第十七章 ルチルの正体
熱は翌朝下がった。
三十六度五分で、普段より低いくらいだった。ルチルが「嘘をつくな」と言ったので体温計を見せたら、「……そうか」と言って黙った。
「心配してくれてたんですか」
「してない」
「してたでしょう、昨日ずっと」
「監視が仕事だ」
「監視の人は、夜中に水を持ってきますか」
「こぼすといけないから」
「こぼしていない」
「こぼす可能性があった」
「どういう可能性ですか」
「寝ぼけていれば、こぼす」
「私は寝ぼけてもこぼしません」
「そんなことは分からない」
「ありがとうございます、昨日のこと」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……うるさい」
熱が下がっていたので、依子さんに連絡した。「よかった」と返ってきた。「今日は保管局に来なくていい。ゆっくりしてて」
「文化祭まで時間がないです」
「そうだけど、無理して感応が使えなくなる方が困る。今日は休んで明日来て」
「分かりました」
「ましろちゃん、昨日の晴澄さんとの話、どうだった?」
「話してよかったです」
「受け取れた?」
「受け取れました。先輩の感情が本物だということも。るりさんの残した感情も、少し」
「引きずられたのは?」
「るりさんの感情が近くにあったから。奥深いところに、言えなかった言葉が残っていた」
「それを受け取った」
「受け取りました。届いているかどうかは分からないけど」
「届いているよ、たぶん」
「根拠はありますか」
「なんとなく」
「依子さんも、なんとなく、で言うんですね」
「大事なことはたいてい、なんとなくで分かるもんだよ」
「ルチルと同じことを言いますね」
「あら、ルチルもそういうこと言うの?」
「似たようなことを」
「意外と相性いいかもね、あの子と私」
「言ったら怒ると思います」
「言わないでおく」
依子さんが笑って、電話を切った。
月曜日、学校に行ったら文化祭の準備が最終段階に入っていた。
廊下の飾り付けが完成していて、各クラスの出し物の最終確認が行われていた。
「ましろ、昨日どこにいたの、連絡したのに」
木乃葉が問いかけて来た。
「少し体調が悪くて」
「大丈夫?」
「今日は大丈夫です」
「文化祭、一緒に回れる?」
「途中からは一緒に。ただ、少しやることがあって」
「また言えないやつ?」
「今回は少しだけ言えます」
「ほんとに?」
「旧校舎に関わることが、文化祭の日に片付くかもしれなくて。それが落ち着いたら一緒に回る」
木乃葉が私を見た。
「危なくない?」
「危ない可能性はある」
「正直だね」
「嘘をついても仕方ないので」
「……一個だけ聞いていい?」
「どうぞ」
「ましろは、やりたくてやってるの? 誰かに頼まれてやってるんじゃなくて」
私は少し考えた。
「両方あります。最初はルチルにスカウトされた。でも今は、自分でやりたいと思っています」
「なんで?」
「失くされたままになっているものを、そのままにしたくないから」
「失くされたもの」
「大事な人のことを、誰かに忘れさせられたまま、その人が消えてしまうことが、嫌なんです」
木乃葉が少し黙った。
「そっか」
「はい」
「ましろらしい」
「そうですか」
「うん。ましろって昔から、放っておけない子だから。今回も、放っておけなかったんでしょ」
「……はい」
「じゃあ仕方ない」
木乃葉が笑った。
「終わったら一緒に回って、美味しいもの食べよう。文化祭のご飯、楽しみにしてたから」
「はい」
「絶対ね」
「絶対」
約束した。
木乃葉との約束は、いつも軽くて確かだった。
昼休みに、志季さんから声をかけられた。
「文化祭当日の動きについて、確認したい」
「はい」
「先輩と私は、どこにいればいいですか」
「生徒会の仕事がありますよね」
「午前中は仕事をします。午後から空ける段取りを今日中につける」
「志季さん、来てくれるんですか」
「先輩が行くなら私も行きます。止めても無駄なのは分かっているので、止めません。一緒に行きます」
「……ありがとうございます」
「礼はいいです。先輩を守ることが目的なので」
「でも、守るだけじゃないと思います」
「え?」
「志季さんも、るりさんのことを知るべきだと思う。先輩が大切にしていた人のことを、先輩の近くにいる人が知らないままはよくない気がして」
志季さんが少し止まった。
「それは」
「七番目の教室で、志季さんが見た幻は」
「……先輩が私を置いていく幻でした」
「それは、怖いですか、今も」
「怖い。先輩がいなくなることが、一番怖い」
「先輩はいなくなりません」
「確証はないでしょう」
「ないです。でも、るりさんのことが解決したら、先輩が記憶を全部取り戻したら、先輩は今より自由になれると思います。怪異に縛られていない先輩になれると思います」
「自由になった先輩が、私を必要としなくなる可能性もある」
「それは、先輩が選ぶことです」
志季さんが少し目を伏せた。
「……分かっています」
「でも、先輩は」
「でも?」
「先輩は、志季さんのことを必要としていると思います。困ったとき頼る人として、じゃなくて、そばにいる人として」
「あなたにはそれが分かるんですか」
「感応で分かったわけではないです。ただ、先輩が志季さんに話すときの声が、他の人に話すときと少し違う」
「どう違う?」
「……安心した声です。構えていない声」
志季さんが少し黙った。
「先輩が、私の前では笑わないと言いました。あなたの前では笑う、と」
「はい」
「弱いところを見せていいと思っているから、笑わない、と」
「そう言っていました」
「それが、私にとって一番の言葉だったかもしれません」
志季さんの声が、少し違った。いつもの平静さの下に、何かが動いていた。
「志季さん」
「なんですか」
「文化祭、一緒に動きましょう。先輩を守るためだけじゃなくて、るりさんのことをちゃんとやり遂げるために」
「私は何ができますか」
「先輩が一人にならないようにすること。何かあったとき、声をかけること。それだけで十分です」
「それだけでいいのか」
「それが一番大事なことです」
志季さんが私を見た。
「……分かりました」
「よかった」
「一つ言いいですか」
「どうぞ」
「あなたのことを、信頼します。完全には難しいかもしれないが、先週より、昨日より、今信頼しています」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただの事実を言いました」
「でも言いたいので言います」
「……本当に、よく言いますね、それ」
「はい」
志季さんが、また小さく苦笑した。今日もその笑い方だった。でも今日は、少し柔らかかった気がした。
放課後、保管局に行かずに、旧校舎の近くを一人で歩いた。
ルチルはいた。どこかにいた。
旧校舎の外壁に沿って歩きながら、建物を見上げた。古い校舎だった。使われなくなって何年も経っているのに、ここにある。
るりさんが、怪異の根としてここに残り続けた場所。
「ルチル」
「なんだ」
「少し話していいですか」
「話せ」
「文化祭まで三日です」
「知っている」
「当日、何が起きるかは分からない」
「そうだ」
「でも、方向は分かってきた」
「どういう方向だ」
「先輩がるりさんの名前を思い出して、呼ぶ。そのとき、封印が揺れる。私が感応を使って、るりさんの感情を受け取る。怪異の根が、感情として解放される」
「そう単純ではないかもしれない」
「分かっています。でも、そういう方向で動く」
「うん」
「ルチルはどうなりますか、そのとき」
ルチルが黙った。
「正直に教えてください」
「……正直に言えば、分からない」
「分からない、というのは」
「あたしはるりの感情から生まれた。るりの感情が解放されるとき、あたしも何かが変わる。消えるかもしれない。薄くなるかもしれない。あるいは、今のままかもしれない」
「どれが一番可能性が高いですか」
「……消えるか、薄くなるか、のどちらかだと思う。今のままという可能性は低い」
「そうですか」
「怖いか、と聞くな」
「聞きません」
「聞かないのか」
「昨日答えてくれたから。怖いかもしれない、でもるりさんが正しく終われるならそれでいい、と」
「……そうだ」
「私も同じです」
「何が?」
「ルチルが消えたり薄くなったりすることは、怖い。でもるりさんが正しく終われるためなら、それでいい、と思います。思いたくないけど、思います」
「思いたくないが思う、か」
「はい」
「……正直だな」
「正直にしかなれないので」
「知っている」
旧校舎の外壁が、夕日で赤く染まっていた。
「ルチル」
「なんだ」
「看病、してくれてありがとうございました。昨日の夜」
「してない」
「してくれました」
「……監視だ」
「そういうことにしておきます」
「そうしろ」
「でも、ありがとう」
ルチルが「うるさい」と言った。でも声が柔らかかった。
「るりさんのことを、少し話してもいいですか」
「何を話す」
「私が覚えていること。ルチルに聞いてほしい」
「……話せ」
「赤いリボンをつけていた。よく笑った。甘いものが好きで、いちごのケーキが特に好きだった。図書室でよく本を借りてくれた。重いものを持つのが得意だった。笑うとき、少し頭が後ろに傾く癖があった」
「……うん」
「声が明るかった。誰かが困っていると気づくのが早かった。急いでいるときでも、足元に何かが落ちていたら拾っていた」
「……うん」
「文化祭の日、向かっていった。怖くなかったのかな、と今でも思う」
「怖かっただろう」
「そうですか」
「でも、行かないという選択が取れなかったんだと思う。そういう子だったから」
「そういう子」
「誰かが困っていれば、向かってしまう。足元に何かが落ちていれば、拾ってしまう。そういう子だった」
「ルチルが言うと、本物の感じがします」
「本物だからだ」
「はい」
「高槻ましろ」
「なんですか」
「るりはおまえのことを、よく話していた」
「え?」
「図書室で会う子のことを、話していた。本を貸し借りする子のことを。おまえのことだと思う」
「私の、ことを」
「好きだったと思う。友達として、それ以上かどうかは分からないが」
「……そうですか」
「おまえもるりのことが好きだったんだろう」
「はい。友達として。もしかしたらもっと、という気持ちもあったかもしれないけど、当時の私には分からなかった」
「それでいい。分からなくても、好きだったことは本物だから」
「ルチル」
「なんだ」
「ルチルも、るりさんのことが好きだった?」
「あたしはるりから生まれた。好き、という感覚が正確かどうかは分からない」
「でも、大切に思っていますよね」
「……大切に思っている」
「それが好き、じゃないかと思います」
「そうかもしれない」
「だったら、好きなんだと思います」
ルチルが少し黙った。
夕日が沈んでいった。旧校舎の影が長く伸びた。
「文化祭が終わったら」
「何ですか」
「あたしがどうなったとしても、るりの分まで覚えていてくれるか」
「覚えます」
「そうか」
「ルチルのことも覚えます」
「それは言わなくていい」
「言いたいので言います」
「……勝手にしろ」
「はい」
旧校舎が暗くなり始めた。
私は建物を見上げたまま、少しの間そこにいた。
ルチルも、黙ってそこにいた。
二人で、というか一人と一匹で、同じ建物を見ていた。
るりさんが残っている場所を。
三日後に向かう場所を。
「行こう」
ルチルが言った。
「はい」
歩き出した。
夕暮れの校庭を、文化祭の準備をした生徒たちが片付けをしながら帰っていった。普通の、日常の光景だった。
三日後の文化祭は、表向きはその延長だった。
でもその裏で、四年前から続いている何かが、終わろうとしていた。
終わる、というのが正しいかどうかも、まだ分からなかった。
でも動く。
失くされたものを、なかったことにしないために。
それだけは、ずっと変わらなかった。
家に帰って、夕飯を食べて、机に向かった。
文化祭当日の動きをノートに書き出した。
依子さんの封縫、志季さんの動き、晴澄さんの動き。私が感応を使うタイミング。ルチルの役割。
書き出していると、整理された気がした。整理されたからといって、うまくいく保証はないけれど。
「ルチル」
「なんだ」
「感応の訓練、もう少しできますか、今日」
「体調は問題ないか」
「熱は下がっています」
「……やる。ただし短時間だ」
「はい」
「何を練習する」
「感情を受け取りながら、自分を保つこと。引きずられそうになったとき、戻ってくること」
「昨日うまくいかなかった部分だな」
「はい。ルチルに引き返してもらったから戻れましたが、自分で戻れるようになりたい」
「難しい訓練だ」
「でも必要です」
「……そうだな」
ルチルが机の前に来た。
「目を閉じろ。保管局の棚の物を一つ思い出して、その感情に向かえ。そして戻ってこい」
「物を思い出して?」
「おまえが今まで触れた物の記憶は、感応を通じて残っている。それを足場にして、感情に向かう練習だ」
「分かりました」
目を閉じた。
赤いリボンの定期入れを思い出した。最初に触れた物。「行かないで」という感情が残っていた定期入れ。
感情に向かった。
流れ込んできた。
今度は、引きずられそうになるより前に、選んだ。
受け取る。でも飲み込まれない。感情を受け取りながら、自分がここにいることを意識した。
ルチルに教わった、選ぶ、という感覚。
今日は、少しだけ上手くできた。
「戻ってこい」
ルチルの声で目を開けた。
「できました」
「今日は良かった。昨日より制御できている」
「昨日の失敗が役立ちました」
「失敗は役立つ。ただし同じ失敗を繰り返すな」
「繰り返しません」
「もう一回やるか?」
「はい」
三回練習した。三回とも、自分で戻ってこられた。
「十分だ。今日はここまで」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
「言いたいので言います」
「……また言う」
「また言います」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「本番で使えるかどうかは、本番になってみないと分からない」
「それは仕方ないです」
「怖くないか」
「怖い。でも、前より怖くない」
「なぜ」
「ルチルがいるから。依子さんがいるから。先輩と志季さんがいるから。木乃葉も、透子も」
「全員頼るつもりか」
「頼るというより、一緒にいる、という感じです」
「詭弁だ」
「違います」
「……まあいい」
ルチルが机の端に乗った。
「高槻ましろ」
「なんですか」
「おまえと組んで、よかったと思っている」
「え?」
「スカウトした判断は、正しかった」
「それは、るりさんのそばに置くためのスカウトでしたよね」
「それだけではなかった、という話だ」
「どういう意味ですか」
「おまえは、本物だ。失くされたものを、なかったことにしたくない、という気持ちが。それは最初から本物だった。だから選んだ」
「ルチルに選んでもらえて、よかったです」
「……照れるような言い方をするな」
「ルチルが照れているんですか?」
「照れていない」
「そうですか」
「うるさい。寝ろ」
「はい」
布団に入った。
ルチルが本棚の端に乗った。
「ルチル」
「なんだ」
「私も、ルチルと組んでよかった」
「……知っている」
「知っているんですか」
「おまえは正直だから、知っている」
「そうですか」
「そうだ。寝ろ」
「はい。おやすみ」
「……おやすみ」
電気を消した。
暗い中で、ルチルの気配がしていた。
本棚の端で、丸くなっているのが分かった。
三日後に何が起きるか、まだ分からない。
でも今夜は、隣に誰かがいることが分かっていた。
それで十分だった。




