第二十章 先輩の手を離した日
文化祭の翌日、晴澄さんは学校を休んだ。
連絡は来た。「少し整理したいことがある。明後日には行く」という短いメッセージだった。
志季さんから別に連絡があった。「先輩は大丈夫です。泣いていますが、大丈夫です」と書いてあった。
泣いている、という言葉を見て、よかったと思った。
整えなくていい場所で、泣けているということだから。
その日の放課後、私は一人で旧校舎の前に行った。
ルチルは肩にいた。どこにいるかは聞かなかった。気づいたらいた。
昨日と比べて、旧校舎の空気が全然違った。
重くなかった。
ただの古い建物だった。使われなくなって、埃が積もって、窓が汚れた、ただの旧校舎だった。
「変わりましたね」
「そうだな」
「昨日まで、ここに来るたびに感応が揺れていたのに」
「根がほとんど解放された。残りは依子さんが処理する」
「残りというのは?」
「細かい遺失物怪異が、まだいくつかある。でも根が消えたから、個別に処理できる。時間の問題だ」
「学校が、普通の学校に戻る」
「そうだ」
旧校舎を見上げた。
「るりさんは、どこに行きましたか」
「どこにも行かない。記憶の中に残る。晴澄の中に、おまえの中に、あたしの中に。ただ、怪異として残るのではなく、記憶として残る」
「違いは何ですか」
「怪異として残ると、現実を歪める。記憶として残ると、ただそこにある。重さは同じかもしれないが、在り方が違う」
「先輩の中に残っている」
「そうだ」
「先輩が全部思い出すまで、まだ時間がかかりますか」
「かかると思う。封印が解けても、記憶は一気には戻らない。じわじわと、時間をかけて」
「そのたびに、苦しいこともある?」
「あると思う」
「そのときは、側にいます」
「そうしろ」
「命令ですか」
「許可だ」
「……どちらでも、います」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
二日後、晴澄さんが来た。
いつも通り制服を着て、生徒会の腕章をつけて、廊下を歩いていた。
でも何かが違った。
整えている、という感じが薄かった。
整えようとしていないのではなく、整えなくていいと思っている、という感じだった。
昼休みに、声をかけた。
「お帰りなさい、先輩」
晴澄さんが振り返った。
「ただいま」
「大丈夫でしたか、二日間」
「大丈夫だった。泣いて、眠って、考えて、また泣いた」
「志季さんから聞きました、泣いてるって」
「余計なことを言う子ね」
「心配していたから言ったんだと思います」
「分かってる。あの子はいつもそう。余計なことを言うふりをして、ちゃんとしたことを言う」
「先輩は、志季さんのことをよく分かっていますね」
「三年一緒にいたから」
「そうですか」
「ましろ」
「はい」
「少し話せる? 昼休みの間」
「もちろん」
屋上に行った。
十一月の屋上は、寒かった。でも晴れていた。遠くまで見渡せた。
「記憶が、少し戻ってきた」
晴澄さんが言った。
「どのくらい?」
「断片的だけど。るりと過ごした日々のことが、少しずつ」
「どんなことを思い出しましたか」
「一緒に下校したこと。図書室で同じ本を読んで、感想を話し合ったこと。文化祭の準備をしたこと。屋上でお弁当を食べたこと」
「ここで?」
「そう。ここで、何度も一緒に食べた。その記憶が昨日の夜、急に来て」
晴澄さんが空を見た。
「びっくりして、また泣いた」
「それは、いい涙だと思います」
「いい涙?」
「思い出せたから泣ける涙だから」
「……そうね」
「全部思い出すのに時間がかかっても、焦らなくていいと思います。少しずつでも、戻ってくるから」
「うん」
晴澄さんが空から私に視線を戻した。
「文化祭の日のことを、昨日ようやく少し整理できた。るりが向かっていったこと、私に行けと言ったこと、手を離したこと」
「手を離した」
「私がるりの手を掴んでいた。でも、るりが行けと言って、私は離した。その瞬間のことを思い出した」
「そうだったんですね」
「離したくなかった。でも離した。あの日からずっと、その感覚だけが残っていた。何の感覚か分からないまま」
「今は分かった」
「手を離した感覚だった」
晴澄さんの目が、少し遠くを見た。
「るりが行けと言ったから、離した。でも離すべきじゃなかったかもしれない、と思う気持ちも、ある」
「それは」
「矛盾してるのは分かってる。あの状況で、一緒に残れば二人とも危なかった。るりが行けと言ったのは、私を守るためだったと分かってる。でも」
「でも、手を離したことは、ずっと残る」
「そう」
「それは、正しかったかどうかとは別の話だと思います」
「どういうこと?」
「正しい選択だった。でも、後悔する。その二つが同時に存在できる」
晴澄さんが少し間を置いた。
「……そうかもしれない」
「るりさんも、分かっていたと思います。先輩が離さなければいけなかったことも、離したくなかったことも」
「なんで分かるの」
「感応で受け取ったから。るりさんの感情の中に、先輩への恨みは一切なかった。ただ、寂しかった」
「寂しかった」
「忘れられていることが寂しかった。でも先輩のことを、恨んではいなかった」
晴澄さんが目を閉じた。
しばらくそのまま、風の音だけがあった。
「ましろ」
「はい」
「文化祭の日、ありがとう」
「こちらこそ」
「また言う。こちらこそ、って」
「だってそうだから」
「あなたにとって何がこちらこそなの」
「先輩がいたから、届けられた。先輩がるりさんへの感情を持っていたから、私がつなげた。先輩がいなければ、私の感応だけでは届かなかった」
「それはあなたが言うほど私の功績じゃないと思う」
「思い出そうとしてくれていたから、届いた。封印があっても、感情が残っていたから、届いた。それは先輩がずっとるりさんを、感情として覚えていたから」
晴澄さんが目を開けた。
「……覚えていたのかな、本当に」
「覚えていました。形は変わっていたけど、消えていなかった」
「形は変わっていた?」
「感情だけが残って、出来事が見えない状態でも、感情は本物だった。待っていた、という感覚。置いていかれた、という感覚。それが全部、るりさんへの感情だったから」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、私は四年間、忘れながら覚えていたということね」
「そう言えると思います」
晴澄さんが、少し笑った。
「変な言い方」
「でも本当のことだと思う」
「……そうね」
風が吹いた。十一月の、冷たい風だった。
「ましろ」
「はい」
「あなたに聞きたいことがある」
「どうぞ」
「るりへの気持ちと、あなたへの気持ちが、私の中に両方ある。それは変じゃないかな」
私は少し考えた。
「変じゃないと思います」
「どっちが本物で、どっちが本物じゃない、ということじゃなくて?」
「どっちも本物だと思います。違う形の、違う時間に育った、どっちも本物の感情」
「整理できない」
「整理しなくていいと思います。今は」
「今は、って言うと、いつか整理できる?」
「いつかは分かりません。でも今すぐ整理しなくていい理由は、時間があるから」
「時間」
「先輩も、私も、まだここにいる。時間はある」
晴澄さんが私を見た。
「ましろはいつも、そういう言い方をするのね」
「どういう言い方ですか」
「焦らせない言い方。待てる言い方」
「急かすつもりはないので」
「でもあなた自身は、何かを急ぎたい気持ちはないの」
「……ないとは言えないです」
「どんなことを急ぎたい?」
私は少し間を置いた。
「先輩のそばにいたい、という気持ちが、先輩に伝わることを、少し急ぎたいかもしれない」
「伝わっていないと思っているの?」
「伝わっているかどうか、分からないので」
「伝わっているよ」
「え?」
「伝わっている。だからこそ、整理が難しくなっているの、私の中で」
「整理が難しくなるのは」
「あなたのことが、るりへの感情とは別に、ちゃんとある。それをどう扱えばいいか、まだ分からない」
「急がなくていいです」
「あなたは急いでほしいんじゃなかった?」
「急いでほしいけど、急かしたくない」
「矛盾している」
「そうですね」
晴澄さんが少し笑った。
「あなたも、整理できていないのね」
「できていないです」
「じゃあ一緒に整理できていない者同士ね」
「そうかもしれません」
「それでいいと思う?」
「……いいと思います。今は」
「今は、ね」
「はい」
「じゃあ今は、そういうことにしておく」
「はい」
晴澄さんがまた空を見た。
「るりも、こんな話を聞いたら笑うかな」
「笑うと思います」
「どんな笑い方で?」
「明るい笑い方で」
「そうね。あの子は、そういう笑い方をする子だったから」
「先輩も、覚えていたんですね、笑い方まで」
「戻ってきた記憶の中に、あった。笑い方が、頭が少し後ろに傾く笑い方で」
「私も覚えています。同じところを覚えていた」
「そうか」
晴澄さんが私を見た。
「ましろ」
「はい」
「一個だけ、お願いしていいですか」
「何ですか」
「るりのことを、たまに話してほしい。私が思い出せないことを、あなたが覚えていることを」
「話します。いつでも」
「私が全部思い出せるまで、一緒に覚えていてほしい」
「覚えています」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ちゃんと受け取った」
「よかったです」
晴澄さんが少し笑った。
「あなた、最近少し変わったね」
「どこが?」
「受け取り方が、上手くなった」
「そうですか」
「前は、ありがとうと言うと、こちらこそ、ってすぐ返していた。今は、どういたしまして、って言えた」
「……気づいていましたか」
「気づいていた。あなたが少しずつ変わっていくのを」
「先輩に言われると、変わっていた気がしてきます」
「変わったよ。でも、変わっていないところも同じくらいある」
「変わっていないところは?」
「放っておけない性格」
「それは変わらないです」
「分かってる」晴澄さんが笑った。「変わらないでいてほしい部分でもある」
「そうですか」
「そう。それがあるから、あなたはましろなので」
「先輩に言われると、どう返していいか分からないですね」
「ありがとう、でいいよ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
二人で少し笑った。
屋上の風が、また吹いた。
寒かったけれど、悪くなかった。
昼休みが終わる少し前、ルチルが現れた。
どこにいたのか分からないけれど、屋上のフェンスの上に来た。
晴澄さんがルチルを見た。
「ルチル」
「……何だ」
「昨日から、気になっていた」
「何を」
「あなたは、大丈夫なの?」
ルチルが少し止まった。
「あたしに聞くのか」
「他に誰に聞く?」
「……大丈夫だ」
「本当に?」
「本当に。軽くなった、と言っただろう。おかしくなったわけじゃない。ただ、変わった」
「どう変わった?」
「るりから来ていた部分の重さが、なくなった。でもあたしはまだここにいる。形が変わった、という感じかもしれない」
「消えそうではないの?」
「今すぐは消えない」
「よかった」
晴澄さんが、ルチルを見た。
「あなたにも、お礼を言いたい」
「あたしへの礼は必要ない」
「必要がなくても言いたい」
「……言われても困る」
「困っていい。でも聞いて。ルチルが、るりの一部から来ているということを、ましろから聞いた」
「それがどうした」
「つまり、あなたはずっと、るりのことを覚えていてくれていた。るりが消えることなく残れたのは、あなたがいたからでもある」
「それは違う。あたしが残ったのは、消えたくなかったからだ」
「でも残ってくれた。それがあって、今日がある」
ルチルは黙った。
「ありがとう、ルチル。るりの代わりに言う。覚えていてくれて、残っていてくれて、ありがとう」
ルチルが、フェンスの上で動いた。
尻尾が揺れた。大きく、ゆっくりと揺れた。
「……礼は要らない、と言った」
「言いたいので言う」
「それはましろと同じ言い方だ」
「そうかもしれない。うつった」
「……うつるものでもないだろう」
「うつるよ、そういうのは」
ルチルがまた黙った。
それから、小さく言った。
「……どういたしまして」
晴澄さんが少し驚いた顔をした。
「ルチルがそう言うのは珍しい」
「一回くらいは言える」
「また言ってくれる?」
「二回は言わない」
「一回で十分」
「なら結構」
晴澄さんが笑った。
ルチルが、ふいと別の方向を向いた。照れているのか、それとも別の何かなのか。でも離れなかった。フェンスの上に留まっていた。
昼休みが終わって、晴澄さんと別れた。
廊下を歩きながら、ルチルが言った。
「榊晴澄は、思ったより強い」
「そうですね」
「最初に見たとき、脆いと思っていた」
「今は?」
「脆いことと強いことは、同じ人間の中に両方ある、と思い直した」
「いつ思い直しましたか」
「今日」
「今日の屋上で?」
「そうだ。泣きながら、ちゃんと話していた。それは強さだと思った」
「ルチルも成長しましたね」
「してない」
「してます」
「してない」
「先輩にどういたしまして、って言えたじゃないですか」
「あれは特別だ」
「特別でも、言えた」
「……うるさい」
「褒めているんですが」
「褒めるな」
「なんでですか」
「こっちが困る」
「どう困るんですか」
「……消えたくなくなる」
また、同じことを言った。
あの時言っていたのと、同じ言葉。
私は少し黙った。
「消えないでほしいです」
「おまえが決めることじゃない」
「でも、思います」
「……知っている」
「知っているのに言います」
「……言えばいい」
「消えないでください、ルチル」
「……努力する」
「努力じゃなくて」
「努力しか言えない。消えるかどうかがあたしの意志だけで決まるなら、消えないと言える。でも分からないから」
「そうですね」
「分かりました。努力してください」
「……うん」
廊下を歩いた。
次の授業のチャイムが鳴った。
その日の夜、依子さんから連絡が来た。
「旧校舎の残りの処理、真壁さんと一緒に進めた。ほぼ片付いた。最後の一つだけ残ってる」
「最後の一つ?」
「七番目の教室。あそこだけ、まだ少し残っている。でも悪さはしていない。しばらくそのままにしておくつもり」
「なんでですか」
「あそこは、るりさんが最後まで自分のことを残していた場所だから。急いで消す必要はないと思って。いつか自然に消えるまで」
「そういう考え方もあるんですね」
「感情が完全に消えることは、あまりない。記憶として残る形になっていくだけで。七番目の教室も、いつかただの壁になる。でもそれまでは、そっとしておきたい」
「依子さんらしい」
「真壁さんには怒られた」
「怒られましたか」
「効率が悪いって。でも最終的には許可してくれた」
「真壁さんも、依子さんに慣れてきているのかもしれません」
「それは否定されたけど、たぶんそう」
依子さんが笑う気配があった。
「ましろちゃん、よくやった」
「依子さんのおかげです」
「私のおかげだけじゃない。ルチルも、榊さんも、志季さんも、みんなでやった」
「はい」
「でも、ましろちゃんがいなければできなかった。それは本当のこと」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「受け取れました」
「成長したね」
「先輩にも言われました」
「そうか。じゃあ本当に成長した」
「ありがとうございます」
「また言う」
「また受け取りました」
依子さんが笑った。
「おやすみ、ましろちゃん。ゆっくり休んで」
「おやすみなさい」
電話を切った。
ルチルが本棚の端にいた。
「聞いていましたか」
「聞いていた」
「今夜は、ゆっくり眠れそうです」
「そうか」
「ルチルは眠れますか」
「あたしは眠るとか眠らないとか、正確には分からない」
「でも夜は静かにしていますよね、たいてい」
「それが眠っているのかどうかは分からないが」
「静かにしていてください、今夜も」
「するつもりだ」
「一緒に」
「一緒に、というのはどういう意味だ」
「同じ部屋で、ということです」
「いつもそうしている」
「はい。それが、いつも通りにできていることが、嬉しいです」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「……おやすみ」
「おやすみなさい、ルチル」
電気を消した。
暗い部屋で、ルチルの気配がした。
本棚の端で、静かにしていた。
先輩は今頃、家で何を考えているだろう、と思った。
るりさんのことを思い出しているかもしれない。志季さんと話しているかもしれない。一人で泣いているかもしれない。
どれでもいい、と思った。
何をしていても、明日になれば学校で会える。
それが当たり前のように続くことを、今日ほど大切に感じたことはなかった。
先輩の手を離した日が、晴澄さんにはあった。
でも今日、また手を取り直した日でもあった。
るりさんの手は、形を変えて、記憶の中にある。
ルチルの手は、今夜もそこにある。
私の手は、まだここにある。
全部が消えたわけではなかった。
全部が残ったわけでもなかった。
でも、今日あったことは、なかったことにはならない。




