第十六章 触れてはいけない記憶
日曜日の午後、晴澄さんから連絡が来た。
「少し話せますか。どこかで会えますか」
珍しかった。今まで、晴澄さんの方から連絡が来たことはなかった。いつも私から声をかけていた。
「どこがいいですか」と返したら、「駅前のカフェで」と返ってきた。
ルチルに「行きます」と伝えたら「当然だ」と言った。
「ついてくる?」
「どこかに行くときは必ずついていく」
「そういう決まりがあるの?」
「あたしが決めた」
「私が決めることでは?」
「おまえが間違った判断をしたときに止めるためだ。必要なことだ」
「間違った判断ばかりしてるみたいな言い方ですね」
「たまにする」
「たまに、は認めます」
駅前のカフェは、休日の午後で混んでいた。
でも奥の席に晴澄さんがいて、二人分のスペースを確保していた。私を見て、少し手を上げた。そういう仕草をする人だと知らなかった。少し意外だった。
「来てくれてよかった」
「連絡をもらったので」
「迷惑じゃなかった?」
「迷惑ではなかったです。むしろ、話したいことがあったので」
「私も」
晴澄さんが注文したコーヒーを、両手で持った。
「先に私から言ってもいいですか」
「どうぞ」
晴澄さんが少し、カップを見た。
「七番目の教室で、あの子に会った。どうして忘れたの、と言われた」
「はい」
「その後、家に帰って、ずっと考えていた。忘れた、ということが苦しくて。でも忘れさせられたなら先輩のせいじゃないと、あなたが言ってくれた」
「言いました」
「それを考えていたら、ふと思ったことがあって」
「何ですか」
「忘れさせられた、ということは、忘れる前があった、ということよね」
「そうですね」
「忘れる前に、私はその子のことを知っていた。大切にしていた。それは、封印されたあとも消えなかった部分があった。感情として残っていた」
「はい」
「つまり」
晴澄さんが顔を上げた。
「私はその子のことが、好きだったのかもしれない」
カフェの中のざわめきが、少し遠くなった気がした。
「好き、というのは」
「友達として好き、というより、もっと個人的な意味で。そういう感情が残っていた気がして」
「……そうかもしれません」
「確認できますか、あなたの感応で」
「感応は、落とし物に触れることで使います。先輩の感情を直接読むことはできません」
「そう」
「でも、先輩の記憶に残っている感情の根が、普通の友情より濃い気はします。何度も先輩の近くで感応が揺れた。あれは、強い感情が近くにある感覚でした」
「強い感情」
「はい」
晴澄さんがカップを置いた。
「その子に、謝りたい」
「謝らなくていいと、私は思いますが」
「でも謝りたい。忘れていたことを。四年間、覚えていられなかったことを」
「先輩が選んだことではなかった」
「でも私の記憶の中に、その子がいなかった四年間は事実だから」
私は少し黙った。
「その子は、怒っていないと思います」
「根拠は?」
「七番目の教室で見えた幻の声は、どうして忘れたの、でしたよね」
「そうね」
「怒っていた声でしたか」
晴澄さんが少し考えた。
「……悲しかった。怒っていなかった」
「悲しかったのは、忘れられていたことが寂しかったから。怒っていなかったのは、先輩のせいじゃないと分かっていたから、じゃないかと思います」
「それは、あなたの推測では?」
「推測です。でも、感応で受け取ってきた感情の中で、その子の残した感情に一番近いのは、怒りではなくて寂しさだと感じています」
晴澄さんはしばらく黙った。
「ましろ」
「はい」
「その子の名前を、知っていますか」
私は少し止まった。
「……知っています」
「教えてもらえますか」
「今は、まだ待ってください」
「なぜ」
「名前を呼ぶことが、封印に影響する可能性があるから。今の状況で呼ぶことが、適切なタイミングかどうか、まだ判断できていません」
「分かった」
晴澄さんが素直に言った。意外だった。押し問答になると思っていた。
「怒らないんですか」
「怒る理由がないわ。あなたが慎重にしている理由は分かる。封印の話は聞いた。名前が怪異の足場になるなら、タイミングは大事」
「はい」
「ただ、いつか教えてもらえますか。正しいタイミングで」
「約束します」
晴澄さんが少し息を吐いた。
「あなたに話したいことというのは、今言ったことで、もう一個あって」
「もう一個?」
「昨日の夜、夢を見た。今までより鮮明な夢」
「どんな夢ですか」
「文化祭の準備をしていた。誰かと一緒に。廊下で、一緒に飾り付けをしていた。その子が笑っていた。私も笑っていた。そのあと、何か起きた。何かが来て、その子が向かっていった」
「向かっていった」
「止めたかった。でも声が出なかった。怖くて、動けなかった」
私は動きを止めた。
「先輩、その夢」
「記憶が戻ってきているのかもしれない、と思って。封印が弱まっているから」
「そうかもしれません」
「止めたかった、と夢の中で思った。でも止められなかった。その後悔がひどくて、目が覚めた」
「先輩」
「なに」
「止められなかったのは、先輩のせいじゃないです」
「でも、止めたかった」
「止めたかった気持ちは、本物です。でも止められなかったことは、どうしようもなかったことだと思います。その子が向かっていく速さの方が、先輩の声が出るより早かったんじゃないですか」
晴澄さんが黙った。
「……そうかもしれない」
「止めたかった、という気持ちは、その子に届いていると思います。行かないでほしかったという気持ちが、先輩の中に残っていたから」
「行かないでほしかった」
「はい」
「……そうね。行かないでほしかった」
晴澄さんが目を伏せた。
「ましろ」
「はい」
「あなたは、その子のことを知っているのね」
「はい」
「昔から?」
「……封印されて忘れていましたが、昨日、私も記憶を解いてもらいました」
晴澄さんが顔を上げた。
「あなたも封印されていた?」
「四年前の怪異に、私も関わっていたようです。先輩ほど深くはないですが」
「そのことを、昨日知った」
「はい。その子と、友達でした」
「……そう」
「図書室でよく会っていました。本を貸し借りしていました。明るくて、よく笑う子でした」
晴澄さんが、私を見た。
目に、何かがあった。悲しみではなく、もっと複雑な、整理のできていない感情が、目の端にあった。
「もっと教えてもらえますか、その子のことを」
「まだ全部は思い出せていませんが、覚えていることなら」
「聞かせて」
私は少し考えて、話し始めた。
甘いものが好きだったこと。いちごのケーキが特に好きだったこと。図書室で会うたびに新しい本を持ってきたこと。重いものを持つのが得意だったこと。笑うとき少し頭が後ろに傾く癖があったこと。
晴澄さんは聞いていた。
何も言わなかったけれど、聞いていた。目が少しずつ、違う表情になっていった。記憶を辿っているような、でも届かないような、そういう目だった。
話し終わったとき、晴澄さんが言った。
「いちごのケーキ」
「はい」
「……私も、誰かと一緒に食べた気がする。誰かが特別嬉しそうにしていた。それが誰だったか、思い出せないけど」
「先輩の記憶にも、残ってるんですね」
「欠けているけど、端っこが見える感じ。あなたの話を聞いていたら、端っこが少し見えてきた気がして」
「その端っこが、本物だと思います」
「本物?」
「封印で消されていても、完全には消えなかった部分です。先輩の中で、その子が残り続けていた場所」
晴澄さんが、目を閉じた。
「ましろ」
「はい」
「あなたのそばにいると、思い出しそうになる、と前に言ったでしょう」
「言っていましたね」
「今日、少し分かった気がする。あなたがその子のことを覚えているから、あなたのそばでその子の感情が近くなる。だから思い出しそうになるんじゃないかと」
「……そういうことかもしれません」
「あなたが媒介になっている」
「意識したことはなかったけど、そうかもしれない」
「不思議な体質ね」
「迷惑ではないですか」
「迷惑じゃない。むしろ」
晴澄さんが目を開けた。
「ありがたい、と思っている」
「ありがたい」
「一人で思い出そうとすると、頭痛がして、吐き気がする。でもあなたのそばにいると、少しだけ近づける。それはありがたい」
「お役に立てているなら、よかったです」
「お役に立てている、か」
晴澄さんが少し笑った。
「あなたはそういう言い方をするのね、いつも」
「どういう言い方ですか」
「自分が何かをされているより、何かをしている言い方をする。受け取る側じゃなくて、与える側で言う」
「そうですか」
「気づいていない?」
「意識したことがなかった」
「あなたも、もう少し受け取っていいと思う」
「受け取る?」
「私がありがたいと思っている気持ちを、もう少し受け取って」
「受け取っています」
「受け取り方が控えめすぎる」
「……そうかもしれません」
「あなたは、私がそばにいることを、どう思っているの」
唐突だった。
でも、晴澄さんの聞き方は、本当に知りたくて聞いている聞き方だった。質問で試しているのではなく、ただ知りたくて聞いていた。
私は少し間を置いた。
「……嬉しいです」
「嬉しい」
「先輩が何か言ってくれると、嬉しいと思う。先輩が笑うと、よかったと思う。先輩が苦しんでいると、どうにかしたいと思う」
「それは、放っておけないからじゃないの?」
「放っておけない、という感情とは別のところにある気がして」
「別のところ」
「うまく言えないです。ただ、先輩のことを考えることが、他の人のことを考えることと少し違う気がして」
晴澄さんが私を見た。
「どう違うの」
「他の人のことを考えるとき、何かをしてあげなければ、という感じがある。でも先輩のことを考えるとき、そうじゃない」
「じゃあ何の感じ?」
「……ただ、いたい、という感じ。そばに。何かをするじゃなくて」
言ってから、少し恥ずかしくなった。こういうことを人に言ったことがなかった。
晴澄さんが黙っていた。
長い沈黙だった。
カフェのBGMが流れていた。
「ましろ」
「はい」
「少し、試してもいいですか」
「何をですか」
「あなたの感応を、私に向けてみる」
「え」
「落とし物に触れると感情が分かる、というやつ。私に触れたら、私の感情が分かるかどうか」
「先輩に直接触れても、感応は基本的には働かないです。落とし物に残った感情が対象なので」
「基本的には、というのは?」
「強い感情が残っている場合、例外的に反応することがある。でも制御が難しいし、今の状況では」
「試してみてほしい」
「なんで急に」
「あなたが、そばにいたいと言ってくれた。私も、そばにいていいかどうか、確認したいから」
「確認?」
「私の感情が、どういうものか。あなたに受け取ってもらえたら、確認できる気がして」
私は少し考えた。
ルチルが肩のあたりで「やめろ」と小声で言った。「なんで」とも小声で返した。
「今は危ない。感応の感度がまだ高い。昨日の封印解除の影響が残っている。制御できない可能性がある」
「でも先輩が」
「危険だと言っている」
晴澄さんが「そちらの方と話してるの?」と言った。
「はい。ルチルが、今は危ないと」
「理由は?」
「昨日、私の封印を解いた影響で、感応の感度が高くなっています。先輩の感情が強い場合、引きずり込まれる可能性がある」
「引きずり込まれる、というのは?」
「先輩の記憶や感情の中に、意識が持っていかれること。戻れないわけではないが、危険を伴う」
「それでも、試してほしい」
「なんで先輩はそこまで」
「確認したいから」
「何を確認したいんですか、具体的に」
晴澄さんが少し間を置いた。
「あの子への気持ちが、本物かどうか」
「本物かどうか、というのは?」
「封印が解けて、断片的な記憶が戻ってきている。でもそれが本物の記憶なのか、封印が解けたことで生まれた新しい感情なのか、自分では判断できない。あなたが受け取ってくれれば、分かるかと思って」
「私が確認できても、先輩に返せるとは限らないですが」
「あなたが受け取ってくれるだけで、本物だと信じられる気がする」
私はルチルを見た。ルチルが「無茶だ」と言った。
「分かってる」
「それでもやるのか」
「……先輩が、そう言うから」
「感情で動くな」
「感情で動いてる。でも選んでる」
ルチルが黙った。
しばらくして、「引きずられたら、あたしが引き返す。それだけ約束しろ」と言った。
「約束します」
「約束を守れ。今度は本当に守れ」
「守ります」
晴澄さんに向き直った。
「やってみます。ただし、何か言ったら、すぐ手を離してください」
「分かった」
「先輩」
「なに」
「怖くなったら、言ってください」
「あなたが怖くなったら、言うでしょう」
「先輩が怖くなった場合もです」
「……分かった」
晴澄さんが、手をテーブルの上に出した。
私は少し深呼吸した。
ルチルが肩の上でぴったりとくっついてきた。
手を、そっと重ねた。
流れ込んできた。
やはり、直接触れた人の感情は、落とし物とは違う質感があった。ぼんやりとした輪郭の中に、感情が揺れていた。
怖い、という感情があった。
何かを失くすことへの恐怖。また誰かが消えてしまうことへの恐怖。自分が忘れさせられることへの恐怖。
その恐怖の奥に、温かいものがあった。
誰かのことを大切に思う気持ちだった。
それが誰に向かっているのかは、はっきりしなかった。でも、本物だった。封印が生み出したものではなく、もともとそこにあったものだった。
そして。
もっと深いところに、消えかけている何かがあった。
感応が、引き寄せられた。
「ましろ」
ルチルが言った。
「……大丈夫」
「引き寄せられている」
「分かってる。でも、もう少し」
深いところに、るりの感情があった。
晴澄さんの記憶の奥に、封印されたまま残っているるりの感情が。
好きだった、という感情が。
大切にしていた、という感情が。
行ってしまう前に、言えなかった言葉が。
「ましろ」
ルチルの声が遠くなった。
「手を離せ。今すぐ」
離せなかった。
離したくなかった、ではなかった。体が動かなかった。晴澄さんの記憶の深いところに引きずられていた。
るりが泣いていた。
泣きながら笑っていた。
文化祭の日の、最後に振り返った顔が見えた。
でもこれは私の記憶ではなかった。晴澄さんの記憶の奥にあったものだった。晴澄さんから見た、るりの最後の顔だった。
「言えなかった」
声がした。どちらの声か分からなかった。私の声か、晴澄さんの声か。
「好きだって、言えなかった」
言えなかった言葉が、記憶の中で残っていた。
封印されていた、言えなかった言葉が。
ましろ、という声がした。
ルチルだった。
おまえが言ってやれ、という声だった。
言えなかった言葉を、今から言ってやれ。
おまえが受け取った。だから言える。
私は意識の深いところで、思った。
るりさん。
覚えていた。忘れていなかった。封印されていても、感情が残っていた。先輩は、あなたのことを覚えていた。
好きだったという気持ちも、本物だった。
あなたが消えていった後も、ずっと、残っていた。
「ましろ」
晴澄さんの声だった。
目が開いた。
テーブルの上で、晴澄さんの手が私の手を握っていた。
「大丈夫?」
「……はい」
「突然、手を強く握り返してきて」
「すみません」
「痛くはなかった。でも顔色が真っ白で」
「引きずられました。少し」
「戻ってこられた?」
「はい。ルチルが」
ルチルが肩の上で「次はもう試みるな」と言った。怒っていたけれど、声が安堵していた。
「受け取れましたか」
晴澄さんが尋ねた。
「受け取れました」
「分かりましたか、私の感情が本物かどうか」
「本物です」
「確かに?」
「確かに。封印が作ったものじゃなくて、もともとあったものです。先輩の中に、ずっと残っていたものです」
晴澄さんが目を閉じた。
「よかった」
「はい」
「……本物なら、大切にしたい」
「できます。先輩なら」
「何が言いたいの」
「先輩は、大切にすることが上手な人だと思います。自分のことは後回しにするけど、誰かのことは大切にする」
「大切にしすぎて失くす、かもしれない」
「今度は失くさない。私も一緒にいるから」
晴澄さんが目を開けた。
「一緒にいる?」
「文化祭が終わっても。先輩が記憶を全部取り戻しても。それからも」
「……確約できるの?」
「できません。でも、そうしたいと思っています」
先のことは分からない。それでも、この場で選ぶことだけはできた。失くさない側に
いることを、私は自分で決めた。
「そうしたい、というのは」
「先輩のそばにいたい、という気持ちが、今日でもっと強くなったので」
晴澄さんがしばらく黙った。
カフェの中が、相変わらずざわめいていた。
「私も……」
小さく言った。
「あなたのそばにいたい、と思っている」
「先輩」
「あなたが媒介になっているのは分かってる。あなたを通じて、あの子に近づける。それだけかもしれない、と最初は思っていた」
「最初は、というのは」
「最初はそう思っていた。でも、そうじゃない部分の方が大きくなってきた」
「そうじゃない部分?」
「あなた自身のことが、気になっている。あなたが何を感じているか、あなたが何を拾ってきたか、あなたが何を言えないでいるか。そういうことが、気になっている」
「私のことが」
「そうよ」
晴澄さんが手を引いた。握っていた手が離れた。
「今言ったことは、整理できていない。自分でも、どこまで確かなのか分からない」
「整理できていなくていいです」
「よくないわ。ちゃんとしたい」
「先輩はいつもちゃんとしたがりますね」
「そういう性格なの」
「知ってます」
「……知っているなら、付き合って」
「付き合います。整理できるまで」
「時間がかかるかもしれない」
「待ちます」
晴澄さんが私を見た。
「あなた、本当に変な子ね」
「よく言われます」
「今日で何回言ったかな」
「今日は初めてです。でもこれまでで何十回も言われてます」
「そう」
「飽きませんか」
「飽きない」
晴澄さんが少し笑った。
それから手を戻してきた。
テーブルの上で、そっと。
「ましろ」
「はい」
「高熱を出したりしないでよ」
「え?」
「さっきひどく引きずられていたから。体に影響が出るかもしれない。今日は早く帰って休んで」
「心配してくれてるんですか」
「当然でしょう」
「先輩が心配してくれると、変な感じがする」
「変な感じ?」
「嬉しいけど、慣れていないので」
「慣れなさい」
「慣れます」
「帰るぞ。その通りだ。早く帰って休め。感応の酷使をしたあとは安静にしろ」
「はい」
「はい、じゃない。今すぐ帰れ」
「晴澄さんとまだ」
「話は文化祭が終わってからでもできる」
「でも」
「帰れ」
晴澄さんが「ルチルさんの言う通りね」と言った。「今日はありがとう。受け取ってくれて。話してくれて」
「こちらこそ」
「文化祭、一緒にいてくれますか」
「います」
「頼りにしている」
「任せてください」
「……そういう言い方は好きじゃないけど、今日は受け取っておく」
「どういう言い方が好きですか」
「一緒にいます、の方が好き」
「じゃあ、一緒にいます」
「ありがとう」
帰り際、晴澄さんの顔が、入ってきたときより少し柔らかかった。
整えていない、ではなくて、整えなくていい、という顔だった。
それを見て、また、胸のあたりが温かくなった。
今日も言葉にしなかった。でも今日は、言葉にしなくていいと思った。
言葉になる前の気持ちの方が本物のことが多い、と依子さんが言っていた。
今日感じたことは、まだ言葉の手前にあった。
でも確かに、そこにあった。
家に帰って、体温を測ったら三十七度八分あった。
ルチルが「言った通りだ」と言った。
「言いました」
「無茶をするから」
「でも後悔はしていません」
「強情だな」
「ルチルに言われたくないです」
「あたしは強情じゃない」
「十分強情です」
ルチルが「うるさい」と言った。それから「温かくして寝ろ」と言った。
「はい」
「熱が下がらなかったら明日は保管局に行くな」
「文化祭まで時間が」
「体が動かなければ何もできない。寝ろ」
「はい」
布団に入った。
窓の外が暗かった。
目を閉じると、今日受け取ったものが、胸のあたりでゆっくり動いていた。
晴澄さんの感情。本物だった。
るりさんの、言えなかった言葉。伝わったかどうかは分からない。でも受け取った。
晴澄さんのそばにいたい、という気持ち。
それも今日、少しだけ言葉に近づいた。
全部言葉にするのは、文化祭が終わってからでいい。
今は、準備をする。
「ルチル」
「なんだ」
「るりさんに、ちゃんと届けます。覚えていると」
「……ああ」
「先輩も一緒に」
「ああ」
「文化祭、うまくいきますか」
「分からない。でも」
「でも?」
「おまえが行けば、可能性はある」
「ルチルも来ますよね」
「当然だ」
「一人じゃないから、大丈夫な気がします」
「根拠は」
「なんとなく」
「……またか」
「当たってますよ、たいてい」
「知っている」
「じゃあ信じて」
ルチルが黙った。
しばらして、「信じている」と言った。
それが今日の最後の言葉だった。
私は目を閉じた。
文化祭まで、四日だった。
その四日間の先で、何か一つを拾えば済む話ではないのだと、もう分かっていた。
この学校そのものが、長いあいだ失くしたままにしてきた感情を、ようやくこちらへ返そうとしていた。




