第十八章 文化祭前夜の怪異
文化祭の前日、木曜日の放課後から始まった。
最初の変化に気づいたのは、透子だった。
「先輩、落とし物箱、見てください」
職員室前の廊下に、学校の落とし物箱が置いてある。プラスチックのコンテナで、忘れ物や落とし物が入っている。
それが、あふれていた。
コンテナの中身が積み上がって、端から溢れていた。手袋、消しゴム、ハンカチ、財布、定期券。でもおかしかった。文化祭の準備で慌ただしかったとはいえ、一日でこれほど落とし物が増えることはない。
「いつからですか」
「お昼過ぎから。急に増えたって、職員室の先生が困っていた」
私はコンテナを見た。感応を使わなくても、気配があった。濃い感情の気配が、コンテナ全体から滲んでいた。
「触れないでください」と透子に言った。
「はい。何ですか、これ」
「怪異が、活性化している」
ルチルが肩の上で「予想より早い」と言った。
「明日のはずだったのに?」
「文化祭当日に集中すると思っていたが、前日から動いている。封印が弱まりすぎているのかもしれない」
「依子さんに連絡します」
「ああ。それと榊晴澄を確認しろ」
「先輩が?」
「怪異が活性化するとき、榊晴澄に最も近い形で影響が出る。今の状態が、先輩にも及んでいないか確認しろ」
「分かりました」
透子に「しばらくここを離れないでください。誰も落とし物箱に触れないように」と言った。透子が「はい」と言った。頼りになる後輩だった。
依子さんに連絡しながら、生徒会室に向かった。
廊下を歩いていると、学校の空気が変わっていることに気づいた。
文化祭前日の浮き足立った空気ではなかった。
重かった。
廊下を歩く生徒たちの足が少し重そうで、笑い声が少なかった。気づいていないのかもしれない。でも何かが、全体に滲んでいた。
「感応が広がっている。落とし物箱からだけじゃない。学校全体の遺失物が共鳴し始めている」
ルチルが言う。
「どういうこと?」
「怪異の根が、強くなっている。普段は各所の遺失物怪異は個別に動いている。でも根が強くなると、全部が共鳴して一つに動き始める」
「それが今起きている」
「そうだ。まだ初期段階だが、放置すれば悪化する」
「文化祭当日が本番だとしたら、今日はその予兆ですか」
「そうだと思う」
依子さんからの返信が来た。「把握した。すぐ行く。ましろちゃんは先に榊さんを確認して」
生徒会室に着いた。ドアをノックした。
志季さんが開けた。
「来ると思っていました」
「先輩は?」
「中にいます。少し前から頭痛が始まって」
「やはり」
「関係していますか、今日の学校の空気と」
「しています。中に入っていいですか」
志季さんが道を開けた。
晴澄さんが、生徒会室の奥の椅子に座っていた。こめかみを押さえていた。
「ましろ」
顔を上げた。
「来てくれたのね」
「はい。大丈夫ですか」
「頭痛が。さっきから急に」
「落とし物箱が、あふれているのは気づきましたか」
「廊下で見た。変だと思っていた」
「学校全体の遺失物が共鳴しています。怪異の根が強くなっているから。それが先輩に一番近い形で影響している」
「私に影響するのはなぜ?」
「先輩が、根に最も近い人だから」
晴澄さんが少し目を細めた。
「るりのことね」
「はい」
「……名前を口に出そうとすると、頭痛がひどくなる」
「今は出さないでください」
「分かっている」
依子さんから「旧校舎の前にいる。来られる?」とメッセージが来た。
「先輩、依子さんが来ました。一緒に来てもらえますか」
「行ける?」
志季さんが晴澄さんに尋ねた。
「行く」
晴澄は即答だった。
旧校舎の前に、依子さんがいた。
いつもの飄々とした雰囲気ではなかった。今日は棒付きキャンディをくわえていなかった。
「状況を確認する。落とし物箱の件は把握した。今、学校内で感情の共鳴が起きている。源は旧校舎。封印が一段階弱まった」
「一段階?」
「封印には強度がある。段階的に弱まっていって、最終段階で完全に破れる。今日の活性化で、最終段階の一歩手前まで来た」
「明日の文化祭が最終段階ですか」
「そう思う。文化祭の感情の高まりが引き金になれば、最終段階が起きる。それが私たちが望む形でできるか、できないかが明日の鍵」
「望む形というのは」
「感情を怪異として暴発させるのではなく、ちゃんと受け取られる形で解放すること。るりさんの感情が、誰かに届いた上で手放されること」
「できますか」
「ましろちゃんの感応次第。あと、榊さんがるりさんの名前を思い出せるかどうか」
晴澄さんが依子さんを見た。
「私が、名前を呼ぶことが必要なんですか」
「必要かどうか、断言はできません。でも、るりさんの感情は、あなたに覚えていてほしくて残っているんだと思います。あなたが思い出して、名前を呼ぶことが、一番直接的な解放の鍵になる可能性がある」
「名前を呼ぶと、封印が破れる危険があると聞いた」
「ある。だから明日、状況を整えてから行います。今日はまだやらない」
「今日はどうしますか」
「様子を見る。活性化が今夜どこまで進むかによって、明日の動きを決める」
依子さんが旧校舎を見上げた。
「問題は、今夜これ以上悪化しないかどうか。真壁さんには連絡した。今夜は封縫で押さえる」
「押さえられますか」
「今夜分は。明日の文化祭が始まれば、もう押さえられない段階になる。それが本番」
廊下で、生徒の声がした。文化祭の準備を終えて帰る生徒たちだった。普段通りの声に聞こえたけれど、少し疲れた声でもあった。怪異の影響が、気づかない形で及んでいるのかもしれなかった。 「一つ確認です」
私は伝えた。
「なに」
「校内放送に声が混じる、という現象が起きていますか」
「起きていない。今はまだ」
「起きたら、共鳴が次の段階に入ったということですか」
「そう。聞こえたら連絡して」
「分かりました」
その夜、学校に残って様子を見た。
依子さんが封縫をかけて回った。落とし物箱、旧校舎の入り口、感応が強く揺れる廊下の角。白い糸が学校の各所に施された。
私は感応で状況を把握しながら、依子さんの後をついて回った。
晴澄さんと志季さんは、六時に帰してもらった。晴澄さんの頭痛が続いていたし、明日のために体力を残してほしかった。
晴澄さんは帰り際に「明日、ちゃんとできますか」と聞いた。
「できます」と私は答えた。
「根拠は?」
「なんとなく」
晴澄さんが少し笑った。
「……そのなんとなく、信じておく」
「正解です」
「あなたが言うなら」
志季さんが「先輩、行きましょう」と言った。晴澄さんが「じゃあ明日」と言って、歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなってから、ルチルが言った。
「榊晴澄は、明日うまくやれると思うか」
「うまくやれると思います。先輩は強い人だから」
「整えることが得意な人は、崩れるときに大きく崩れる」
「それも知っています。だから、私がそばにいます」
「おまえが崩れたら?」
「ルチルがいます」
「あたしが崩れたら?」
「依子さんがいます。志季さんもいます」
ルチルが短く鼻を鳴らした。
「答えを持っているな」
「考えていたので」
「いつ?」
「今日ずっと。封印解除の後から、ずっと考えていた」
「そうか」
「ルチル」
「なんだ」
「明日、何があっても、私はちゃんとやります」
「……知っている」
「でも言いたかった」
「……うん」
また、うん、と言った。
夜の学校に、依子さんの封縫の糸が張り巡らされていた。白い糸が、廊下の角や扉の縁に、見えるか見えないかの形で残っていた。
「今夜は保つか」と私は依子さんに聞いた。
「保つと思う。ただ」
「ただ?」
依子さんが、旧校舎の方を見た。
「あの子が、揺れている気がする」
「るりさんが?」
「封縫をかけながら感じていた。今まで静かに根として残っていたのに、今日から揺れ始めている。意志みたいなものが動いている」
「明日が来ることを、感じているのかもしれない」
「そうかもしれない」
「怖がっているんですか、るりさんは」
「……怖くはないと思う。待っているんじゃないかな」
「待っている」
「四年間待っていた。やっと来る、という感じで揺れている気がして」
私は旧校舎を見た。
窓が暗かった。中には誰もいない。でも、そこに何かがある。
四年間、消えることができないまま待っていた誰かが。
「るりさん」
声に出した。小さく。
「明日、会いに行きます」
返事はなかった。
でも、旧校舎の方から来る感応の揺れが、少しだけ変わった気がした。
怪異の揺れではなく、別の何かの揺れだった。
「感じたか?」
「感じました」
「そうだな」
ルチルが肩の上で、首のリボンに少し触れた。赤いリボンに。
「るりも、感じているのかもしれない」
「はい」
「……明日」
「はい、明日」
夜の九時に学校を出た。
依子さんが「今夜の封縫は保つ。明日の朝、また確認する」と言った。
「真壁さんは?」
「連絡は取った。明日の申請の結果が出るかどうかは、朝次第」
「出なかったら?」
「出なかったら出なかったで、動く」
「依子さんも関与禁止になりますか」
「なるかもしれない。でも」
依子さんがキャンディをポケットから出した。今日初めてくわえた。
「大人のやり方でやる」
「さっき言っていた、建前上従いながら実際は動く、というやつですか」
「そういうこと。真壁さんも黙認してくれると思う。あの人、関与禁止を言いながら、実際に止めに来ないタイプだから」
「それは依子さんが知っているから言えることですよね」
「長い付き合いだから」
依子さんが歩き出した。
「ましろちゃん」
「はい」
「今日から明日にかけて、感応の感度を下げておいて。明日の本番で使い切ることを考えて、今夜は受け取らないように」
「遮断することができますか」
「ルチルに教わった選ぶ、という感覚を使って。選ばないことも選択のうち。今夜は何も受け取らないと決める」
「やってみます」
「できる。今日の訓練の成果が出てた」
「ありがとうございます」
「じゃあ帰って。早く寝て」
「はい」
「ルチル」
「なんだ」とルチルが依子さんに言った。
「明日、よろしくね」
「……分かっている」
「ましろちゃんを頼んだよ」
「頼まれなくてもそうする」
「知ってた。でも言いたかったから」
「……うるさい」
依子さんが笑った。
私も笑った。
夜道を歩きながら、感応を遮断する練習をした。ルチルが教わった通り、受け取らないと選ぶ。道の端の物、落ちていた傘、誰かが忘れたらしいビニール袋。それらの感情に感応が向かおうとするのを、今日は遮断した。
少し寂しい感覚があった。感応が向かおうとするのを止めると、世界が少し遠くなる感じがした。
でも明日のために、今夜は貯めておく。
「うまくできているか?」
ルチルが聞いた。
「たぶん」
「たぶん、で十分だ。続けろ」
「はい」
「今夜は何も考えるな。明日のことも、るりのことも、榊晴澄のことも」
「何を考えればいいですか」
「何も考えなくていい。寝ろ」
「考えないのは難しいです」
「考えそうになったら、あたしを見ろ」
「ルチルを見る?」
「そうだ。あたしはそこにいる。それだけ確認すれば十分だ」
「それで考えるのをやめられますか」
「試してみろ」
家に帰って、布団に入った。
考えそうになった。明日のこと、うまくいくかどうか、るりさんに届くかどうか、ルチルがどうなるか、晴澄さんが、志季さんが、依子さんが。
ルチルを見た。
本棚の端にいた。目を閉じていた。
そこにいた。
それだけで、少し落ち着いた。
明日のことは、明日になれば分かる。
今夜は、ルチルがそこにいることだけ、確認しておく。
「おやすみ、ルチル」
「……おやすみ」
目を閉じた。
思ったより早く、眠れた。
翌朝、文化祭の日。
目が覚めた瞬間、学校からの方向に、感応が反応した。
遮断していたのに、それでも届くほど強い何かが、学校の方から来ていた。
「起きたか」
「ルチル、今朝から何かある?」
「ある。昨夜より活性化している。封縫が一部、押さえられなくなっている」
「依子さんから連絡は?」
「来ていない。まだ朝早い」
時計を見ると、六時だった。文化祭は九時開始だった。
「急いで行った方がいいですか」
「依子さんが確認している。今は連絡を待て」
「分かりました」
朝食を食べた。いつも通り食べた。ルチルが「よく食べられるな」と言った。
「緊張しているけど、食べないと動けないので」
「合理的だ」
「ルチルは食べますか?」
「あたしは食べなくても動ける」
「甘いものは?」
「……それは別の話だ」
「甘いもの、文化祭で買ってきます。終わったら」
「終わったら、あたしがどうなっているか分からない」
「それでも買ってきます。供えます」
「供えるな。縁起でもない」
「では一緒に食べます」
「食べられる状態でいるとは限らない」
「いてほしい」
「……勝手なことを言うな」
「言います」
ルチルが「うるさい」と言った。声が怒っていなかった。
七時に依子さんから連絡が来た。
「旧校舎の封縫、三割くらい破れている。昨夜より活性化が早い。ましろちゃん、来られる?」
「今すぐ行きます」
「急がなくていい。九時の開始前に来れれば」
「でも今行きます」
「……分かった。先に来てて、私もすぐ向かう」
真壁さんからもメッセージが来た。依子さんに転送されていた。
「申請、通った」
一行だけだった。
でも、それで十分だった。
学校に着くと、まだ生徒はほとんどいなかった。
でも校舎の空気が、昨日より重かった。感応を遮断していても分かるくらい、濃かった。
廊下を歩くと、足元に小さな物が落ちていた。ボタン、コイン、リボン、消しゴム。落とし物が、廊下に散らばっていた。
「誰が落としたんですか、こんな朝早くに」
「誰も落としていない。怪異が引き出している。持ち主のもとにある物が、感情の共鳴で引っ張られて落ちてくる」
ルチルが言う。
「ものが勝手に落ちてくる」
「そうだ。これが"総崩れ"の前兆だ。全ての遺失物怪異が一斉に動き始めると、学校全体が崩れる」
「崩れる、というのは物理的に?」
「物理的ではない。感情的な崩れだ。この学校にいる全員が、何かを失くしている、という感覚に覆われる。それが現実の歪みを引き起こす」
「前回の大規模怪異が、そういうものでしたか」
「四年前はそうだった。るりが止めようとして、自分が核になった」
「今度は、るりさんに止めてもらうのではなくて、受け取ることで解放する」
「そうだ。止めるのではなく、通してやる。感情が出てくることを許す。その上で、受け取る」
「分かりました」
旧校舎の前に来た。
依子さんがいた。封縫の糸を補強していた。
「来たね」
「はい。状況は」
「ギリギリ保っている。でも開会の時間になれば、一気に動くと思う。生徒が集まって、感情が集中すれば、封印が最終段階に入る」
落ち着いた口調だったけれど、依子さんが糸を持つ指先だけは、いつもより少し強く力が入っていた。平静を保っていても、これが楽な案件ではないことは、依子さん自身がいちばん分かっているのだと思った。
「それが本番」
「そう。ましろちゃん、今の感応の状態は?」
「遮断していました。まだ余力があります」
「よかった。今日は三段階で動く」
「三段階?」
「一段階目、開会から昼まで。感応を低く保ちながら、状況を把握する。二段階目、午後から夕方。封印が動き始めたら、感応を上げていく。三段階目、最終局面。全開で受け取る」
「全開、というのはどのくらいですか」
「今まで使ったことのない感度だと思う。でも、訓練してきた。できるはず」
「やります」
「一人でやらない。ルチルが側にいる。志季さんも来る。榊さんも」
「はい」
「申請、通ったよ」
「聞きました」
「真壁さん、案外早かったね」
「依子さんの言い方だと、真壁さんが動かしてくれた気がします」
「そうかもね。あの人、動かないように見えて、動かしてるから」
依子さんが少し笑った。
「知っています」
「さて」
依子さんが封縫の糸を仕舞った。
旧校舎を見上げた。
「今日、やりきろう」
「はい」
「るりさんに、ちゃんと届けよう」
「はい」
「失くされたままにしない」
「はい」
ルチルが肩の上で、首のリボンに触れた。
赤いリボンが、朝の光の中で少し輝いた。
文化祭の開始まで、一時間だった。




