第八十八話 裏道から始まる前哨戦
最後尾の荷車が尾根の陰へ消えても、三度続けて鳴った金属音は耳に残っていた。幌の下から外へ何かを知らせようとしたのなら、見過ごすわけにはいかない。
斥候の帰還を待つ間、ヴィクトルと岩の上に広げた地図を覗き込む。橋の向こうへ続く街道とは別に、砦の裏側には古い作業道が描かれていた。尾根を回り、鉱山の搬送路に合流するらしい。
「地図の上では近道ですね。現物もそうなら助かるのですが」
「橋を落とした以上、連中も別の道を使うしかないだろう。この裏道はまだ通れると思うがな」
「使っているのが向こうだけなら、なおさら警戒が必要です」
ヴィクトルの指先が、道幅の狭まる箇所で止まった。軍用車両は無理だろう。大人数で押し入れば、待ち伏せにも対応しづらい。ほどなく戻った斥候の探り棒には、湿った赤土が付いていた。
「道は残っています。崩れた箇所もありますが、人なら通れます。ただ、隊列を組める幅はありません」
「搬送路へ出るのは?」
「荷車が回り込む谷筋より手前です。上から様子を見られる場所もあります」
正門にはまだ弩兵が潜んでいる。橋へ注意を向けさせたまま裏側へ回れれば、荷車にも追いつけるはずだ。
「先遣はルクス殿たちと斥候数名で。後続は安全を確かめながら進ませます。敵に察知された場合、荷車の中身を優先して判断してください」
「分かった。中に人がいるかもしれん。無理な突入は避けよう」
話がまとまる頃には、イルゼの指示で砲兵たちが配置を改めていた。軽魔導砲二門は橋の手前に残し、敵が出てきた場合に備える。砦の内部が分からない以上、壁を砲撃するつもりはない。
負傷した斥候を軍の救護係に引き継いだエマも戻ってきた。
「ルクスさん、先に行きましょう。救助が必要なら、時間を掛けたくありません」
「あの音、誰かが鳴らしたんだよね。なら、私も行く。放っておけないよ」
「頼む。ただし荷車を巻き込まないようにしてくれ」
「うん、荷車には当てない。そういう場面でしくじるつもりはないから」
勢いよく歩き出しかけたサクヤは、前に出た斥候に気づいて足を緩めた。道案内を先に通し、俺たちも岩場へ入った。
◇
旧作業道には、石積みで崖を補強した部分と、岩肌を直接削った部分が交互に現れた。錆びた工具の欠片を避けながら進んでいると、先行する斥候から停止の合図が届く。
岩陰の下には荷車の列があった。搬送路の大きな迂回のおかげで、尾根から見送ったときよりも距離が縮まっている。幌付きの車両は複数台。護衛は前後に散り、最後尾だけは車体の両脇に余計な金具が増設されていた。縄で縛られた幌が、内側から押し上げられている。あれほど大きく膨らむなら、荷物が揺れているだけでは説明がつかない。
「ルクスさん、あそこ。幌の中で何か動いてる……!」
「ああ。先に護衛の動きを見よう」
「……あんなふうに縛らなくたっていいのに」
先頭が切り通しへ入ろうとしたとき、護衛の一人が岩壁を仰いだ。こちらを見つけたかは分からないが、仲間へ叫ぶなり最後尾へ駆け寄った。
「今、こっちを見た……?」
「まだ分からん。何をする気だ?」
男の手が馬と荷車を繋ぐ牽引具へ伸びた。馬だけを前へ離し、車輪留めを外す。支えを失った荷車は傾斜を転がり始めた。進行方向にあるのは谷へ落ち込む崖だ。
「待って、荷車を落とすつもり!? 中に人がいるのに!」
「エマ、車体を止めてくれ! サクヤはあの男を!」
「はいっ!」
「させるかっつーの!」
雷霆の光が牽引具のそばで弾け、男を車体から引き離した。それでも車輪は止まらない。岩棚から搬送路へ飛び降り、荷車に追いついたところで、青白い聖壁が崖際にせり上がった。転落しかけた車輪を受け止め、荷台が大きく揺れる。
「エマ、このまま支えられるか!」
「やれます! ルクスさん、車体を道へ戻してください!」
車軸を掴み、傾きを少しずつ戻していく。力任せに引けば、荷台にいる者を壁へ叩きつけかねない。傾斜が緩むにつれて車体から伝わる振動も収まり、ようやく荷台の重さを地面へ預けられた。最後の車輪が接地するまで聖壁は形を保ち、転落を食い止めた。
「……間に合った。でも、あの人たち、まだ武器を持ってる!」
サクヤの雷が護衛の足元を打ち、荷車への接近を阻んだ。馬と逃走路は斥候が押さえている。斧槍を突き出してきた男には六爪剣を合わせ、穂先を逸らした勢いで岩壁へ突き飛ばした。武器を落とした男が崩れ、残る護衛も拘束される。
先頭の荷車は切り通しの向こうへ消えたが、今はここが先だ。縄を切って幌をめくると、熱の籠もった空気の奥に身を寄せ合う人々がいた。手首を金具で繋がれ、一人は荷台の壁へ足を押しつけたまま動かない。外から入った光を避けるように顔を伏せた者もおり、こちらに救助の意思があると伝わるまでは、むやみに手を伸ばせそうになかった。
「帝国の調査隊だ。もう車は動かさん。手を貸してもいいか?」
しばらくして、奥から拘束された両手が差し出された。金具の縁が手首へ食い込み、外そうとしたのか指先も傷だらけだ。固定具を外す横では、エマが一人ずつ反応を確かめ、身体を起こせるか尋ねていた。
「急いで歩かなくても大丈夫です。ここからは私たちが支えますから」
床に残っていた男は水を少し飲むと、俺の鎧を見つめた。言葉にならない声を何度も漏らし、ようやく短く告げる。
「……まだ、いる」
「砦の中か?」
答える前に力が抜け、エマに身体を預けた。これ以上の聞き取りは無理だろう。切り通しの向こうから笛が鳴り、逃げた荷車の行方も気に掛かる。
「エマ、救護を頼めるか。斥候も残そう」
「はい。救護班が到着するまで、こちらにいます」
「私も残った方がいい? でも、向こうにも人がいたら……」
「ここはエマたちに任せる。俺たちは先を押さえよう」
「……うん。先の荷車も、助けないと」
「ルクスさんも気をつけてください。残りの荷車にも人がいるかもしれませんよ」
「分かってる。無理に攻め込むつもりはない」
振り返れば、荷車の脇に広げた聖壁の陰で救出者が休んでいる。護衛を残して先へ進んだ。
◇
切り通しの先で搬送路は旧第四砦の裏側へ回り込み、低い石造りの建物へ繋がっていた。車輪の跡はその一棟へ続いている。尾根から見えた荷車の出入り口だろう。
逃げた車両は見当たらないが、敷地の端では武装した男たちが荷箱を奥の扉へ運び込んでいた。こちらの接近に気づくなり箱を放り出して逃げ込み、代わりに鎖を引きずる音が近づいてきた。
姿を現したのは、狼に似た頭部を持つ大型の魔獣だった。人の胸ほどもある背丈に、灰褐色の毛皮。太い前脚が岩を踏みしめるたび、肩の筋肉が不自然に盛り上がる。首には厚い金属製の装具が嵌められ、そこから伸びた鎖を護衛の一人が握っていた。四肢の運びはぎこちないのに、岩場でも速度が落ちない。バルガルドで交戦した改造獣を思わせるが、同じ製造元とは限らない。
「ルクスさん、あの首の金具……バルガルドの改造獣と似てるよね」
「ああ。できれば装具は残しておきたい」
「分かった。でも、あれ……動きがおかしい。無理に追いかけない方がいいかも」
獣の跳躍に合わせて鎖が張り、身体の向きが不自然に変わった。握っていた男まで振り回されている。制御が追いつかないのだろう。鎖に引かれるたび踏み込みがずれるなら、速度そのものより着地点を見極めた方がいい。突進を避けて踏み込むと、勢いの余った巨体が石壁へ肩を打ちつけた。
首の装具にできた隙間へ刃を差し込み、接合部を切り離す。暴れる獣が次の跳躍に移る前に、サクヤの雷霆が全身を捉えた。
「今なら……そこっ!」
石畳へ倒れ込んだ巨体は、焼け焦げて白い煙を吐きながら動かなくなった。
「……ちょっと火力強すぎた、かな。首の装具は無事?」
「接合部だけ切った。調査には使えるだろう」
「よかった。ディートヒルトにも確認してもらえるね」
建物の陰では、なおも弩を構える護衛がいる。内部に何があるか分からず、建物ごと壊すわけにもいかない。踏み込む機会を窺ううち、旧作業道から後続の帝国兵が到着した。ヴィクトルの手配した部隊だろう。出入口が押さえられ、逃げようとした護衛も包囲される。
表の門楼から増援が来るには時間が掛かる。入り口を塞ぐ遮蔽物を引き倒すと、開いた通路から帝国兵が突入し、奥に残っていた護衛を拘束していった。荷箱へ火を移そうとした男も斥候に取り押さえられ、箱の蓋には焦げ跡だけが残った。
別働隊が裏手の回廊から門楼へ回り、正面の弩兵を退かせたらしい。やがて正門が内側から開き、橋の手前で待機していた部隊にも進入路の確保が伝えられた。ただし、砦の地下まではまだ調べが及んでいない。
遅れて到着したヴィクトルは、焼却されかけた荷箱を確かめた。
「相当、急いで片づけようとしていたようですね」
「荷車より、あの箱の方が惜しかったらしい。中身は?」
「封印と記録が先です。開けて何も残らなければ、それこそ骨折り損ですから」
「必要なことがあれば手伝う。俺たちも奥を調べていいか?」
「安全確認が済んだ区画からお願いします」
救護班へ人々を引き継いだエマとも合流し、建物の奥へ入った。荷車を丸ごと収容できそうな区画には、床を横切る鉄の筋が何本も走っている。石壁の手前で途切れているものの、部材の一部は新しい。
安全確認を終えると、ディートヒルトとヨナスも護衛を伴って入ってきた。床の継ぎ目を調べるや、ディートヒルトの声が弾む。
「これ、線路じゃないよ。床ごと動かす仕組みだ。……ちょっと待って、こっちにも芯材が入ってる」
「主任、先に接続先を確かめてください。橋で使われたものと同じような仕掛けなら、触れた途端に作動するかもしれません」
「分かってる。外から見てるだけだってば」
示された隙間には被覆線が束ねられ、橋の目地から発見された金属線によく似ていた。同じ設備に繋がっているのか、部材が共通しているだけなのかは調査を待つしかない。
壁際の留め具が外されると、床板の下に暗い空間が現れた。落下防止の枠を固定して明かりを向けても、底は遥か下にある。奥からは重い機械の回転音が響いてきた。
「地下の搬送機構ですね。使われていない施設にしては、よく動いている」
姿を消した荷車も、この下へ運び込まれたのかもしれない。
「……こんなに深いんだ。これ、どこまで続いてるの?」
狐耳を絞りながら穴を覗き込むサクヤの横では、身を乗り出しかけたディートヒルトの革前掛けをヨナスが掴んでいた。
「主任。まず、戻って来られる仕組みかどうかを調べましょう」
「そんなこと分かってるよ! ちょっと見ようとしただけ!」
「それ、ちょっとって距離じゃないよ、ディートヒルト。……でも、奥に人が残ってるかもしれないんだよね」
「そうだな。工兵に安全を調べてもらってから進もう」
「……うん。早く確かめられるといいけど」
気がかりそうに穴を見つめながらも、サクヤは工兵の邪魔にならない位置まで下がった。暗がりの奥では、まだ重い機械が回り続けていた。




