表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終末保管局のリボン付き遺失物―落とし物に宿った感情が見える私が、先輩の喪失を受け取るまで―  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/25

第二十章 先輩の手を離した日

 文化祭の翌日、晴澄さんは学校を休んだ。

 連絡は来た。「少し整理したいことがある。明後日には行く」という短いメッセージだった。

 志季さんから別に連絡があった。「先輩は大丈夫です。泣いていますが、大丈夫です」と書いてあった。

 泣いている、という言葉を見て、よかったと思った。

 整えなくていい場所で、泣けているということだから。


 その日の放課後、私は一人で旧校舎の前に行った。

 ルチルは肩にいた。どこにいるかは聞かなかった。気づいたらいた。

 昨日と比べて、旧校舎の空気が全然違った。

 重くなかった。

 ただの古い建物だった。使われなくなって、埃が積もって、窓が汚れた、ただの旧校舎だった。

「変わりましたね」

「そうだな」

「昨日まで、ここに来るたびに感応が揺れていたのに」

「根がほとんど解放された。残りは依子さんが処理する」

「残りというのは?」

「細かい遺失物怪異が、まだいくつかある。でも根が消えたから、個別に処理できる。時間の問題だ」

「学校が、普通の学校に戻る」

「そうだ」

 旧校舎を見上げた。

「るりさんは、どこに行きましたか」

「どこにも行かない。記憶の中に残る。晴澄の中に、おまえの中に、あたしの中に。ただ、怪異として残るのではなく、記憶として残る」

「違いは何ですか」

「怪異として残ると、現実を歪める。記憶として残ると、ただそこにある。重さは同じかもしれないが、在り方が違う」

「先輩の中に残っている」

「そうだ」

「先輩が全部思い出すまで、まだ時間がかかりますか」

「かかると思う。封印が解けても、記憶は一気には戻らない。じわじわと、時間をかけて」

「そのたびに、苦しいこともある?」

「あると思う」

「そのときは、側にいます」

「そうしろ」

「命令ですか」

「許可だ」

「……どちらでも、います」

 ルチルが短く鼻を鳴らした。


 二日後、晴澄さんが来た。

 いつも通り制服を着て、生徒会の腕章をつけて、廊下を歩いていた。

 でも何かが違った。

 整えている、という感じが薄かった。

 整えようとしていないのではなく、整えなくていいと思っている、という感じだった。

 昼休みに、声をかけた。

「お帰りなさい、先輩」

 晴澄さんが振り返った。

「ただいま」

「大丈夫でしたか、二日間」

「大丈夫だった。泣いて、眠って、考えて、また泣いた」

「志季さんから聞きました、泣いてるって」

「余計なことを言う子ね」

「心配していたから言ったんだと思います」

「分かってる。あの子はいつもそう。余計なことを言うふりをして、ちゃんとしたことを言う」

「先輩は、志季さんのことをよく分かっていますね」

「三年一緒にいたから」

「そうですか」

「ましろ」

「はい」

「少し話せる? 昼休みの間」

「もちろん」


 屋上に行った。

 十一月の屋上は、寒かった。でも晴れていた。遠くまで見渡せた。

「記憶が、少し戻ってきた」

 晴澄さんが言った。

「どのくらい?」

「断片的だけど。るりと過ごした日々のことが、少しずつ」

「どんなことを思い出しましたか」

「一緒に下校したこと。図書室で同じ本を読んで、感想を話し合ったこと。文化祭の準備をしたこと。屋上でお弁当を食べたこと」

「ここで?」

「そう。ここで、何度も一緒に食べた。その記憶が昨日の夜、急に来て」

 晴澄さんが空を見た。

「びっくりして、また泣いた」

「それは、いい涙だと思います」

「いい涙?」

「思い出せたから泣ける涙だから」

「……そうね」

「全部思い出すのに時間がかかっても、焦らなくていいと思います。少しずつでも、戻ってくるから」

「うん」

 晴澄さんが空から私に視線を戻した。

「文化祭の日のことを、昨日ようやく少し整理できた。るりが向かっていったこと、私に行けと言ったこと、手を離したこと」

「手を離した」

「私がるりの手を掴んでいた。でも、るりが行けと言って、私は離した。その瞬間のことを思い出した」

「そうだったんですね」

「離したくなかった。でも離した。あの日からずっと、その感覚だけが残っていた。何の感覚か分からないまま」

「今は分かった」

「手を離した感覚だった」

 晴澄さんの目が、少し遠くを見た。

「るりが行けと言ったから、離した。でも離すべきじゃなかったかもしれない、と思う気持ちも、ある」

「それは」

「矛盾してるのは分かってる。あの状況で、一緒に残れば二人とも危なかった。るりが行けと言ったのは、私を守るためだったと分かってる。でも」

 「でも、手を離したことは、ずっと残る」

「そう」

「それは、正しかったかどうかとは別の話だと思います」

「どういうこと?」

「正しい選択だった。でも、後悔する。その二つが同時に存在できる」

 晴澄さんが少し間を置いた。

「……そうかもしれない」

「るりさんも、分かっていたと思います。先輩が離さなければいけなかったことも、離したくなかったことも」

「なんで分かるの」

「感応で受け取ったから。るりさんの感情の中に、先輩への恨みは一切なかった。ただ、寂しかった」

「寂しかった」

「忘れられていることが寂しかった。でも先輩のことを、恨んではいなかった」

 晴澄さんが目を閉じた。

 しばらくそのまま、風の音だけがあった。

「ましろ」

「はい」

「文化祭の日、ありがとう」

「こちらこそ」

「また言う。こちらこそ、って」

「だってそうだから」

「あなたにとって何がこちらこそなの」

「先輩がいたから、届けられた。先輩がるりさんへの感情を持っていたから、私がつなげた。先輩がいなければ、私の感応だけでは届かなかった」

「それはあなたが言うほど私の功績じゃないと思う」

「思い出そうとしてくれていたから、届いた。封印があっても、感情が残っていたから、届いた。それは先輩がずっとるりさんを、感情として覚えていたから」

 晴澄さんが目を開けた。

「……覚えていたのかな、本当に」

「覚えていました。形は変わっていたけど、消えていなかった」

「形は変わっていた?」

「感情だけが残って、出来事が見えない状態でも、感情は本物だった。待っていた、という感覚。置いていかれた、という感覚。それが全部、るりさんへの感情だったから」

「そうか」

「はい」

「じゃあ、私は四年間、忘れながら覚えていたということね」

「そう言えると思います」

 晴澄さんが、少し笑った。

「変な言い方」

「でも本当のことだと思う」

「……そうね」

 風が吹いた。十一月の、冷たい風だった。

「ましろ」

「はい」

「あなたに聞きたいことがある」

「どうぞ」

「るりへの気持ちと、あなたへの気持ちが、私の中に両方ある。それは変じゃないかな」

 私は少し考えた。

「変じゃないと思います」

「どっちが本物で、どっちが本物じゃない、ということじゃなくて?」

「どっちも本物だと思います。違う形の、違う時間に育った、どっちも本物の感情」

「整理できない」

「整理しなくていいと思います。今は」

「今は、って言うと、いつか整理できる?」

「いつかは分かりません。でも今すぐ整理しなくていい理由は、時間があるから」

「時間」

「先輩も、私も、まだここにいる。時間はある」

 晴澄さんが私を見た。

「ましろはいつも、そういう言い方をするのね」

「どういう言い方ですか」

「焦らせない言い方。待てる言い方」

「急かすつもりはないので」

「でもあなた自身は、何かを急ぎたい気持ちはないの」

「……ないとは言えないです」

「どんなことを急ぎたい?」

 私は少し間を置いた。

「先輩のそばにいたい、という気持ちが、先輩に伝わることを、少し急ぎたいかもしれない」

「伝わっていないと思っているの?」

「伝わっているかどうか、分からないので」

「伝わっているよ」

「え?」

「伝わっている。だからこそ、整理が難しくなっているの、私の中で」

「整理が難しくなるのは」

「あなたのことが、るりへの感情とは別に、ちゃんとある。それをどう扱えばいいか、まだ分からない」

「急がなくていいです」

「あなたは急いでほしいんじゃなかった?」

「急いでほしいけど、急かしたくない」

「矛盾している」

「そうですね」

 晴澄さんが少し笑った。

「あなたも、整理できていないのね」

「できていないです」

「じゃあ一緒に整理できていない者同士ね」

「そうかもしれません」

「それでいいと思う?」

「……いいと思います。今は」

「今は、ね」

「はい」

「じゃあ今は、そういうことにしておく」

「はい」

 晴澄さんがまた空を見た。

「るりも、こんな話を聞いたら笑うかな」

「笑うと思います」

「どんな笑い方で?」

「明るい笑い方で」

「そうね。あの子は、そういう笑い方をする子だったから」

「先輩も、覚えていたんですね、笑い方まで」

「戻ってきた記憶の中に、あった。笑い方が、頭が少し後ろに傾く笑い方で」

「私も覚えています。同じところを覚えていた」

「そうか」

 晴澄さんが私を見た。

「ましろ」

「はい」

「一個だけ、お願いしていいですか」

「何ですか」

「るりのことを、たまに話してほしい。私が思い出せないことを、あなたが覚えていることを」

「話します。いつでも」

「私が全部思い出せるまで、一緒に覚えていてほしい」

「覚えています」

「ありがとう」

「どういたしまして」

「ちゃんと受け取った」

「よかったです」

 晴澄さんが少し笑った。

「あなた、最近少し変わったね」

「どこが?」

「受け取り方が、上手くなった」

「そうですか」

「前は、ありがとうと言うと、こちらこそ、ってすぐ返していた。今は、どういたしまして、って言えた」

「……気づいていましたか」

「気づいていた。あなたが少しずつ変わっていくのを」

「先輩に言われると、変わっていた気がしてきます」

「変わったよ。でも、変わっていないところも同じくらいある」

「変わっていないところは?」

「放っておけない性格」

「それは変わらないです」

「分かってる」晴澄さんが笑った。「変わらないでいてほしい部分でもある」

「そうですか」

「そう。それがあるから、あなたはましろなので」

「先輩に言われると、どう返していいか分からないですね」

「ありがとう、でいいよ」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 二人で少し笑った。

 屋上の風が、また吹いた。

 寒かったけれど、悪くなかった。


 昼休みが終わる少し前、ルチルが現れた。

 どこにいたのか分からないけれど、屋上のフェンスの上に来た。

 晴澄さんがルチルを見た。

「ルチル」

「……何だ」

「昨日から、気になっていた」

「何を」

「あなたは、大丈夫なの?」

 ルチルが少し止まった。

「あたしに聞くのか」

「他に誰に聞く?」

「……大丈夫だ」

「本当に?」

「本当に。軽くなった、と言っただろう。おかしくなったわけじゃない。ただ、変わった」

「どう変わった?」

「るりから来ていた部分の重さが、なくなった。でもあたしはまだここにいる。形が変わった、という感じかもしれない」

「消えそうではないの?」

「今すぐは消えない」

「よかった」

 晴澄さんが、ルチルを見た。

「あなたにも、お礼を言いたい」

「あたしへの礼は必要ない」

「必要がなくても言いたい」

「……言われても困る」

「困っていい。でも聞いて。ルチルが、るりの一部から来ているということを、ましろから聞いた」

「それがどうした」

「つまり、あなたはずっと、るりのことを覚えていてくれていた。るりが消えることなく残れたのは、あなたがいたからでもある」

「それは違う。あたしが残ったのは、消えたくなかったからだ」

「でも残ってくれた。それがあって、今日がある」

 ルチルは黙った。

「ありがとう、ルチル。るりの代わりに言う。覚えていてくれて、残っていてくれて、ありがとう」

 ルチルが、フェンスの上で動いた。

 尻尾が揺れた。大きく、ゆっくりと揺れた。

「……礼は要らない、と言った」

「言いたいので言う」

「それはましろと同じ言い方だ」

「そうかもしれない。うつった」

「……うつるものでもないだろう」

「うつるよ、そういうのは」

 ルチルがまた黙った。

 それから、小さく言った。

「……どういたしまして」

 晴澄さんが少し驚いた顔をした。

「ルチルがそう言うのは珍しい」

「一回くらいは言える」

「また言ってくれる?」

「二回は言わない」

「一回で十分」

「なら結構」

 晴澄さんが笑った。

 ルチルが、ふいと別の方向を向いた。照れているのか、それとも別の何かなのか。でも離れなかった。フェンスの上に留まっていた。


 昼休みが終わって、晴澄さんと別れた。

 廊下を歩きながら、ルチルが言った。

「榊晴澄は、思ったより強い」

「そうですね」

「最初に見たとき、脆いと思っていた」

「今は?」

「脆いことと強いことは、同じ人間の中に両方ある、と思い直した」

「いつ思い直しましたか」

「今日」

「今日の屋上で?」

「そうだ。泣きながら、ちゃんと話していた。それは強さだと思った」

「ルチルも成長しましたね」

「してない」

「してます」

「してない」

「先輩にどういたしまして、って言えたじゃないですか」

「あれは特別だ」

「特別でも、言えた」

「……うるさい」

「褒めているんですが」

「褒めるな」

「なんでですか」

「こっちが困る」

「どう困るんですか」

「……消えたくなくなる」

 また、同じことを言った。

 あの時言っていたのと、同じ言葉。

 私は少し黙った。

「消えないでほしいです」

「おまえが決めることじゃない」

「でも、思います」

「……知っている」

「知っているのに言います」

「……言えばいい」

「消えないでください、ルチル」

「……努力する」

「努力じゃなくて」

「努力しか言えない。消えるかどうかがあたしの意志だけで決まるなら、消えないと言える。でも分からないから」

「そうですね」

「分かりました。努力してください」

「……うん」

 廊下を歩いた。

 次の授業のチャイムが鳴った。


 その日の夜、依子さんから連絡が来た。

「旧校舎の残りの処理、真壁さんと一緒に進めた。ほぼ片付いた。最後の一つだけ残ってる」

「最後の一つ?」

「七番目の教室。あそこだけ、まだ少し残っている。でも悪さはしていない。しばらくそのままにしておくつもり」

「なんでですか」

「あそこは、るりさんが最後まで自分のことを残していた場所だから。急いで消す必要はないと思って。いつか自然に消えるまで」

「そういう考え方もあるんですね」

「感情が完全に消えることは、あまりない。記憶として残る形になっていくだけで。七番目の教室も、いつかただの壁になる。でもそれまでは、そっとしておきたい」

「依子さんらしい」

「真壁さんには怒られた」

「怒られましたか」

「効率が悪いって。でも最終的には許可してくれた」

「真壁さんも、依子さんに慣れてきているのかもしれません」

「それは否定されたけど、たぶんそう」

 依子さんが笑う気配があった。

「ましろちゃん、よくやった」

「依子さんのおかげです」

「私のおかげだけじゃない。ルチルも、榊さんも、志季さんも、みんなでやった」

「はい」

「でも、ましろちゃんがいなければできなかった。それは本当のこと」

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「受け取れました」

「成長したね」

「先輩にも言われました」

「そうか。じゃあ本当に成長した」

「ありがとうございます」

「また言う」

「また受け取りました」

 依子さんが笑った。

「おやすみ、ましろちゃん。ゆっくり休んで」

「おやすみなさい」

 電話を切った。

 ルチルが本棚の端にいた。

「聞いていましたか」

「聞いていた」

「今夜は、ゆっくり眠れそうです」

「そうか」

「ルチルは眠れますか」

「あたしは眠るとか眠らないとか、正確には分からない」

「でも夜は静かにしていますよね、たいてい」

「それが眠っているのかどうかは分からないが」

「静かにしていてください、今夜も」

「するつもりだ」

「一緒に」

「一緒に、というのはどういう意味だ」

「同じ部屋で、ということです」

「いつもそうしている」

「はい。それが、いつも通りにできていることが、嬉しいです」

 ルチルが短く鼻を鳴らした。

「……おやすみ」

「おやすみなさい、ルチル」

 電気を消した。

 暗い部屋で、ルチルの気配がした。

 本棚の端で、静かにしていた。

 先輩は今頃、家で何を考えているだろう、と思った。

 るりさんのことを思い出しているかもしれない。志季さんと話しているかもしれない。一人で泣いているかもしれない。

 どれでもいい、と思った。

 何をしていても、明日になれば学校で会える。

 それが当たり前のように続くことを、今日ほど大切に感じたことはなかった。

 先輩の手を離した日が、晴澄さんにはあった。

 でも今日、また手を取り直した日でもあった。

 るりさんの手は、形を変えて、記憶の中にある。

 ルチルの手は、今夜もそこにある。

 私の手は、まだここにある。

 全部が消えたわけではなかった。

 全部が残ったわけでもなかった。

 でも、今日あったことは、なかったことにはならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ