最終章 きみの落としものを拾うまで
十二月の終わりが近づいていた。
久瀬の街に、クリスマスの飾り付けが増えた。商店街の電飾が夜に輝いて、駅前にツリーが立った。空気が乾いて、吐く息が白くなった。
学校は冬休みまであと数日だった。
朝の通学路を歩きながら、私はいつものように、道の端を気にしていた。
癖だった。ずっとそうだった。落とし物がないかを、無意識に確認する癖。
でも今朝は、ただそれをしながら、変な気持ちになっていた。
「どうした」とルチルが肩の上で言った。
「ん、なんでもないです」
「顔が変な顔をしている」
「どんな顔ですか」
「考えていない顔と考えている顔の中間」
「そんな顔があるんですか」
「おまえ独自の表情だ」
私は少し笑った。
「今日で、今年最後の登校日ですね」
「そうだな」
「色々ありました、今年」
「そうだな」
「ルチルとも、今年出会ったわけで」
「そうだ」
「どう思いますか、振り返ると」
ルチルが少し間を置いた。
「悪くなかった」
「悪くなかった、ですか」
「悪くなかった」
「それだけですか」
「……良かった、と言えるかもしれない」
「言えるかもしれない、じゃなくて、良かったですか」
「……良かった」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている」
いつものやり取りだった。
いつものやり取りが、今日は特別に感じた。年の終わりだからかもしれなかった。
学校に着くと、木乃葉がいた。
「ましろ、今日で最後だね、今年」
「そうですね」
「冬休み、どっか行く?」
「特に予定はないです」
「家にいるの?」
「保管局の仕事が少しある。でもたいていは家にいます」
「今年さ」
木乃葉が少し言いにくそうにした。珍しかった。
「なに?」
「ましろ、なんか変わったと思う。良い意味で」
「そうですか」
「最初は、いつも通りおとなしくて、落とし物が気になるだけの子、みたいな感じだったのに」
「今は?」
「なんか、芯が見えるようになった感じ。前から芯はあったんだけど、それが外から分かるようになった」
「外から分かる?」
「前は、全部自分の中に持っていた感じがした。今は、少し出せるようになった感じ」
私は少し考えた。
「受け取り方が上手くなった、とは晴澄さんにも言われました」
「そうだ、榊先輩と仲良くなったんだね」
「なりました」
「どういう関係になったの?」
「……大切な人、です」
「大切な人」
「はい」
木乃葉が少し間を置いた。
「ましろがそういうことを言えるようになったのも、変わったとこだと思う」
「そうですか」
「前は、自分のことをあまり言わなかったから。他人の感情は受け取るのに、自分のことは言わない子だった」
「今も、あまり言えていないですが」
「でも、少し言えるようになった。わたしに言ってくれたこと、今年何度かあった」
「木乃葉が聞いてくれるから」
「そういう風に言えるのも、変わったとこ」
木乃葉が笑った。
「冬休み、どこかで会おう。ましろの話、聞かせてほしい。言える範囲でいいから」
「話します、言える範囲で」
「約束ね」
「約束」
昼休みに、晴澄さんに会いに行った。
廊下で見かけたら、先に気づいてくれた。
「ましろ」
「はい、先輩」
「今日で今年最後ね」
「そうですね」
「冬休みの間、会えますか」
「会えます。連絡してください」
「連絡する」
「はい」
「るりの記憶、また少し戻ってきた」
「最近は頻繁に戻ってきていますね」
「封印が完全に解けたから。じわじわと」
「どんな記憶でしたか」
「図書室で一緒にいたとき。あなたも一緒にいたみたい」
「私も?」
「三人でいる場面が浮かんだ。誰かがいる、という感じで。顔はまだはっきりしないけど」
「それは」
「あなたじゃないかと思って」
「そうかもしれないですね」
「三人で図書室にいた。本のことを話していた。るりが笑っていた」
「どんな笑い方でしたか」
「頭が後ろに傾く笑い方」
「そうですね、そういう笑い方をする人でした」
「あなたも覚えているのね、細かいことを」
「大事なことなので」
晴澄さんが少し笑った。
「ましろ」
「はい」
「来年も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「こちらこそ、とすぐ言う」
「でも本当のことです」
「分かってる。受け取った」
「はい」
前なら、失くさないように祈るだけだったかもしれない。
今は違う。なくさないために、これから先も関わっていこうと思えた。
「冬休みの間、連絡するね」
「待っています」
「待っていてくれるんですね」
「はい」
「……嬉しい」
「私も嬉しいです、先輩が嬉しいと言ってくれると」
「また上手いことを言う」
「上手いことではないです」
「そうね。あなたの場合は、正直なことを言っている」
「はい」
「正直なのがいいところだと思う」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
晴澄さんがそれを言えるようになったのも、この数ヶ月のことだった。
整えなくていい場所での、練習の結果だった。
放課後、保管局に寄った。
依子さんが大掃除をしていた。棚の整理をして、書類を片付けていた。
「来たね。手伝って」
「はい」
一緒に棚の整理をした。
保管されている遺失物を確認しながら、ラベルを貼り直した。今年回収した案件の整理だった。
「今年、ましろちゃんが関わった案件はこれだけある」
依子さんが書類の束を見せた。
「多いですね」
「多い。でも全部、ちゃんと動いた」
「全部、うまくいったわけではないですが」
「うまくいかなかった部分も含めて、ちゃんと動いた。それが大事」
「はい」
「ましろちゃん、来年はどうしたい?」
「どうしたい、というのは」
「保管局の仕事として。見習いを続けるのか、別のことを考えるのか」
「続けます」
「迷いなく?」
「迷いなく」
「理由は?」
「まだ学べることがたくさんある。それと」
「それと?」
「この仕事が、自分に合っていると思うから」
「合っている?」
「失くされたものを受け取る仕事だから。私が放っておけないのと、同じ方向を向いている」
依子さんがにっこりした。
「来年もよろしくね」
「よろしくお願いします」
「真壁さんにも言っておく」
「真壁さんに、一個お礼を言いたいんですが」
「照れるから直接言わない方がいい、と前に言った」
「でも言いたいです」
「……まあ、言ってみれば」
私は保管局の奥の部屋に行った。真壁さんが書類を整理していた。
「真壁さん」
「何だ」
「今年、ありがとうございました」
真壁さんが顔を上げた。
「礼を言われる筋合いはない」
「申請を通してくださって。命令違反をしたのに、続けさせてもらえて」
「それは保管局の判断だ」
「でも、動いてくださったと思うので」
真壁さんが少し間を置いた。
「命令違反は命令違反だ。次はするな」
「努力します」
「努力だけでは困る」
「……しません、なるべく」
「なるべく、も困る」
「事前に相談します」
「そうしろ」
「はい」
真壁さんが書類に目を戻した。
「高槻」
「はい」
「来年も、今年通りに動け」
「はい」
「今年通りとは、命令に従わないという意味ではない」
「分かっています」
「判断を持って動け、という意味だ」
「……はい」
「以上だ」
「ありがとうございました」
「礼は要らない」
「言いたいので言いました」
真壁さんが少し、目を伏せた。
怒っていない目だった。
「……そうか」
それだけ言った。
それが真壁さんの、受け取った、という表現だと思った。
保管局を出て、帰り道を歩いた。
今日は依子さんも一緒だった。少し遠回りして歩くことになった。
「真壁さん、ちゃんと受け取ってくれましたか?」と依子さんが聞いた。
「そうかって言ってくれました」
「それが真壁さんのありがとうだから」
「分かりました」
「あの人、感謝するのが苦手なんだよ。でも、感謝してないわけじゃない」
「依子さんはどうですか」
「何が?」
「感謝することが、得意ですか」
「割と得意。でも、照れることもある」
「今年、ありがとうございました」
「どういたしまして。こっちもありがとう」
「私が依子さんにありがとうと言われることが?」
「一緒に動いてくれたから。るりさんのことを、うまく運んでくれたから。榊さんのそばにいてくれたから。全部、ましろちゃんがいたからできたことがある」
「それは、依子さんとルチルがいたからです」
「全員がいたから、というのが正解ね」
「はい」
「来年も、全員でやろう」
「はい」
「志季ちゃんも、透子ちゃんも、たまに巻き込みながら」
「巻き込まれてくれると思います、あの二人は」
「そうね。あの二人は、自分で選んで巻き込まれるタイプだから」
「依子さんの言い方、好きです」
「どういう言い方が?」
「巻き込む、じゃなくて、自分で選んで巻き込まれる、というところが」
「そういう違いは大事だよ。選んでいるかどうかは、全然違う」
「ルチルも、選んでそばにいてくれていると思います」
「そうだよ。あの子は、選んでいる。るりさんの感情から生まれたけど、今は自分で選んでましろちゃんのそばにいる。その違いは大きい」
「はい」
「ルチル、来年も一緒にいてくれますか」
ルチルが肩の上で「いる」と言った。
「よかった」
「大げさだ」
「大げさじゃないです」
「……そうか」
依子さんが「いいね」と言った。
「何がですか」
「二人のやり取りが。毎回同じようで、毎回少し違う」
「毎回少し違いますか?」
「違う。ルチルの声の柔らかさが、少しずつ変わってきている。最初に会ったときより、今の方が柔らかい」
「ルチル、柔らかくなりましたか」
「なっていない」
「なっています」
「なっていないと言っている」
「依子さんも同じことを言っていましたよ」
「……依子さんの観察は当てにならない」
「当てになる」
依子さんが言った。
「ならない」
「なる」
「……」
ルチルが黙った。
負けを認めた形だった。
依子さんと私が少し笑った。
依子さんと別れて、一人と一匹になった。
夕暮れの商店街を歩いていると、いちごのケーキが目に入った。
「買って帰りますか」
「そうするか」
「今日で今年最後ですし」
「それと、るりへの供え物として」
「供え物じゃなくて、一緒に食べましょう、と言いましたよね」
「言ったが、供え物という意味も込めて」
「両方ということで」
「そうだ」
ケーキを買った。
店の人が「二つですか」と言ったので「はい」と答えた。ルチルの分は別の皿に盛り付けた。
家に帰って、二つのケーキを机の上に並べた。
「今年も、色々ありましたね」
「そうだな」
「ルチルと出会って、保管局に入って、先輩と知り合って、るりさんのことを思い出して」
「全部、この数ヶ月のことだ」
「短い気もするし、長い気もします」
「そうだな」
「ルチルは、最初からここに来るつもりだったんですよね」
「そうだ」
「私が、るりさんのことを覚えていたから」
「それが最初のきっかけだった。でも今は、それだけではない理由でここにいる」
「どんな理由ですか」
「おまえがいるから」
「それだけですか」
「十分な理由だ」
私は少し笑った。
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている」
「るりさんに、何か言いますか」
「何か言う?」
「今日。年の終わりに」
ルチルが少し間を置いた。
「……言ってもいいか」
「どうぞ」
「るり」
ルチルが呼んだ。
「今年、終わった。やっと終わった。良い形で終わった。おまえが望んでいた形で、終わったと思う」
部屋が静かだった。
「ましろが覚えていてくれた。榊晴澄も、ちゃんと思い出した。おまえの名前が、ちゃんと呼ばれた。おまえが言っていたことは、叶った」
「忘れないでいてほしい、という願いが」
「そうだ。叶った」
「届きましたよね、先輩に」
「届いた」
「るりさんも、今頃、笑っていますかね」
「笑っていると思う。頭が後ろに傾く笑い方で」
「ですね」
ルチルがケーキを少し食べた。
「甘い」
「はい」
「いちごが酸っぱい」
「それが美味しいんです」
「……まあ、美味しい」
「よかったです」
「るりが好きだった理由が、少し分かる気がする」
「甘さと酸っぱさが混じっているから?」
「そういうものが、好きだったかもしれない」
「ルチルも似ていますよね」
「何が」
「甘いけど、酸っぱい部分もある」
「あたしは甘くない」
「甘いですよ。私には」
「……うるさい」
「事実です」
「事実でもうるさい」
「でも、言います」
「……知っている」
食べ終わった。
皿を片付けた。
机に向かって、年明けに提出する課題を出した。
ルチルが本棚の端に乗った。
いつもの夜だった。
「ルチル」
「なんだ」
「来年も、よろしくお願いします」
「する」
「約束ですか」
「約束だ」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている」
「おやすみなさい、ルチル」
「……おやすみ、ましろ」
名前を呼んでくれた。
電気を消した。
翌朝、冬休みの最初の日。
通学路を歩く必要はなかった。でも、なんとなく外に出た。
近所の公園まで歩いた。
冬の朝で、人が少なかった。
ベンチに座って、少しぼんやりした。
ルチルが隣に来た。ベンチの端に乗った。
二人で、冬の公園を見ていた。
「ましろ」
「なんですか」
「今日、落とし物が落ちている」
「どこに」
「あそこ」
ルチルが公園の入り口の方を示した。
見ると、手袋が一枚、落ちていた。
片方だけの手袋だった。
私は立ち上がった。
「拾うか?」
ルチルが聞いた。
「拾います」
「誰かに届けられるかどうかも分からないのに?」
「届けられなくても、拾います」
「なぜ」
「落とされたまま、そこにいるのが嫌なので」
「それだけか」
「それだけです。いつも」
「……そうか」
手袋のところまで歩いた。
屈んで、拾おうとした。
指先が触れた瞬間。
感情が、流れ込んできた。
急いでいた。寒かった。落としたことに気づかなかった。でも、この手袋は大切なものだった。誰かにもらった手袋だった。
受け取った。
あなたがここに落としたこと、大切なものだったこと、ちゃんとここにあった。見つけた。
手袋を持って、立ち上がった。
公園の入り口に、落とし物の箱があった。いや、今日は年末で、管理事務所は閉まっていた。
しばらく手袋を持ったまま、考えた。
「どうする」
ルチルが尋ねた。
「近くの交番に届けます」
「年末だが、開いているか?」
「交番は開いています」
「そうか」
「行きますか」
「着いていく」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので」
「……知っている」
交番に向かいながら、歩いた。
手袋を持って歩きながら、思った。
これが始まりだった、というより、これが続いていることだ、と思った。
最初に定期入れを拾った朝から、ずっと続いていること。
落とし物を見ると、放っておけないこと。
感情が流れ込んでくること。
受け取って、届けようとすること。
それがずっと続いている。
これからも続くだろうと思った。
保管局の仕事が続く間も、続かなくなっても。
感応がある限り、落とし物が気になる限り。
「ルチル」
「なんだ」
「これからも、こういうことが続くと思います」
「何が」
「落とし物を拾って、感情を受け取って、届けようとすること」
「それが、おまえの仕事だ」
「仕事だけじゃなくて、性格だと思います」
「そうだな。仕事よりも前から、おまえはそういう子だった」
「ルチルが来る前からも」
「そうだ」
「でも、ルチルが来てから、少し変わった」
「どこが変わった」
「一人でやらなくていいと思えるようになった。みんなと一緒に、という感じが持てるようになった」
「それは、良い変化か」
「良い変化です」
「そうか」
「ルチルのおかげです」
「おまえが変わったんだ。あたしのおかげではない」
「ルチルがそばにいたから変われた」
「……」
「ありがとうございます」
「礼は」
「言いたいので言います」
「……知っている」
交番に手袋を届けた。
警官が「ありがとうございます」と言った。
外に出た。
冬の空が、青かった。広かった。
「さて」
「さて?」
「今日から冬休みです」
「そうだ」
「特に予定はないですが」
「ゆっくりすればいい」
「先輩から連絡が来るかもしれないです」
「来るだろう」
「依子さんからも来るかもしれない」
「来るかもしれない」
「木乃葉とも会う約束があります」
「賑やかだな」
「賑やかですか?」
「今年の始めと比べると、関わる人が増えた」
「そうですね。全員、大事な人になりました」
「そうか」
「ルチルも、大事な人です」
「人ではない」
「大事な、ルチルです」
「……そうか」
「はい」
「……まあ、悪くない」
「悪くない、から始まって、最後には良かったって言うんですよね、ルチルは」
「そんなことはない」
「今年の最初に、悪くなかった、と言いました」
「……言ったかもしれない」
「来年の終わりには、良かった、と言ってくれますか」
「来年の終わりになれば分かる」
「約束してほしいです」
「……来年の終わりに、良かったと言える一年にする。それで十分か」
「十分です、ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている」
「おやすみなさい、ではなく」
「今日は昼間だ」
「行ってきます、です」
「どこへ」
「また落とし物を拾いに」
「どこに落ちている」
「分からないですが、どこかにあります」
「なんとなくか」
「なんとなくです」
「……なんとなくはたいてい当たる」
「そうです」
「行くか」
「一緒に来てくれますか」
「当然だ」
「ありがとうございます」
「礼は」
「言います」
「……知っている」
冬の久瀬の街を、歩き出した。
どこに落とし物があるかは、分からなかった。
でも、見つけたら拾う。
受け取る。届ける。それだけだった。
失くされたものを、なかったことにしないために。
それが変わらない限り、続けられる気がした。
ルチルが肩の上にいた。
赤いリボンが、冬の日差しの中で、少し光った。
それを見て、るりさんのことを思った。
思いながら、でも重くなくて、ただ歩いた。
きみの落としものを、拾いに行く。
今日も、明日も。覚えている限り、続ける。
それが、私の歩き方だった。
完




