変な同居人がやってきた
十一歳の子どもにとって、世界が終わる音は拍子抜けするほど静かだった。
ピピッ、ピピッ、と無機質に鳴り続けていたモニターの音が、ある瞬間にツーーーと平坦な一本の直線に変わった。それだけだった。もっと激しい雷が落ちるとか、地面が割れるとか、そういう分かりやすい合図は何一つなかった。
お母さんが死んだ。
夏休みが始まってすぐの、日差しが容赦なくアスファルトを焼く日のことだった。
私――花咲希穂が暮らすこの2DKの賃貸マンションは、もともとお母さんと私の二人きりの城だった。
私が物心つく前に、お母さんは離婚。「あんたには父親の記憶なんてないほうがスッキリしてていいでしょ!」と豪快に笑い飛ばす人だった。仕事は化粧品の営業で、毎日忙しそうにスーツを着てヒールを鳴らしていたけれど、朝ごはんとお弁当だけは絶対に手抜きをしなかった。部屋はいつも片付いていて、洗剤とシトラスのコロンが混ざったいい匂いがしていた。
それが、春の終わりに崩れ去った。
胃のあたりが痛いと言って病院に行ったお母さんは、そのまま入院することになった。最初は「ちょっと検査入院するだけ。有給休暇だと思ってホテル気分で寝てくるわ」なんて笑っていたのに、夏を迎える頃にはベッドから起き上がれなくなり、あっという間に遠くへ行ってしまったのだ。
お母さんが入院していた数ヶ月間、私を支えてくれたのは、近所に住んでいた「千夏さん」だった。
佐伯千夏。三十代か、大人の年はわからない。
お母さんの昔からの友達で、徒歩で十五分ほどのワンルームアパートに一人で住んでいる、フリーランスのイラストレーター。
お母さんが倒れてすぐ、千夏さんはリュックひとつで我が家に転がり込んできた。
『希穂ちゃん、あかりが戻るまで私がご飯係と留守番係やるからね! 任せて!』
鼻息荒くそう宣言した千夏さんだったけれど、その頼もしさは初日で脆くも崩れ去った。
千夏さんは、驚くほど家事ができなかった。
料理をさせれば味噌汁の鍋を派手に吹きこぼし、野菜を炒めればなぜか炭化させる。包丁の持ち方は見ているこっちがヒヤヒヤするほどおぼつかない。結局、千夏さんが担当するのは近所のスーパーやオリジン弁当で買ってくるお惣菜ばかりだった。揚げ物の茶色いパックがテーブルに並ぶのを見かねて、途中からは私がスマホでレシピを検索し、豆腐とワカメの味噌汁を作ったり、卵焼きを焼いたりするようになった。
掃除機をかければコードを自分の足に引っ掛けて盛大に転び、洗濯物を干せば靴下が片方ベランダから落ちて大騒ぎする。
どっちが大人で、どっちが面倒を見られているのか、さっぱりわからなかった。
それでも。
朝、学校へ行くときには、ボサボサの髪のまま玄関先まで小走りでついてきて「いってらっしゃい! 車に気をつけてね! 赤信号は止まれだよ!」と過保護すぎるほど手を振ってくれた。
夕方、重いランドセルを背負ってドアを開けると、リビングから「おかえり希穂ちゃん! 今日も生きててえらい!」と全力の声が飛んできた。
料理はダメでも、部屋の掃除と洗濯機を回すこと、そして私が帰る前にお風呂を沸かしておくことだけは、どんなに締め切りに追われていても意地でもこなしていた。お母さんがいないがらんとした部屋で、私がたった一人で暗闇を迎えることだけは、彼女が全力で阻止してくれていたのだ。
だから、感謝はしていた。
親戚の誰よりも早く駆けつけて、不器用なりに私の生活を支えてくれた「お母さんの仲良しなおばさん」。
でも――それはあくまで、お母さんの入院中という『非常事態』だからだと思っていた。
***
お母さんの四十九日が終わった、秋風が吹き始めた土曜日の午後。
我が家の玄関先で、激しい衝突音が響き渡った。
――ズガガガガ、バタン!
「ぎゃあああっ! 痛い! 角! 段ボールの角が私の向こうずねを直撃した! 骨折したかも、絶対ヒビ入った……!」
悲鳴とともにリビングのドアを体当たりで開けて入ってきたのは、巨大な段ボール箱を抱え、涙目で片足立ちをしている千夏さんだった。
緩くパーマのかかった肩までの茶髪はひっつめ髪にされ、丸いメガネは完全に右に傾いている。着ているのは、なぜか大きく『虚無』と胸元に筆文字で書かれたグレーのスウェットだ。
「……千夏さん、うるさいです。近所迷惑になりますよ」
私がソファから冷ややかに声をかけると、千夏さんは段ボールをドスンと床に落とし、そのまま畳の上に崩れ落ちた。
「だって痛いんだもん! 聞いてよ希穂ちゃん、アパートの階段降りるときも足踏み外しかけたし、トラックの運ちゃんは愛想ないし、私の体力ゲージはもう赤点滅なの! ポーション! 誰か私にポーションをください……!」
「そんなものありません。あと、靴を脱ぎ散らかさないでください。ほら、左足が廊下の真ん中に落ちてます」
「ううっ……容赦ない……。あかりそっくりの冷たい視線がアラサーの心に刺さる……」
千夏さんは床に突っ伏したまま、芋虫のようにのぞのぞと動いて靴を揃え直した。大人の女性とは思えない、あまりにもみっともない姿だった。
玄関を見ると、外の廊下にはさらに三つ、四つと大きな段ボールが積み上げられているのが見えた。
「……千夏さん」
「なーにー……」
「これ、なんですか」
「見ての通り、お引っ越しの荷物です……」
「引っ越しって……千夏さんのアパートの荷物ですか?」
「そうです。アパート、今月末で完全に解約したから。敷金あんまり戻ってこなかったよ、壁紙にインク飛ばしちゃってたからさぁ」
あっけらかんと言い放つ千夏さんに、私は思わず息を呑んだ。
アパートを引き払った?
じゃあ、この人はこれから、どこに住むというのだろう。まさか――。
「……本気ですか?」
私の声が自然と低くなった。
「お母さんの四十九日が終わったら、千夏さんは自分の家に帰るんだと思ってました。お母さんの遺言状のことも、親戚の人たちが勝手に大騒ぎしてただけで……千夏さんが本当に私の面倒を見るなんて、ただの冗談だと思ってたのに」
お母さんが遺した公正証書遺言。
そこには、万が一のとき、私・花咲希穂の未成年後見人および同居監護者として「佐伯千夏」を指定する、とはっきりと書かれていた。
新幹線で駆けつけた祖父母も、叔父も、最初は猛反対した。「赤の他人に小学生の女の子を任せられるか」「世間体が悪すぎる」と。
けれど、祖父母はすでに八十歳近く、足腰が悪くて自分たちの生活すらままならない。叔父の家には受験を控えた子どもが二人いて、希穂を引き取る余裕はどこにもなかった。何より、お母さんが生前、弁護士を雇って何重にも法的な手続きを固めていたため、親族側はぐうの音も出なかったのだ。
最終的に親族たちは、「希穂が小学校を卒業するまでのあいだ、生活の面倒は千夏が見る。財産管理は弁護士と親族が定期的に確認する」という妥協案を飲み、逃げるように自分たちの街へ帰っていった。
大人の都合で、私の人生の外枠が勝手に決められていくのを、私はただ黙って見ていた。
でも、それは親戚たちの勝手な押し付けだと思っていた。いくらお母さんに頼まれたからって、赤の他人である千夏さんが、本当に自分の自由や生活を捨ててまで、小学生を引き受けるはずがないと高をくくっていたのだ。
「冗談なわけないじゃん」
千夏さんは床からゆっくりと身を起こした。
メガネの位置を指先でクイと直し、あぐらをかいて私と視線の高さを合わせる。さっきまでの情けない表情は消えて、少しだけ困ったような、でも真っ直ぐな目をしていた。
「あかりと約束したんだもん。希穂ちゃんが大人になるまで、この家でちゃんと暮らせるようにするって」
「……約束って、千夏さんはただのお母さんの友達でしょう? 親戚でもないのに」
「友達だよ。超がつくほどの大親友」
「親友だからって、他人の子どもを育てる義務なんてないじゃないですか!」
思わず声が尖った。
自分でも、なぜこんなに怒っているのかわからなかった。入院中、そばにいてくれた千夏さんには感謝しているはずなのに。いざ本当にこの人が私の日常に居座り、母親のいなくなった空間を埋めようとしているのを見ると、胸の奥がチクチクと苛立ちで逆撫でされるのだ。
「千夏さん、料理もできないじゃないですか」
「うっ」
「洗濯だって、この前私の白いシャツと自分の赤い靴下を一緒に洗って、ピンク色に染めましたよね」
「うぐっ……あれは事故……不可抗力……」
「仕事だって忙しいんでしょう? 部屋にこもって絵を描いてなきゃいけないのに、私の朝ごはん作ったり、学校の書類にサインしたり、そんなの邪魔なだけじゃないですか。お金だってかかるし、自分の自由も無くなるのに……なんで?」
私の鋭いツッコミに、千夏さんは見る見るうちに小さくなり、両手で頭を抱えて唸り声を上げた。
「うわあああ、全部正論! 十一歳の切れ味鋭いナイフがアラサーの急所を的確に刺してくる! 痛い痛い痛い!」
「茶化さないでください!」
「茶化してないよぉ……! 全部希穂ちゃんの言う通りだよ! 私、家事スキルゼロだし、締め切り前は部屋をゴミ屋敷にするし、大人の自覚なんてこれっぽっちもないダメ人間だよ!」
千夏さんは畳に額を擦り付けるようにして叫んだ。
あまりの情けなさに、私は怒りを通り越して唖然としてしまった。普通の大人なら、「子どもは黙って大人の言うことを聞きなさい」とか、「私が我慢してやってるんだから感謝しなさい」とか、そういう偉そうな態度をとるはずだ。
なのにこの人は、真っ向から自分の無能さを認めて、子ども相手に頭を抱えてジタバタしている。
「……だったら、なんで断らなかったんですか」
呆れ混じりに尋ねると、千夏さんはピタリと動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
乱れた前髪の隙間から覗くその瞳は、さっきまでの大騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
「断るわけないじゃん」
ぽつりと、掠れた声がこぼれた。
「あかりが、一番大事にしてた宝物なんだよ。希穂ちゃんは」
「…………」
「あかりはね、自分が死ぬことよりも、希穂ちゃんが一人ぼっちになることを一番怖がってた。自分の命が消える瞬間まで、希穂ちゃんのことだけを心配してた。……そんなあかりの頼みを断ったら、私、一生自分を許せなくなっちゃうよ」
千夏さんは口元に、ふわりと薄い笑みを浮かべた。
私はその顔を見て、言葉を失った。
お母さんが死んでから、親戚も、近所の人も、学校の先生も、みんな「可哀想に」「大変だったね」と腫れ物に触るような顔で私を見た。誰も私のお母さんの本当の痛みに触れようとはしなかった。
でも、千夏さんだけは、お母さんが抱えていた恐怖や苦しみを、まるで自分のことのように引き受けて泣きそうな顔をしている。
「……それにさ」
千夏さんはスウェットの膝をぽんぽんと叩き、いつものおどけた調子を取り戻すように立ち上がった。
「私、一人は寂しいし。希穂ちゃんがいてくれたら、美味しい野菜炒め作ってもらえるし、脱いだ靴も揃えてもらえるし、めっちゃ助かる!」
「都合のいい家政婦扱いしないでください!」
「あはは、バレた? ほら、とりあえずこの段ボールを部屋に運ぶの手伝ってよ希穂様ー! 腰が限界突破しちゃう前に!」
「……手伝いません。自分の荷物は自分で運んでください」
「ええーっ!? 冷たい! 小学生の氷の微笑!」
文句を言いながらも、千夏さんはフウフウと息を切らしながら廊下の荷物を運び込み始めた。
リビングの半分が、あっという間に茶色い段ボールの山で埋め尽くされていく。
本がぎっしり詰まった重い箱、パソコンの周辺機器、画材の筆や絵の具、無造作に詰め込まれた洋服。お母さんがきれいに整頓していたリビングが、見る影もなくごちゃごちゃと散らかっていく。
「あーっ! ちょっと待って、この箱の底抜けた!」
千夏さんの悲鳴が響き、ガシャガシャと音を立ててスケッチブックや雑誌が床に散らばった。
「もう……だから言ったのに……」
私は深いため息をつきながら、結局ソファから腰を上げた。放っておいたら、この変な大人は夜になる前に部屋の中で遭難してしまうに違いない。
「千夏さん、どいてください。私がやりますから」
「希穂ちゃん……! 神様、仏様、希穂様……!」
「大げさです。あとで晩ごはん、スーパーのコロッケ買ってきてもらいますからね。あとキャベツ」
「了解であります! 特売のやつ買ってくる!」
床に散らばった本を拾い集めながら、私は心の中で小さく吐息を漏らした。
お母さんのいない部屋は、こんなにも静かで、暗くて、寒いはずだったのに。
この落ち着きのない、大人げない同居人のせいで、しんみり悲しみに浸る隙間すら奪われていく。
怒ったり、泣いたり、そうかと思えば急に胸に刺さるような言葉を口にしたりする。
お母さんはどうして、こんなにも手のかかる人を私の「保護者」に選んだのだろう。
ただの仲の良い友達。
その言葉だけでは説明がつかない何かが、この人の瞳の奥にあるような気がして、私は段ボールを抱えながら、そっと千夏さんの背中を見つめた。




