんのちょっとだけ通り越した、微妙に焦げくさいにおいが漂ってきた。
「あっ、やばっ! タイマー鳴る前に出さなきゃ! あつっ、熱い! 指が! 私の指が火傷の危機!」
キッチンでバタバタと一人でパニックになっているのは、もちろん千夏さんだ。
頭には相変わらずちょっと歪んだ水玉模様の三角巾、スウェットの胸元には大きく『快眠』と書かれている。ミトンをはめるのも忘れてトースターからパンを取り出そうとし、熱さに跳ね上がっていた。
「千夏さん、ミトン使ってくださいって言ったでしょ。学習能力ゼロですか?」
「あ、希穂ちゃん! おはよう! ううん、違うの、今日のトーストは絶妙な焼き加減を攻めようと思って! カリッふわの限界を!」
「で、結果は?」
「……ちょっと香ばしめのアッシュブラウンに仕上がりました」
千夏さんが自信なさげにお皿を提出してくる。
乗っていたのは、四隅がしっかり黒く焦げた食パンだった。一年前の「炭の塊」に比べれば遥かに進化しているけれど、相変わらずちょっと焦げている。
「もう……焼きすぎです。ほら、焦げ落としますから貸してください」
「うう……希穂様、朝からすみません……」
私は包丁の背でトーストの表面の焦げをカリカリと削り落とした。バターを塗り、その上に千夏さんが昨日スーパーで買ってきたイチゴジャムをたっぷりと乗せる。
コンロでは、私が昨日の夜から仕込んでおいたお味噌汁が温まり、香ばしい出汁の匂いを立てていた。お母さんに教わった、マヨネーズをほんの少し隠し味に入れた綺麗な黄色い卵焼きも、お皿に並んでいる。
「はい、朝ごはんです。千夏さん、お味噌汁よそってください。こぼさないでね」
「アイアイサー! 任せて、今日のお味噌汁よそうスピードは光速だから!」
「速さじゃなくて慎重さを求めてるんです」
文句を言いながらも、二人で食卓に向かい合って座る。
手を合わせて、声を揃えた。
「「いただきます」」
トーストをかじる。カリッとした食感の後に、甘いジャムとマーガリンのコクが広がる。焦げの苦味も、今ではなんだかこの家の「我が家の味」という感じがして、悪くない。
「ん〜〜! 希穂ちゃんの卵焼き、今日も最高! マヨネーズの隠し味が効いてるねぇ!」
「千夏さんだって、今日のお味噌汁の具、豆腐の形ぐちゃぐちゃですよ」
「えっ、味は一緒じゃん! 崩れ豆腐の味噌汁って言えば料亭っぽいよ!?」
「手際が悪いだけです。もう、千夏さんしっかりしてくださいよ」
「はーい、希穂様〜。一生ついていきますので、何卒ご指導ご鞭撻のほどを〜」
千夏さんはふざけて手を合わせ、ふにゃりと情けなく笑った。
三十代後半の大人なのに、相変わらず子どもっぽくて、家事も下手の横好きで、すぐ泣いて、すぐに騒ぐ。
でも、原稿の締め切り前で徹夜をしていても、毎朝必ず私を「いってらっしゃい」と送り出してくれる。私が学校から帰ると、どれだけ忙しくても「おかえり」と笑顔で出迎えてくれる。
世間体とか、法律の枠組みとか、血の繋がりとか。
そういう難しい言葉や名前は、私たちには何一つない。
学校の書類を書くとき、私たちは相変わらず少しだけ説明に迷うし、周囲から不思議そうな目で見られることだって、きっとこれからも完全にゼロにはならないだろう。
けれど、私たちが毎日ここでご飯を食べて、笑い合って、同じ時間を重ねていること。
それだけは、誰にも邪魔できない、絶対の真実だ。
ふと、ダイニングテーブルの端に目をやる。
そこには、小さな木製の写真立てが置かれていた。
写真の中のお母さんは、満面の笑みを浮かべてこちらを見つめている。
隣でドタバタと騒ぐ千夏さんと、呆れ顔でツッコミを入れる私。
そんな私たちの賑やかな朝の食卓を、お母さんは「相変わらず手がかかるわね」と呆れながらも、心から嬉しそうに見守ってくれている気がした。
「あ、希穂ちゃん! 時計見て! やばい、あと十分で家出ないと遅刻する時間だよ!?」
「えっ、千夏さんが無駄話ばっかりしてるからです! 急がなきゃ!」
「私も着替える! 今日打合せだ!」
「ええっ!早く着替えてください!」
バタバタと足音を立てて廊下を走る、いつもと変わらない騒がしい朝。
特別な名前なんてなくてもいい。
ここには、確かに、世界で一番温かい愛が溢れているのだから。
日差しの差し込むリビングに、今日もふたりの笑い声が元気に響き渡っていた。




