焦げた卵焼きと、大人の涙
鼻を突く異様なにおいで、私は目を覚ました。
香ばしい、を通り越して、何かがチリチリと炭化していくような煙くさいにおい。
枕元の目覚まし時計に目をやると、針は午前六時十五分を指していた。いつも起きる時間より、三十分も早い。
「……うそでしょ」
嫌な予感しかしない。
私は跳ね起きるようにベッドから抜け出し、パジャマのまま廊下へ飛び出た。リビングのドアを開けた瞬間、白く霞んだ空気と、換気扇のけたたましい回転音が視界と鼓膜を襲ってきた。
「ゲホッ、ゲホッ……! なんで!? レシピ動画の嘘つき! ヘルファイアじゃん!」
「千夏さん!!」
叫ぶと、コンロの前でフライ返しを片手にバタバタと悶絶していた千夏さんが、ビクッと肩を跳ね上げてこちらを振り返った。
頭にはなぜか水玉模様の三角巾を斜めに巻き、エプロンは紐がねじれたまま中途半端に結ばれている。丸メガネは白く曇り、その奥の目は真っ赤だった。
「ひ、希穂ちゃん! 起きてきちゃダメ! まだサプライズの途中だから!」
「サプライズじゃなくて火事です! 窓! 窓開けて!」
私が叫びながらベランダのサッシを全開にすると、冷たい秋の朝風が一気に流れ込み、白い煙を外へと押し出してくれた。換気扇を強にして、コンロの火を止める。
恐る恐るフライパンの中を覗き込むと、そこには四角いフライパンの形そのままに、真っ黒な炭の塊と化した「かつて黄色かったはずの物体」が無惨に転がっていた。
「……何ですか、これ」
「……たまごやき、です……」
「化石の間違いじゃないですか?」
「うぐっ……! 違うの、聞いて希穂ちゃん! 今日から正式な二人暮らしの初日じゃん!? 記念すべき一日目の朝だから、ちゃんとした朝ごはん作ろうと思って! 昨日ネットで『初心者でも絶対失敗しない朝食の神おかず』って動画を三回も見て予習したの! なのにフライパンに卵液を流し込んだ瞬間、なんかジュワアアッて暴走して……!」
千夏さんはフライ返しを握りしめたまま、半泣きで言い訳をまくしたてた。
足元を見れば、割れた卵の殻が床に散らばり、ボウルからは黄色い液体が垂れ、調味料の砂糖の容器はフタが開けっぱなしになっている。台所は、まるで小さな台風が直撃した後のようだった。
「……朝ごはんなら、トーストとバナナで十分だって昨日言いましたよね」
「だって! 引っ越してきた大人が初日からパンとバナナだけ出したら、希穂ちゃんに『こいつ本当に役立たずだな』って見限られちゃうじゃん! 私だって格好つけたいの! あかりに『初日くらいちゃんと食べさせなさいよ』って天国から怒られたくないの!」
千夏さんの情けない叫びに、私は深いため息をつきながらフライ返しを取り上げた。
時計を見る。六時二十五分。
七時半には学校へ行く準備をしなきゃいけない。私が一から作り直したほうが何倍も早い。
「千夏さんはあっち行っててください。床の卵の殻、踏まないで拾ってくださいね」
「うう……手伝うよ、希穂ちゃん……」
「邪魔です。おとなしく座ってて」
冷たく言い放つと、千夏さんは大型犬のように耳を垂らして、しょんぼりとリビングのダイニングチェアに座り込んだ。
私は新しいボウルを取り出し、卵を二つ割る。白だしを少しと、砂糖を小さじ一杯、みりんを少々。お母さんがいつも作ってくれた分量を覚えていた。
油を引いて、中火で熱し、余分な油をキッチンペーパーで拭き取る。卵液を三回に分けて流し入れ、手早く奥から手前へ巻き込む。
黄色い、ふんわりとした綺麗な長方形がフライパンの中に出来上がっていくのを、千夏さんがテーブルから身を乗り出して、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「す、すご……プロじゃん……。希穂ちゃん、なんでそんな簡単に巻けるの? 魔法?」
「普通です。お母さんの見てたら覚えます」
「あかり……あかりの卵焼きかぁ……」
千夏さんがぽつりと呟いた。
その声の響きに、チクッと胸が痛む。
お皿に卵焼きを切り分け、ご飯と、昨日の残りのお味噌汁を温め直して並べる。
テーブルに並んだ朝ごはんは、お母さんが生きていた頃とほとんど変わらない。
けれど――作っているのは、私自身だ。
本当なら、今頃はお母さんが「希穂、朝だよ、顔洗っておいで!」ってエプロン姿で笑っていたはずなのに。
胸の奥に湧き上がってきた黒い感情を誤魔化すように、私はフライパンに残った端っこの卵焼きと、千夏さんが作った「黒焦げの塊」のまだ焦げていない部分を小皿に盛り、テーブルの真ん中に置いた。
「……朝ごはんです。どうぞ」
「わあ、ありがとう……! いただきます!」
千夏さんは手を合わせると、真っ先に自分が作った焦げた卵のかけらを箸でつまみ、口に放り込んだ。
途端に、顔が激しく歪む。
「……にがっ! えっ、苦い! しかも甘い! 苦甘い! なにこれ新種の毒!?」
「当たり前です、炭なんだから」
「うう……人間が食べるものじゃない……」
涙目になりながら千夏さんは麦茶をガブ飲みし、次に私の作った綺麗な卵焼きをつまんで口に入れた。
もぐもぐと咀嚼した瞬間、千夏さんの動きが完全に止まった。
丸メガネの奥の目が、カッと見開かれる。
「……おいしい」
「どうも」
「おいしい……けど……」
千夏さんは箸を止めて、まじまじとお皿の上の卵焼きを見つめた。
「……あかりの味と、ちょっと違う」
その一言に、私の心の中で何かがプツンと音を立てて切れた。
「……当たり前じゃないですか」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭く尖っていた。
「私はお母さんじゃないです。お母さんはもういないんです。千夏さんが下手くそな卵焼きを焦がして騒いだって、私がどれだけ真似して作ったって、お母さんは二度と帰ってこないんですよ!」
言ってしまってから、息が詰まった。
八つ当たりだ。完全に、理不尽な八つ当たりだった。
千夏さんは私のために早起きしてくれたのだ。不器用なりに、同居初日を明るく始めようとしてくれただけなのだ。そんなこと、痛いほどわかっている。
でも、お母さんの味を知っている千夏さんに「違う」と言われた瞬間、自分がどんなに背伸びをしてお母さんの代わりを演じようとしても無駄なのだと突きつけられたようで、たまらなく惨めで、悔しかった。
怒られる、と思った。
せっかく作った大人に対して、十一歳の子どもが生意気に怒鳴り散らしたのだ。
私は唇をぎゅっと噛み締め、叱責を待つように視線を床へ落とした。
けれど。
返ってきたのは、怒声ではなかった。
「……っ、う……」
低いうめき声が聞こえて、おそるおそる顔を上げた。
千夏さんは、両手で顔を覆っていた。
その指の隙間から、大粒の涙がボロボロと溢れ出して、テーブルの上にポタポタと水滴の染みを作っていた。
「……え?」
「ごめん……っ、ごめんね、希穂ちゃん……っ!」
「千夏さん……?」
「悔しいよね……っ! 悲しいよね……っ! あかりの卵焼き、めっちゃ美味しかったもんね……っ! 甘くて、出汁がきいてて、ちょっと焦げ目がついててさぁ……あいつ、料理は大雑把なくせに、卵焼きだけは希穂ちゃんのために何回も練習して、めちゃくちゃ上手になってたんだよぉ……っ!」
千夏さんは、三十五歳の大人のくせに、人目を憚ることもなく声を上げて泣きじゃくり始めた。
メガネは涙でぐしゃぐしゃになり、鼻を真っ赤にして、スウェットの袖で乱暴に顔を拭っている。
「私……っ、情けないよ……! あかりに『希穂ちゃんのこと頼むね』って言われたのに……同居初日から台所爆発させて、煙だらけにして、希穂ちゃんに気を使わせて、料理まで作らせて……っ! 大人失格だよ……! 私なんかがここにいて、本当にごめんねぇ……っ!」
子どものようにしゃくりあげて泣く千夏さんを前にして、私は完全に呆然としてしまった。
怒るどころか、この人は私以上に傷ついて、私以上に悔しがって、私以上に泣いている。
お母さんが死んでから、私の前でこんなふうに感情を剥き出しにして泣いた大人は一人もいなかった。みんな私の前では「大人の顔」をして、背筋を伸ばし、可哀想な子どもを慰める側として振る舞っていた。
なのに、この人はどうだ。
十一歳の私よりもずっと無防備で、格好悪くて、情けない姿をさらけ出している。
「……泣かないでくださいよ」
胸の奥に渦巻いていたトゲトゲした苛立ちが、すうっと毒気を抜かれて消えていくのがわかった。
「大人のくせに、朝から大声で泣くのやめてください。ほら、ティッシュ」
「ずびっ……ありがとう……希穂ちゃん、優しい……天使……」
「天使じゃないです。ほら、鼻かんでください。汚い」
「ふごーーーっ!」
豪快に鼻をかむ音を聞きながら、私は深いため息をついた。
なんだかもう、怒っていることすら馬鹿馬鹿しくなってくる。
「……私の卵焼き、お母さんのと何が違いましたか」
私がぽつりと尋ねると、千夏さんは真っ赤な目をぱちくりと瞬かせた。
「え?」
「お母さんの味に近づけたいんです。何が違ったんですか」
「あ……えっとね」
千夏さんは涙を指先でぬぐいながら、思い出すように天井を見上げた。
「あかりの卵焼きはね、もっと……マヨネーズが入ってた」
「……マヨネーズ?」
「うん。隠し味にマヨネーズを少し入れると、冷めてもふわふわになるんだって、昔ドヤ顔で教えてくれた。『これは千夏には教えない秘伝のレシピだからね!』って言ってたけど、普通に目の前で作ってたから丸見えだったやつ」
千夏さんは、ふふっと少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、私も思わず口元が緩みそうになるのを必死でこらえた。
「……わかりました。明日はマヨネーズ入れます」
「ほんと!? やったぁ! 私、明日こそ焦がさないように弟子入りする!」
「弟子入りはいいです。千夏さんは座っててくれるのが一番の安全策ですから」
「ええーっ、厳しい!」
時計を見ると、七時を回っていた。
急いで着替え、ランドセルを背負い、靴を履く。
「じゃあ、学校行ってきます」
「あ、待って待って!」
千夏さんはバタバタと玄関まで走ってくると、水玉模様の三角巾を頭に乗せたまま、大きく手を振った。
「いってらっしゃい希穂ちゃん! 車に気をつけてね! 赤信号は止まるんだよ!」
「言われなくても止まります。千夏さんこそ二度寝して締め切り落とさないでくださいね」
「うっ、図星……! がんばって絵描きます……!」
マンションの外に出て、澄んだ秋の空気を吸い込む。
通学路を歩きながら、私は今朝食べた焦げた卵焼きの苦味と、大声で泣きじゃくったあの人の情けない顔を思い出していた。
お母さんがいない寂しさは、やっぱり消えてなくなることはない。
けれど――胸の奥の重たい石が、ほんの少しだけ削れて小さくなったような気がして、私は前を向いて歩き出した。




