第二十二章 忘れられた教室の奥で
十一月の終わりに、雪が降った。
久瀬では珍しいことだった。積もるほどではなかったけれど、朝の通学路に白いものが舞っていた。
「雪だ」
ルチルが言った。
「はい」
「珍しいな」
「この時期に降るのは珍しいですね」
「おまえは雪が好きか」
「好きです。静かになる感じが」
「静かになる?」
「雪が降ると、音が吸われる感じがして。世界が少し、遠くなる感じ」
「遠くなるのが好きなのか」
「嫌いではないです。たまには、世界が少し遠い方がいい」
「感応が休まるということか」
「そうかもしれません」
ルチルが肩の上で、雪を一粒受けた。すぐ溶けた。
「冷たい」
「当然です」
「雪が降ると、るりが甘いものを食べたがっていた気がする」
「記憶が戻ってきましたか」
「断片だが。寒い日には甘いものを食べよう、と言っていた気がする。根拠はない」
「でも、そう感じた」
「そうだ」
「きっとそうだったんだと思います」
「根拠は?」
「なんとなく」
「……おまえのなんとなくは、たいてい当たる」
「ありがとうございます」
「今日は甘いものを買って帰るか」
「いちごのケーキですか」
「それでいい」
「はい」
その日の放課後、透子が来た。
「先輩、七番目の教室のことで聞いていいですか」
「どうぞ」
「あの教室、まだありますか」
「あると聞いています。依子さんがそのままにしている」
「そうだと思いました。昨日の夕方、旧校舎の前を通ったら、廊下に光が見えた気がして。二階の、突き当たりの方に」
「見えたんですか」
「見えた、気がしました。確かじゃないです。でも気になって」
「教室そのものが害を及ぼしていることは、今はないですが」
「入ってみてもいいですか。依子さんに許可が取れれば」
「なぜ入りたいんですか」
「あの教室のことが、記事にできるか考えていて。でも記事にする前に、もう一度自分の目で確認したい」
「危なくないか確認するため?」
「それもあります。あと」
透子が少し間を置いた。
「自分が失くしたものが見える教室、と言われていたので。私も見てみたくて」
「何を失くしたと思っているんですか」
「分からないから見たい」
私はルチルを見た。
ルチルが「依子さんに確認しろ」と言った。
「依子さんに確認します」と透子に言った。「許可が出たら、一緒に行きましょう」
「一緒に来てくれるんですか」
「一人では行かせられないので」
「ありがとうございます」
依子さんに連絡したら「いいよ。ただし私も一緒に行く」と返ってきた。
翌日の放課後、依子さん、透子、私、ルチルの四人で旧校舎に向かった。
旧校舎の空気は、文化祭の前とは全然違った。ただの古い建物の空気だった。埃っぽくて、少し冷えていて、でも怪異の重さはなかった。
二階に上がって、廊下を歩いた。
六番目の教室の前に来た。
突き当たりを見た。
ドアがあった。
七番目の教室のドアが、あった。
透子が「ある」と言った。「あります」と私も言った。
「今日は安全だ。根が解放されたから、暴走する力はない。ただの残像に近い」
「入れますか」
私は尋ねた。
「入れる。ただし、何かが見えても引きずられない覚悟で」
「覚悟します」
透子はいつもの元気な声だったけど、少し緊張していた。
依子さんがドアを開けた。
中は、以前と同じ教室だった。
机と椅子が並んでいた。黒板があった。窓の外が白かった。
でも、以前とは違う静けさがあった。
怪異の圧力がなかった。ただ、静かだった。
「雰囲気が違う」
依子さんが言った。
「はい。前に来たときより、ずっと静かです」
「感応は?」
「揺れています。でも穏やかです。怒っているとか、悲しんでいるとかではなく、ただそこにある感じ」
透子が部屋を見回した。
「ここで、みんな幻を見たんですよね」
「そうです」
「今は?」
「今は、幻を作る力がない。ただ、感情の残滓が残っている」
「私には感応がないので、何も感じないかもしれませんが」
「それでいいと思います」
透子は部屋の中を、ゆっくり歩いた。窓の前まで行って、外を見た。
「外が見えない」
「白いんです、窓の外が。ここだけ」
「不思議ですね」
「はい」
透子がしばらく窓を見ていた。
それから振り返って、黒板を見た。
「黒板に、名前が現れることがあったと聞きました」
「あります」
「今は?」
「今は何もない」
「るりさんの名前、ですか」
「はい」
透子が黒板の前まで歩いた。
「るりさんのこと、先輩から少し聞きました。文化祭の前に」
「そうですか」
「四年間、ここにいたんですよね」
「怪異の根として。でも今は、違う形になっています」
「どんな形に?」
「記憶の中に」
「記憶の中か」
透子が黒板に触れた。触れて、少し目を閉じた。
「何も感じない。でも」
「でも?」
「なんか、寂しい気がする。ここは長い間、誰かの場所だったんだなって」
「そうですね」
「るりさんは、寂しかったんですよね」
「はい」
「でも今は、寂しくないですよね。覚えていてもらえているから」
「そう思います」
透子が目を開けた。
「よかった」
「はい」
「私、記事にするのやめようと思います」
「なんでですか?」
「記事にしたら、知らない人がここに来るかもしれない。でもここは、知っている人だけが来ればいい場所な気がして」
「透子さんなりの判断ですね」
「そうです。先輩に言われなくても、自分で判断しました」
「立派です」
「でしょう」
透子が少し笑った。
「代わりに、先輩たちのことは記録しておきます。いつか、ちゃんと書けるときのために」
「書いてもらえますか、いつか」
「はい。終末保管局見習い高槻ましろの話として」
「見習いはまだ続いているので、完成は先になりますが」
「それでいいです。完成するまで待ちます」
部屋を出るとき、透子が入り口で振り返った。
「るりさん、ありがとうございました」
誰もいない部屋に向かって言った。
返事はなかった。
でも感応を通じて、部屋の空気が少しだけ動いた気がした。
「伝わりましたか?」と透子が私に聞いた。
「伝わったと思います」
「よかった」
透子が廊下に出た。
依子さんが「透子ちゃんは、いい子だね」と私に言った。
「そうですね」
「自分で判断できる子は強い」
「透子さんは強いと思います」
ルチルが「あの後輩は、ましろに似ている」と言った。
「どこがですか?」
「放っておけないところ。でも自分の限界を知っているところ。ましろより、そこは大人かもしれない」
「褒めているのか貶しているのかどっちですか」
「事実を言っている」
「透子さんへの褒め言葉として受け取ります」
「好きにしろ」
帰り道、透子と別れた後、依子さんと三人で歩いた。
「依子さん」
「なに」
「七番目の教室、いつまで残しておくつもりですか」
「分からない。消えるまで」
「自然に消えますか」
「消えると思う。記憶が薄れるように、感情も薄れていく。ただし消えるというのは、なかったことになるのではなくて、形が変わるということで」
「記憶として残る形に」
「そう。あの教室も、いつかはただの壁になる。でもそれは、るりさんのことが消えることじゃない」
「分かります」
「ましろちゃん」
「はい」
「一個聞いていい?」
「どうぞ」
「今、どんな気持ちですか。この案件が、一段落して」
私は少し考えた。
「達成感、というのとは少し違います」
「どう違う?」
「全部が解決したわけじゃないから。先輩の記憶はまだ全部戻っていないし、ルチルがこれからどうなるかも分からないし、保管局との関係も続く。全部が終わったわけじゃない」
「でも一段落した」
「はい。その一段落の感じは、悪くないです。やることをやったから」
「後悔は?」
「ないです。怖かったけど、後悔はない」
「それは立派なことだよ」
「そうですか」
「うん。後悔なくやり切れることは、なかなかできないから」
「依子さんは、後悔したことありますか」
「ある。たくさん。ただ、後悔しながらでも、次に活かせれば意味がある。後悔を持ち続けるのが一番もったいない」
「後悔を手放す、ということですか」
「手放す、というより使う。こういう場合はこうすればよかった、と学んで、次に使う。それが後悔の正しい扱い方だと思っている」
「依子さんらしい言い方です」
「そう?」
「実用的です」
依子さんが笑った。
「真壁さんに言ったら、合理的だと言われた」
「真壁さんも似た考え方をするんですか」
「本質的には似ているかもしれない。外見は全然違うけど」
「外見だけじゃなくて、雰囲気も全然違いますよね」
「でも、芯は似ている。どっちも、正しくないことが嫌い。方法論が違うだけで」
「依子さんは感情で動いて、真壁さんは理性で動く」
「そう見える。でも依子さんも理性はあるし、真壁さんも感情はある。ただ、どちらを表に出すかが違う」
「そうかもしれませんね」
夜、家に帰ってから、晴澄さんからメッセージが来た。
「今日、るりのことを少し思い出した。一緒に屋上でお弁当を食べた記憶が、もう少しはっきりしてきた。風が強い日で、おかずが飛びそうになって、二人で笑った」
「一緒に笑えたんですね」
「うん。笑い方が、頭が後ろに傾く笑い方で」
「私も覚えています、それ」
「あなたも覚えていてくれているから、こうやって話せる」
「話してくれてよかったです」
「ましろ」
「はい」
「覚えていてくれてありがとう」
「こちらこそ」
「また言う、こちらこそって」
「でも本当にそう思っているので」
「分かった。じゃあ、お互いさま」
「お互いさまです」
「おやすみ」
「おやすみなさい、先輩」
メッセージを閉じた。
ルチルが「見ていたわけではないが、雰囲気で分かった」と言った。
「何が分かりましたか」
「榊晴澄からのメッセージだろう」
「そうです。るりさんの記憶が、もう少し戻ってきたと」
「そうか」
「よかったと思います」
「そうだな」
「ルチルも、嬉しいですか」
「……嬉しい、と言える」
「それは」
「感情だ。おまえが言っていた通り、これが感情だと思う。嬉しい」
「嬉しいです、ルチルが嬉しいと言ってくれて」
「ややこしい言い方だ」
「でも本当のことです」
ルチルが「うん」と言った。
今日もうん、と言えた。
「ルチル」
「なんだ」
「明日も学校に来ますか」
「行く先があればどこにでも来る」
「私が行く先に来てくれますか」
「そうなる」
「よかった」
「大げさだ」
「大げさじゃないです」
「……そうか」
「おやすみなさい、ルチル」
「……おやすみ」
電気を消した。
雪は朝だけで、夜にはもう降っていなかった。
でも、明日の朝も少し寒いだろうと思った。
寒い日には甘いものを食べよう、とるりさんが言っていたと、ルチルが言っていた。
明日も、いちごのケーキを買って帰ろうかと思った。
そう思いながら、眠った。




