第二十四章 さよならの回収
十二月の中頃、依子さんから連絡が来た。
「七番目の教室が、消えた」
「消えた?」
「今朝確認したら、壁になっていた。ドアがなかった。ただの廊下の突き当たりだった」
「自然に消えたんですね」
「そう。急に消えたわけじゃなくて、少しずつ薄れていって、今朝見たらなかった。依子さんとしては、静かに消えてくれてよかった」
「るりさんは?」
「怪異として残っていたものは、全部消えた。ただし」
「ただし?」
「記憶の中には残っている。それは消えない。消えなくていい」
「はい」
「最後に一回だけ、旧校舎に行ってみていいよ。見届けたいなら」
「行きます」
放課後、旧校舎に行った。
依子さんと、晴澄さんと、志季さんと、私とルチルで。
透子にも連絡したら「行きます」と即答だった。
六人と一匹で、旧校舎に入った。
廊下を歩いた。一階、二階と上がった。
二階の廊下は、静かだった。
怪異の気配がなかった。感応を開いても、ただの廊下の感触しかなかった。古い木の床、埃の匂い、冬の乾いた空気。それだけだった。
六番目の教室の前まで来た。
廊下の突き当たりを見た。壁だった。
ただの、白い壁だった。ドアはなかった。七番目の教室は、なかった。
「なくなりましたね」
晴澄さんが言うと、「なくなりました」と私は言った。
「寂しい?」
透子が問いかけた。
「少し」
「私も。あの教室に入れてよかったと思う。あそこで、るりさんにありがとうって言えたから」
「透子さんが言ってくれてよかったです」
「私みたいな人間でも、言えることはあるんだな、と思った」
「透子さんだから言えた言葉だと思います」
依子さんが壁の前まで歩いた。手を当てた。
「何も残っていない」
「感応では?」とルチルが聞いた。
「薄くなった感触があるだけ。怪異の痕跡というより、長い間何かがあった場所の、かすかな跡」
「それでいいですね」
私は言った。
「うん。これが正しい形だと思う」
志季さんが「先輩は大丈夫ですか」と晴澄さんに話しかけた。
「大丈夫。ここを見て、悲しいというより、終わったな、という感じ」
「終わった、というのは」
「るりがここにいた、ということが、正式に終わった気がする。怪異としてここにいることが、終わった。それは、悲しいことじゃない」
「そうですね」
「記憶の中にはいる。これからも、少しずつ戻ってくるかもしれない。でも、怪異としてここに縛られることは終わった」
「よかったです」
晴澄さんが壁を見た。
「るり」
小さく呼んだ。
「終わったね。よかったね」
誰も何も言わなかった。
廊下に、静かな時間が流れた。
感応を通じて、何も来なかった。
何も来ない、というのが、答えだと思った。
もう、ここにはいない。
でも、消えたわけではない。
形が変わった、それだけだった。
旧校舎を出た。
冬の夕方は早く、外は薄暗かった。街灯が灯り始めていた。
透子が「先輩たち、お疲れ様でした」と言って、颯爽と歩いていった。バイトがあると言っていた。
依子さんが「私も書類の整理があるから先に行く」と言った。「お疲れ様、みんな」
「お疲れ様です」
依子さんが歩いていった。振り返りもせず、ただ歩いていった。それが依子さんらしかった。
志季さんが「私も用事があるので」と言った。晴澄さんを見た。「先輩、大丈夫ですか」
「大丈夫」
「本当に?」
「本当に。今日は信じていい」
「……分かりました。ましろさん、あとは頼みます」
「任せてください」
「先輩、また明日」
「うん、また明日」
志季さんが歩いていった。
晴澄さんと私とルチルが残った。
しばらく、三人で旧校舎を見ていた。
「長かったね」
晴澄さんが言った。
「四年間、ですか」
「るりにとっては四年間。私にとっては、この数ヶ月。でも、長かった感じがする」
「先輩が覚えていられなかった四年間も、先輩の時間だったから」
「そうね。何かを失くしている感覚があった四年間。それも、るりがいた時間の続きだった」
「はい」
「やっと、本当に終わった気がする」
「先輩にとって、終わった、というのはどういうことですか」
「るりのことを、正しく持てるようになった気がする。欠落として持つんじゃなくて、記憶として持てるようになった」
「記憶として持つ」
「そう。欠落だと、空白だから、何があったか分からない。でも記憶だと、ちゃんとある。重さが違う」
「記憶の方が、重い?」
「重さが、正しい重さになった、という感じ。欠落は、形のない重さだった。記憶は、形のある重さ」
「形のある重さは、持ちやすいですよね」
「持ちやすい。まだ重いけど、持ちやすい」
「少しずつ、軽くなりますか」
「軽くなるかどうかは分からない。でも、持ち方が上手くなる気はする」
「持ち方が上手くなる、か」
「依子さんが言っていた。後悔は手放すんじゃなくて使う、と。記憶も同じかもしれない。消えなくていい。持ち方を覚えればいい」
「先輩らしい解釈ですね」
「そう?」
「整理して、使えるようにする。先輩らしい」
「整理癖があるから」
「いいことだと思います」
「でも、整理できないものもある」
「できなくてもいいんじゃないですか」
「そう思う?」
「整理できないまま持っていることも、あっていいと思います」
「あなたみたいに?」
「私はたいてい整理できていないので」
「そうでもないよ。あなたはあなたなりに整理している」
「そうですか」
「感応を使って整理してる。他の人が感情を言葉で整理するところを、あなたは受け取ることで整理している。そういう整理の仕方があるんだと思った、あなたを見ていて」
「……考えたことがなかったです」
「あなたが気づいていないことを、私は外から見ているから気づく。そういうこともある」
「先輩が私のことを見ていてくれているんですね」
「見ているよ。ずっと」
「それは嬉しいです」
「受け取れた?」
「受け取れました」
「よかった」
晴澄さんが旧校舎から目を離して、私を見た。
「ましろ」
「はい」
「これから、どうしたい?」
「これから?」
「保管局の仕事も、私との関係も、全部含めて。これから、どうしたいか」
私は少し考えた。
「保管局の仕事は、続けたいです。見習い期間が延長になったので。依子さんから教わることがまだたくさんある」
「うん」
「ルチルと一緒に、動き続けたい」
「うん」
「先輩とは」
「うん」
「一緒にいたいです。隣に」
晴澄さんが、私の言葉の続きを待つように見つめた。
「それは」
「はい」
「私もそう思っている、と言った」
「言ってくれました」
「覚えているのね」
「覚えています、全部」
「全部?」
「先輩が私に言ってくれたこと、全部」
「それは、感応のせい?」
「感応のせいではないです。ただ覚えている」
「なんで」
「大事だから」
晴澄さんが少し間を置いた。
「……覚えていてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「上手くなったね、どういたしまして」
「練習しました」
「誰と?」
「先輩と」
「私が練習に付き合っていたのね、また」
「知らないうちに」
「教えてほしかった」
「教えたら意識してしまうので」
「さっきも同じことを言った」
「同じことです」
晴澄さんが笑った。
「ましろ、一個いいですか」
「どうぞ」
「手、つないでいい?」
「……はい」
晴澄さんが、私の手を取った。
冷えていた。冬の夕方の手だった。
でも、握ってくれた。
「冷たいですよ」
「あなたの手も冷たい」
「そうですね」
「でも、つないでいた方が温かくなる」
「そうですね」
「しばらく、このままでいい?」
「います」
旧校舎を見ながら、二人で立っていた。
ルチルが肩の上で、何も言わなかった。
尻尾が、ゆっくり揺れていた。
「ルチル」
「なんだ、晴澄」
「あなたは、今どんな感じですか」
「どんな感じ、とは」
「るりの怪異が消えて、七番目の教室が消えて。今、どんな感じがするか」
ルチルが少し間を置いた。
「……軽い」
「軽い?」
「文化祭の後から言っているが、軽い。重かったものが、なくなった感じ」
「悪い軽さじゃないですか」
「悪くない。ただ、空いた感じもする」
「空いた」
「重さがあった場所が、空いた。でもそこに、別のものが入り始めている」
「何が入っているんですか」
「……まだよく分からない。でも、空のままではない」
「ましろとのことが、入っているのかもしれない」
晴澄さんが言う。
「かもしれない」
ルチルは否定しなかった。
「それでいいと思います」
私が言うと、
「うん」とルチルが答えてくれた。
「うん、って言えるようになりましたね、ルチル」
「……成長とは言わないでくれ」
「言いません。ただ、気づいた」
「……」
「嬉しいです」
「だから礼は」
「言いたいので言います」
「……知っている」
晴澄さんが少し笑った。
「あなたたち、漫才みたい」
「漫才?」
ルチルはちょっぴり不愉快そうにしていた。
「同じパターンの会話を繰り返す」
「繰り返しているつもりはない」
「でも毎回、礼は要らない、言いたいので言います、知っている、って言う」
「……それが会話のリズムだ」
「そうね。でも見ていると、安心する」
「安心?」
「変わらないから。二人の間のやり取りが変わらないから、安心する。この人たちは大丈夫だ、ってなる」
「……そうか」
「そういうものを持っているのは、いいことだと思う」
ルチルが尻尾を揺らした。
「……そうかもしれない」
「そうです」
「断言するな」
「断言します」
「うるさい」
「はい」
「……」
ルチルが黙った。
でも、怒っていない黙り方だった。
そろそろ行こう、という話になった。
旧校舎に背を向けて、歩き出した。
晴澄さんと手をつないだまま歩いた。
「るりも、今日の私たちを見ていたかな」とルチルが言った。
また、誰かに向けたわけでもない言い方だった。
「見ていたと思います」
私は伝えた。
「そうだな」
「どんな顔で見ていたと思いますか」
「笑っていると思う」
「明るい笑い方で?」
「明るい笑い方で。頭が後ろに傾く笑い方で」
「それがるりさんらしい」
「そうだ」
「ルチルも、その笑い方を覚えているんですね」
「……覚えている」
「よかったです」
「よかった、とはどういう意味で」
「ルチルの中に、るりさんがいる、ということだから」
「……そうか」
「先輩の中にも、私の中にも、ルチルの中にも。るりさんがいる」
「消えていないということだな」
「消えていない。形が変わっただけ」
ルチルが「うん」と言った。
「それでいい」と晴澄さんが言った。
「はい」
「それが、正しい形だと思う。誰かを失くすことは、その人が消えることじゃなくて、形が変わることだから」
「先輩、上手い言い方をしますね」
「るりのことを考えながら、考えていた」
「そうですか」
「いつか、志季にも話したい。ちゃんと話せたら」
「志季さんは、聞いてくれると思います」
「そうね。あの子は、ちゃんと聞く子だから」
「はい」
「ましろ」
「はい」
「今日、旧校舎に来てよかった。見届けられてよかった」
「私も来てよかったです」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「すぐ言えるようになったね」
「練習の成果です」
「これからも練習を続けていいよ」
「続けます」
「付き合う」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人で少し笑った。
ルチルが「うるさい」と言った。「何がですか」とまた聞いた。
「また胸がうるさい」
「すみません」
「謝らなくていい。ただうるさいと言いたかっただけだ」
「嫌ですか」
「……嫌いではない」
「よかったです」
「……知っている」
街灯の光の下を歩いた。
三人で、夜の始まりの街を歩いた。
るりさんのことを話しながら、でも重くなくて、ただ歩いた。
さよならの回収、という言葉が頭の中に浮かんだ。
さよならを回収する。
怪異として残ったさよならを、ちゃんと受け取って、記憶として持ち直す。
それが、今日やったことだった。
回収できた。
なかったことにはならなかった。
さよならがあったことを、ちゃんと持っていられる。
「ましろ」
「はい」
「手、まだ冷たい」
「先輩の手も冷たいですよ」
「でも温かくなってきた」
「そうですね、少し」
「もう少し歩こう」
「はい」
「温かくなるまで」
「一緒に歩きます」
「うん」
歩いた。
夜の久瀬の街を、三人と一匹で歩いた。
るりさんを覚えながら、でも重くなくて、温かくなっていく手のひらを感じながら。
それが、今夜のさよならの回収の終わりだった。




