第六十話 恋狐、聖女と相対す
先日の伏魔殿探索について話がある――そう冒険者ギルドから呼び出されているのは今日の昼前。指定された時刻まではまだ余裕があるからと、私はルクスさんとセラスさんについて神秘院まで来ていた。
王都にはそれなりに長くいるけれど、考えてみれば神秘院の辺りまで足を運んだ覚えはほとんどない。冒険者として仕事をしていれば、用事があるのはギルドや商業区の方が多いし、怪我をしても自分でどうにかするか、身近な治癒術士に頼ることが多かったから。
「……改めて見ると、でっか」
見上げた大聖堂は、遠目で見るよりずっと大きかった。年季の入った白灰色の石造りなのに隅々まで手入れされ、左右へ伸びる回廊の先にも建物が続いている。古くから王都に根を張る大勢力の本拠地――そう言われれば納得できるだけの迫力があった。
「神秘院って、もっと静かなところだと思ってた」
「奥は静かよ。ここは治療を受けに来る人も多いし、神秘院そのものが大所帯だからね」
セラスさんの説明を聞きながら見回してみれば、祈りに来た人だけじゃない。神官に治癒術士、杖をついた老人、包帯を巻いた男、その付き添いらしい家族まで絶えず出入りしている。荘厳な大聖堂というより、それを中心にひとつの大きな組織がそのまま暮らし、働いている場所に近いのかもしれない。
その流れを見ていたルクスさんが、大聖堂へ向かう石段の手前で足を止めた。
「セラス。悪いが、先に受付で確認してきてくれ」
「アンタは?」
「俺がこのまま入って、患者を怖がらせても仕方ない。入って構わないなら後から行く」
言われてみれば確かにそうだ。私はもう見慣れているけれど、具合が悪くて来たところへ全身鎧がぬっと現れたら、それだけで別の病気になりそうな人もいるかもしれない。
「んじゃ、聞いてくるわ」
「なら、私はルクスさんといる」
ほとんど同時に口を開くと、セラスさんがちらりと私を見た。何か言いたそうな顔をした気がするけれど、そのまま笑って大聖堂へ入っていく。
「お前も中を見てきて構わないぞ」
「いいの。セラスさん一人で十分でしょ」
「まあ、そうだな。なら付き合ってもらうか」
「うん」
昨日あんなことを言ったばかりなのに、返ってくる声はいつもと大きく変わらない。それでも最後の一言が妙に嬉しくて、自分でも単純だと思いながらルクスさんの隣に並んだ。
そういえば、昨日も唐突だった。
食事をしながら私の世話を焼いていたセラスさんが、何かを思い出したようにルクスさんへ顔を向けた。
『そういえば、予定通りなら明日ね』
『ああ。そうだったな』
何の話だろうと思っていたら、今度は赤い目が私へ向く。
『サクヤ。『黒騎士と聖女の詩』が好きだったな』
『うん。好きだけど』
『明日は、その聖女に会えるぞ』
『ほんと!?』
あの時は、それだけで一気に気分が上がった。好きな詩にも劇にも出てくる聖女本人に会えるのだ。
『どんな娘?』
そう聞いた私に、なぜかルクスさんとセラスさんは一度顔を見合わせた。
『会ったらわかる。先に聞くより、その方が面白いだろ』
『なにそれ。余計気になるんだけど』
結局、教えてもらえたのはそれだけだった。
昨日は楽しみでしかなかった。なのに、こうして本人が出てくるのを待っていると、ひとつ気づいてしまう。
……聖女って、ルクスさんに一番近い女ってことじゃない?
そういう仲ではない、とは聞いている。でも何でもない男女が二人揃って詩になって、劇にまでなるものなんだろうか。
しかも、私が観た劇の聖女役がすごかった。
顔は文句なしに綺麗。金髪はきらきら。胸なんて衣装の上からでも目を疑うくらい大きいのに腰は細くて、後ろ姿まで隙がない。声まで綺麗で、舞台に出た瞬間に男も女もまとめて目を持っていかれるような人だった。
……本物まで、あんなめちゃくちゃエロい身体した美女だったらどうしよ。
嫌な想像を始めると、今度は別の顔まで浮かんでくる。セラスさんだって綺麗だし、胸もあるし、背が高くてスタイルもいい。この前うちへ来たミレイユさんも、いかにも大人の女って感じの美人だったうえに、ルクスさんとはずいぶん親しげだった。
ちょっと待って。
ルクスさんの周り、美女ばっかりじゃない?
今まで何とも思っていなかったくせに、好きだと口に出した途端、目につくものが増えすぎている。
でも、別に私だって負けてはいない。顔には自信があるし、髪だってちゃんと手入れしてる。耳と尻尾も自慢だ。さりげなく自分の胸元を見下ろしてみれば、こっちだって結構ある。
負けてない。
……はず。
ちら、と隣を見る。
当の本人は何も知らず、大聖堂の入口を眺めている。
なんか腹立つ。
伸ばしたブーツのつま先を、黒い脚甲へ当てた。コツ、と硬い音。もう一度、今度は続けて二回。
「さっきからどうした。何か気になることでもあるのか?」
赤い視線が私へ向いた。
たったそれだけで、胸の奥に溜まっていたもやもやがするっと薄くなる。我ながらちょろい。けれど、それを悟られるのはものすごく悔しい。
「……別に。何でもない」
「そうか? ならいいが」
何でもありませんけど、という顔でそっぽを向く。これなら大丈夫――と思ったのに、腰の後ろでは尻尾がぱたぱた揺れていた。
やめて。今だけは本当にやめて。
「ルクスさん!」
聞き慣れた声が大聖堂の方から飛んできた。
戻ってきたセラスさんの後ろから金髪の少女が姿を見せ、こちらを――正確にはルクスさんを見つけた途端、ぱっと顔を明るくする。そのまま駆け出したところで、ようやく私の存在にも気づいたらしい。
「……エマ?」
思わず名前が漏れると、エマの足が一瞬だけ鈍った。
「えっ、サクヤさん?」
驚いた顔はすぐに笑顔へ変わり、そのまま私たちの前までやってくる。
「ルクスさん、サクヤさんとお知り合いなんですか?」
「エマこそ、なんでルクスさんと知り合いなの?」
「え?」
「え?」
二人で顔を見合わせたところへ、昨日の言葉が頭の中へ戻ってきた。
今日会える。聖女。神秘院。そして目の前にはエマ。
「……ちょっと待って」
恐る恐るルクスさんを見上げる。
「昨日言ってた聖女って……」
「そうだ。エマのことだ」
「エマぁ!?」
「だから違います! 私が聖女を名乗ってるわけじゃないんです!」
「でも詩に出てくる聖女ってエマなんでしょ!?」
「それは勝手にそう呼ばれてるだけで……って、サクヤさんこそ、どうしてルクスさんと一緒にいるんですか?」
「それは……いろいろ!」
「そこを聞いてるんです!」
昨日告白したから、なんてここで言えるわけがない。言葉に詰まった私と、納得していないエマ。その向こうでセラスさんだけが露骨に楽しそうにしている。
「ほら、二人とも。続きは移動しながらにしなさい。ギルドに呼ばれてるんでしょ?」
「あっ」
「そうでした!」
また声が重なった。
移動しようとエマが荷物鞄を持ち直したところで、横から伸びた大きな手がその取っ手をさらっていった。
「あ、ありがとうございます、ルクスさん」
「気にするな」
あまりにも自然なやり取りに、つい鞄を見てしまう。前から一緒に冒険してたなら、これくらい普通。普通なんだけど……まあ、相手がエマならいいか。
乗合馬車へ移ってからも、質問は途切れなかった。
「じゃあエマ、王都に来る前からルクスさんと一緒だったの?」
「そうです。途中からセラスさんも一緒でした。サクヤさんは?」
「私は王都で知り合ったの。依頼とか、いろいろあって」
「さっきからその『いろいろ』だけ全然わからないんですけど」
「エマだって、聖女のことちゃんと説明してないじゃん」
「だから、それは私が決めた呼び方じゃありませんってば!」
向かいではセラスさんが笑いを堪えているし、ルクスさんも止める気はないらしい。
「二人とも、ギルドに着くまでには終わらせてくれ。俺まで質問攻めにされそうだ」
「ルクスさんにも聞くからね?」
「そう来ると思った」
少し呆れた声が返ってきて、私は思わず笑った。
劇で見た色気の塊みたいな聖女を勝手に想像していた私としては、正体がエマだったことにずいぶん救われていた。可愛いし、頼りになるし、金髪だって綺麗。でも昨日まで一緒に伏魔殿を歩いて、変な魚に追われて、最後には友達になったエマだ。それなら変に身構える必要もない。
冒険者ギルドへ着く頃には、話題も自然と伏魔殿へ戻っていた。
中へ入ると、ライルさんとドルグクさんはもう来ている。近づきながら周囲を見回しても、ひとつだけ見慣れた猫耳がない。
「あれ、アルジャノは?」
「まだだ。昨日の晩に酒場で見かけたが、だいぶ……」
ライルさんがそう答えた直後、入口の方からひどく覇気のない声が聞こえてきた。
「……呑み過ぎた……アタマんなかで怪人魚が何匹も踊ってるみてえだ……」
額を押さえたアルジャノが、いかにも頭へ響かないよう慎重な足取りでやってくる。伏魔殿の中で見たどんな顔より情けない。
「解毒しましょうか?」
エマの申し出に、アルジャノは片手を上げた。
「気持ちはありがてぇけど、治癒術をそんなことに使わせたくない」
「自業自得なんだから、ほっときゃいい」
ライルさんが笑えば、アルジャノは恨めしそうにそちらを見る。
「お前、他人事だと思って……」
「自分で飲んだんだろ」
「……何も言い返せねぇ」
ドルグクさんの低い笑いにつられて、私まで吹き出した。伏魔殿の中では、五人揃ってこんなことで笑う余裕なんてなかった。それが今は、アルジャノの二日酔いひとつで空気が緩む。そのこと自体が、ちゃんと全員で帰ってきた証拠みたいで少し嬉しかった。
ほどなく職員に呼ばれ、私たちは揃って奥の応接室へ通された。
待っていたノーレンさんから、まず今日の話について必要な説明を受ける。正式な認識票の発行にはまだ少しかかるらしいけれど、審査そのものはもう終わっていた。
私、ライルさん、ドルグクさん、アルジャノ。
四人全員、二等級への昇格が決まった。
「……ほんとに?」
口から出た声は、自分で思っていたより小さかった。
伏魔殿から帰った時点で、やれるだけのことはやったと思っていた。それでも「決まった」と言葉にされると、何日も張りつめていたものがようやくほどけていく。ノーレンさんも職務中らしい硬さは崩さないまま、結果を告げる時だけ声の角がほんの少し取れていた。
エマは今回の昇級対象ではないため、三等級のまま。ただし伏魔殿での実績は正式に記録され、今後二等級へ上がる際の査定では大きく考慮されるという。
「私も、ですか?」
「そりゃそうでしょ。エマいなかったら、もっと大変だったし」
「だな」
ライルさんの声に、ドルグクさんとアルジャノも異論はないらしい。エマは少し困ったように笑ってから、照れくさそうに「ありがとうございます」と返した。
そのあとは、当日に確認しきれなかった伏魔殿内部の話へ移った。誰が何を見たのか、どこで合流して、どの順番で進んだのか。五人の記憶を擦り合わせていると、思っていたより時間がかかる。ようやく応接室を出た頃には、ずっと同じ姿勢で座っていたせいで肩まで重くなっていた。
けれど、ギルドの向こうに見慣れた黒い姿を見つけた瞬間、それどころじゃなくなった。
「ルクスさん!」
足が勝手に速くなる。こっちを向いたルクスさんへ勢いのまま飛びついて――次の瞬間、胸と頬にごつごつした硬さが食い込んだ。
「痛っでぇ……!」
「おい、大丈夫か。勢いよく来るからだ」
「だっでぇ……嬉しかったんだもん」
「それはわかった。怪我するほど飛び込んでくるな」
そう言われても、離れる気にはならなかった。少しだけ抱きつく位置をずらし、硬い胸元から顔を上げる。
「二等級に上がった!」
「そうか。ちゃんと結果が出たんだな」
「うんっ!」
返事をしたあと、ルクスさんはほんの少し考えるように黙った。
やがて大きな右手が頭へ降りてくる。硬い指先なのに力加減は驚くほど丁寧で、髪を乱さないようにゆっくり撫でられた。
「よくやった、サクヤ。無事に帰ってきたうえで結果まで出した。十分立派だ」
そんなふうに言われると思っていなかった。
応接室で結果を聞いた時とは違う熱が、一気に胸の奥へ広がっていく。
「……えっへへ」
「嬉しそうだな」
「そりゃ嬉しいよ。ルクスさんに褒めてもらいたかったし」
「なら、言った甲斐があった」
伏魔殿へ入る前、無事に帰ってこいと言われた。ちゃんと帰ってきて、二等級になって、それを一番に報告したかった人へ自分の口で言えた。抱きついているところは硬いし、ちょっと痛い。でも今は、それすらどうでもいいくらい嬉しい。
「ギルドでイチャつくのはどうかと思うけど、良いことあった日だしいっか」
横から聞こえたセラスさんの声に、頬が一気に熱くなる。
「……今日はいいの!」
「今日は、なのね」
「そこ拾わないで!」
笑う気配を背中で感じながら、もう一度ルクスさんの胸元へ額を預ける。
「まだ痛くないのか?」
「痛いっ!」
「なら離れろ」
「それとこれは別」
「……そういうものか」
「そういうものなの」
やっぱり硬い。少し痛い。
でも、離れるのはもうちょっとあとでいい。




