第二十一章 終末保管局、命令違反
文化祭から三日後の月曜日、真壁さんから正式な連絡が来た。
依子さんを通じて、私にも内容が共有された。
「今回の案件について、上位機関からの最終判断が出た。内容は以下の通り。一、怪異の収束を確認した。二、関与者全員の活動記録を保管局に提出すること。三、榊晴澄の今後の経過観察を久瀬支部が担当すること。四、高槻ましろの見習い期間を正式に延長し、引き続き冬月依子の指導のもとで活動を継続すること」
「四番目が気になります」と私は依子さんに言った。
「見習い延長は実質的な昇格だよ。辞めさせないってこと」
「辞めさせない、というのは」
「上が関与禁止を出そうとしたのに、ましろちゃんが動いた。本来なら問題になる。でも結果が出たから、代わりに延長という形で継続させる判断が下りた」
「真壁さんが動いてくれたんですか」
「そう思う。直接は言わないけど」
「叱られませんか、依子さんは」
「叱られた。でも軽かった。それは真壁さんが上に対して話をしてくれたから、だと思う」
「真壁さんに、お礼を言いたいですが」
「やめておきなさい。照れる人じゃないから余計に困る」
「では心の中で」
「そうして」
依子さんがキャンディを口に入れた。今日はソーダあじだった。
「ましろちゃん、一個確認していい?」
「どうぞ」
「今回の件、命令違反をしたという自覚はある?」
「あります」
「後悔してる?」
「していません」
「なんで」
「やるべきことをやったから。命令に従っていたら、文化祭のタイミングを逃していたと思うから。それは後悔したと思う」
「命令より判断を優先した」
「はい」
「組織に属する以上、それは問題になることもある」
「分かっています」
「でも、今回はやった」
「はい」
「次も同じことをするか?」
私は少し考えた。
「同じ状況になれば、同じことをすると思います。でも、なるべく事前に話し合う形を取りたい。今回は時間がなかったから、判断で動いた。でも判断で動くことが当然だとは思っていない」
「大人な答えだ」
「ルチルに言われました。感情と判断を切り離せ、と」
「ルチルが?」
「何度も」
「ルチルは正しいことを言う。口が悪いけど」
「口が悪い部分は愛嬌だと思っています」
「あの子に言ったら怒りそうね」
「言いません」
「賢明」
依子さんが立ち上がった。
「さて、経過観察の件で榊さんに連絡する。ましろちゃんも同席する?」
「します」
同日の放課後、生徒会室で晴澄さんと話した。
依子さんが経過観察の説明をした。記憶が戻る過程で、また怪異の影響が出る可能性があること。その場合は保管局が対応すること。何か変化があればすぐ連絡してほしいこと。
「分かりました。ただ、一個聞いていいですか」
「どうぞ」
「経過観察、というのは監視ということですか」
「監視ではないです。サポートです。違いは、あなたの意志を尊重すること。何かをしてほしいなら言ってください。したくないことはしなくていい」
「では、保管局に来ることを強制されない?」
「されません」
「記憶が戻る過程に、保管局が干渉することもない?」
「基本的には干渉しません。ただし、危険な状況になれば別です。その場合は相談の上で動きます」
「相談の上で」
「あなたの判断を聞かずに動くことはしません」
晴澄さんが少し考えた。
「分かりました。お願いします」
「よかった」
「一個だけ、こちらからお願いがあります」
「何ですか」
「ましろを、引き続き関わらせてもらえますか。経過観察のサポートとして」
依子さんが私を見た。私も依子さんを見た。
「私に聞きますか、それは。本人に聞いてあげてください」
晴澄さんが私を見た。
「ましろ」
「はい」
「引き続き、関わってもらえますか」
「関わります。お願いされなくても関わるつもりでした」
「お願いされなくても、か」
「はい。先輩のことが気になるので」
「気になる」
「はい。放っておけないので」
晴澄さんが少し笑った。
見えてしまうからじゃない。放っておけないから、だけでもない。私は自分で、晴澄さんに関わり続ける方を選んでいた。
「最初からそう言えばよかったじゃない」
「最初にそう思っていたから、最初から関わっていました」
「それはそうね」
志季さんが入り口のあたりで「私も経過観察に関わっていいですか」と言った。
「志季は関係ないでしょう」
晴澄さんが突っ込んだ。
「関係あります。先輩の側にいることが私の役割なので」
「役割じゃなくていい」
「では役割以外の理由で関わります」
「役割以外の理由って何よ」
「……先輩のことが、大切なので」
晴澄さんが少し止まった。
「志季」
「はい」
「あなたが、そういうことを直接言うのは珍しい」
「言えるようになった、のかもしれません。最近」
「何があったの」
「色々と。この数週間で」
「ましろの影響?」
「否定しません」
晴澄さんが私を見た。
「あなた、志季にも影響を与えていたのね」
「意識していませんでした」
「良い意味で」
「それなら嬉しいです」
「良い意味、と言いました」
「はい、聞こえていました」
依子さんが「賑やかでいいね」と言った。
「賑やかですか?」
私は尋ねた。
「うん。最初にましろちゃんが来たとき、こんなに人が関わる案件になると思っていなかった。一人で動く感じかと思っていたら、全然そうじゃなかった」
「私が全部やろうとしたわけではなく」
「そうじゃなくて。ましろちゃんがいたから、人が集まったということ。それは意図したわけじゃないだろうけど、そういうことが起きた」
「……そうですか」
「そうだよ。それはましろちゃんの、一番いいところだと思う」
「照れます」
「照れていい」
「受け取ります」
「どういたしまして」
帰り道、ルチルと並んで歩いた。
日が短くなって、五時を過ぎると暗くなった。街灯が灯り始めた。
「ルチル」
「なんだ」
「一個確認したいんですが」
「なんだ」
「ルチルは、これからどうなりますか」
「どうなる、というのは」
「るりさんの感情が解放されて、軽くなった、と言っていた。それで、今のルチルは何を核にして存在していますか」
ルチルが少し間を置いた。
「……考えていた」
「どんなことを?」
「あたしはるりの感情から生まれた。その感情が解放されて、核が変わった。では今のあたしの核は何か、という話だ」
「考えてみましたか」
「考えてみた」
「分かりましたか」
「……分かった気がする」
「何ですか」
ルチルが少し黙った。
「おまえの、失くしたものを、なかったことにしたくない、という気持ちだ」
「え?」
「あたしはおまえのそばにいた。おまえの感応と一緒に動いた。おまえが案件に向かうたびに、一緒に動いた。その間に、おまえの核になっているものが、あたしの中にも積み重なった」
「私の信念が、ルチルの核になった?」
「そう言えるかもしれない。るりの感情から生まれたあたしが、おまえのそばにいることで、おまえの信念を核にした存在になった」
「それは、るりさんとは別の、ルチル自身の核ですか」
「そうだと思う」
「だから消えない?」
「消えにくくはなったと思う。ただ、まだ分からない部分もある」
「分からない部分は?」
「おまえの信念が続く限り、あたしも続くかもしれない。でも、おまえの信念が変わったら、あたしも変わるかもしれない」
「私の信念は変わらないです」
「今はそう言える。でも人は変わる」
「変わっても、失くしたものをなかったことにしたくない、という気持ちは変わらないと思います。それは私の根っこにあるから」
「根拠は?」
「なんとなく」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「……そのなんとなくを、信じるしかないな」
「信じてください」
「……信じる」
「ありがとう」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている」
街灯の下を歩いた。
「ルチル」
「なんだ」
「これからも、一緒にいてくれますか」
「どこかに行く予定はない」
「予定がないというのは、いるということですか」
「そういうことになる」
「よかった」
「よかった、というのは大げさだ」
「大げさじゃないです。ルチルがいることが、大事なので」
「……依子さんも、志季も、榊晴澄も、いるだろう」
「みんないます。でもルチルは別です」
「どう別なんだ」
「最初からそばにいてくれたから。私の感応を一番知っているから。私が無茶をするたびに止めてくれたから。るりさんのことを一緒に覚えているから」
「……そのくらいのことは誰でもやる」
「誰でもはやらないです」
「大げさだ」
「大げさじゃないです」
「うるさい」
「ルチルが大事だと言っています」
「……聞こえている」
「ちゃんと受け取ってください」
「受け取るかどうかはあたしが決める」
「受け取ってほしいです」
「……分かった」
「受け取ってくれましたか」
「受け取った。うるさい」
「ありがとうございます」
「礼は要らないと何度言えば」
「何度言われても言います」
「……知っている」
ルチルが、肩の上で少し動いた。体重が、少しだけ増した気がした。
もたれてきている、と分かった。
偉そうで、毒舌で、独占欲が強くて、でも情が深い。
そういう生き物が、今夜も肩の上にいた。
「ルチル」
「なんだ」
「今日、何か甘いものを食べますか」
「……食べてもいい」
「いちごのケーキ、好きですか」
「……嫌いではない」
「るりさんが好きだったから」
「それだけが理由ではない」
「甘いから?」
「それもある」
「では買いに行きましょう。帰り道に、ケーキ屋があります」
「遠回りになる」
「少しだけ」
「……しょうがない」
「ありがとうございます」
「礼は」
「言いたいので言います」
「……うるさい」
でも、ルチルは肩から離れなかった。
遠回りして、ケーキ屋に寄った。
いちごのケーキを二つ買った。
一つはルチルの分で、一つは私の分だった。
家に帰って、二人で食べた。
ルチルが黙って食べていた。
食べながら、何か考えているような顔をしていた。
「どうですか」
「甘い」
「甘くていいですか」
「甘くていい」
「よかった」
「……るりも、こんな味を好きだったのか」
「そうだと思います」
「そうか」
ルチルがまた少し黙った。
「覚えていてやれなかった期間がある」
「ルチルが記憶を失っていた期間ですか」
「そうだ。あたしは今の形になって、全部の記憶を持っているわけではない。断片だけがある。るりの笑い方も、声も、はっきり覚えているわけではない」
「それは」
「おまえが覚えていてくれていたから、今日まで形があった。おまえの記憶の中のるりが、あたしの中のるりを補ってくれていた」
「そんなふうに思っていたんですか」
「今日、考えていた」
「私の記憶が役に立ったなら、よかったです」
「役に立った。だから言っている」
「ありがとうございます、言ってくれて」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……知っている、もういい」
でも、嫌そうではなかった。
いちごのケーキを、最後まで食べた。
「おいしかったですか」
「……おいしかった」
「よかった」
「次は、おまえが行かなくても自分で買えるようになりたい」
「どういうことですか」
「一人で買いに行けるかどうか試してみたい」
「ルチルが一人でケーキ屋に?」
「気配を消せば行ける」
「それは普通の買い物ではないですが」
「結果的に買えればいい」
「……まあ、いいですか」
「今度試す」
「報告してください」
「する」
「楽しみにしています」
ルチルが短く「うん」と言った。
今日、何度目かの「うん」だった。
だいぶ、言えるようになった気がした。
最初の頃、そうだ、とか、当然だ、とか、そういう言い方しかしなかったのに。
「ルチル、成長しましたね」
「してない」
「してます。うん、って言えるようになった」
「そんなことで成長を測るな」
「でも最初は言わなかった」
「……うるさい」
「事実です」
「事実でもうるさい」
「はい」
皿を片付けた。
机に向かって宿題を出した。
ルチルが本棚の端に乗った。
いつもの、夜の光景だった。
「ルチル」
「なんだ」
「これが、普通になりましたね」
「何が」
「こういう夜が。ルチルが本棚にいて、私が宿題をして、たまに話して。こういう夜が、普通になった」
「そうか」
「最初の頃は、こんな夜が続くとは思っていなかった」
「あたしも思っていなかった」
「思っていなかったのに、続いている」
「そうだな」
「これからも続きますか」
「おまえが続けたければ、続く」
「続けます」
「では続く」
「よかった」
「大げさだ」
「大げさじゃないです」
「……そうか」
ルチルが目を閉じた。
眠るらしかった。
私は宿題に向かった。
普通の夜だった。
文化祭が終わって、怪異が収束して、命令違反の結果が出て、いちごのケーキを食べた後の、普通の夜だった。
普通、というのがこれほど大事なものだと、以前は分かっていなかった。
おやすみ、と言おうとしたら、ルチルはもう眠っていた。
「おやすみ、ルチル」
穏やかな声で言った。
返事はなかった。
でも、そこにいた。
それで、十分だった。




