第五十九話 恋に駆け引きは無用、初手で王を取る
「だって私、ルクスさんのこと好きだもん」
言葉にしてしまった途端、胸の奥で何かが暴れ出す――なんてことはなかった。むしろ逆だった。ずっと輪郭の曖昧だったものへ名前をつけたら、妙なくらいすんなり収まってしまった。
普段は散々こっちを振り回しておいて、さして私に興味ありませんって言動のくせに。欲しい時には、欲しかった言葉よりずっと大きなものをくれる。めちゃくちゃへたくそな時もあるけど。四六時中構ってくるわけじゃない。でも、私が傍にいることを当たり前みたいに受け入れてくれる。
ちゃんと私を見て、考えて、少しずつ関係を作られちゃって。それで惚れないわけがないじゃんか。
「あら――」
セラスさんが何か言いかける。けれど、その声が形になるより早く、黒い大きな手が静かに上がった。
茶化すな、と止めたわけじゃない気がした。ルクスさんの兜は、真正面から私を向いている。
「いまの様子からして、揶揄いや冗談の類じゃないと思っていいんだな?」
思わず耳がぴくりと動いた。
そこ確認するんだ。
もっと困るとか、黙り込むとか、そういう反応を想像していたのに。返ってきたのは、私がどれくらい本気なのか確かめる言葉だった。
やっぱり、こういうところなんだよね。
「うん。冗談じゃないよ」
誤魔化したくなくて、真っ直ぐ返す。ルクスさんは何も言わなかった。さっきまで食卓いっぱいに広がっていた料理の匂いも、外からかすかに届く人の声も、急に遠くなった気がする。黒い兜の向こうが見えないからこそ、何を考えているのか余計に気になった。
「ねえ」
遠慮がちな声に、張りつめていた意識が少しだけ横へ逸れる。頬杖を外したセラスさんが、私とルクスさんを交互に見ていた。
「邪魔するとかじゃなくてさ。アタシ聞いてていいやつ?」
「え?」
「いや、もうだいぶ聞いちゃってるけど。ここから先は二人で話した方がいいなら、アタシ出てくわよ?」
からかう顔じゃなかった。そのせいで、今さらになって自分が何を言ったのか、じわじわ実感が追いついてくる。
私は一度、膝の上へ視線を落とした。心臓はちゃんとうるさい。耳の奥まで脈打ってるし、頬もたぶん熱い。でも、逃げたいとは思わなかった。
聞かれて困るなら、最初からここで言わなきゃよかっただけだ。それに――座ったまま、なんとなく流れで口にしたみたいに終わらせる方が嫌だった。
「……ううん。いていいよ」
椅子を引く。床を擦る音がやけに大きく響いた。
立ち上がった足には、もう迷宮から戻ったばかりの重さはほとんど残っていない。それなのに数歩先の向かい側までが、さっき食堂へ運ばれてきた時より遠く感じた。
ルクスさんの前まで歩く。座っていても、やっぱり大きい。黒い兜を見上げた途端、胸の奥から熱がせり上がってきたけれど、今度は目を逸らさなかった。
「私、ルクスさんが好き」
今度は誰かとの会話の流れじゃない。目の前のルクスさんだけに向けて、はっきり言った。
「返事、すぐじゃなくていいから」
ちゃんと言えた。だから、その先も続ける。
「恋人にしてほしい、とかじゃないの。私がルクスさんを好きだってことだけ、伝えておきたいの」
言い終わったら少し楽になると思っていたのに、まだ胸の中に残っているものがあった。たぶん、こっちが本当に言いたかったことなんだと思う。
「こんな職業だし……明日には、私かルクスさんのどっちかがいないかもしれない」
口にすると、伏魔殿の暗がりがほんの一瞬だけ戻ってきた。銀色の鎧。濁流。怪人魚。ギュスターヴ。一歩間違っていたら、帰ってこられなかった場所はいくつもあった。
それはこれからだって変わらない。ルクスさんだって無敵じゃない。そんなことは、もう知っている。
「だから、後悔したくないの」
言えなかったことを、いなくなってから抱え続けるなんて嫌だ。好きだったのに。伝えたかったのに。あの時言っておけばよかったなんて、そんなの絶対に嫌だ。
ルクスさんはしばらく黙っていた。沈黙が長くなるほど不安になるはずなのに、不思議と急かしたいとは思わなかった。
やがて、いつもの低い声が落ちてくる。
「いま思い立っての言葉じゃないんだろう」
「……うん」
昨日今日で急に湧いた気持ちじゃない。いつからなんて分からないけれど、気づいた時にはもう、たぶん遅かった。
「なら、サクヤと同じように俺も時間をかけて考える」
息が止まりかけた。
好きだと言われて困ったから保留にする。そんな響きじゃなかった。私がここまで来るのにかかったものを、そのまま自分にも必要だと言っている。
「いまは答えはそれでいいか?」
胸の奥が、また熱くなる。欲しかった答えかと聞かれたら、たぶん違う。だって本音を言えば、好きって返してもらえたら嬉しいに決まってる。
でも、今の私が一番聞きたかったのは、適当に流さないってことだった。
「……うん。それでいい」
声にした瞬間、肩から力が抜けた。自分でも笑いたくなるくらい、全身に入っていたらしい。
このままだと変にしんみりしそうで、それはなんか違う。
両手を上げて――ぱちん、と頬を挟むように叩いた。
「よしっ!」
「急にどうした」
「いちばん言いたいこと言ったら、もっとおなか空いてきた!」
自分でも単純だとは思う。でも、さっきより本当にお腹が空いていた。
踵を返して椅子へ戻り、残っていた料理へ手を伸ばす。告白した直後に食欲全開なのもどうなんだろうと思ったけれど、今さら取り繕っても仕方ない。
ひと口頬張ったところで、向かいから妙に生温かい視線を感じた。セラスさんが頬杖をついて、なんとも言えない顔で私を見ている。
「……なに?」
「ひさしぶりに良いもの見せてもらっちゃった」
「見世物じゃないんだけど」
「分かってるわよ」
楽しそうに笑ったあと、手がこっちへ伸びてくる。
「ん?」
「動かないで」
言われるまま止まると、布で口の端をさっと拭われた。
「ソースついてる」
「自分で取れたし」
「はいはい。恋する乙女なんだから、ちょっとくらい世話焼かせなさいよ」
「何その理屈」
言い返している間にも、まだ開けていなかった包みが卓上へ増えていく。
「こっちがハムとトマトとナスと……なんだっけ」
「もう怪しいんだけど」
「なんか野菜のパニーニね」
「雑っ!」
「食べれば分かるでしょ。それで、こっちが焼きリンゴね」
包みが開いた瞬間、甘酸っぱい香りがふわっと広がった。さっきまで鯰も肉もワッフルも食べていたはずなのに、焼けた果実の香りを嗅いだら胃の中に新しい場所ができた気がする。
「まだ入るのか?」
「入るっ!」
「あっはは! 即答ね」
「だって美味しそうじゃん」
パニーニへ手を伸ばしたところで、セラスさんが満足そうに頷いた。
「恋する女はいっぱい食べなさい」
「それ、エルフの教え?」
「いまアタシが決めた」
「適当じゃん!」
笑いながら齧る。香ばしいパンの間から肉の塩気と野菜の汁が広がって、思ったよりずっと美味しかった。
ふと顔を上げる。
ルクスさんはさっきと同じ場所にいる。大きな黒い身体も、ぶっきらぼうな話し方も、何を考えているのか分かりづらいところも、そのまま。
なのに目が合った気がした途端、さっき叩いて冷ましたはずの頬がまた熱くなった。
……これ、しばらく慣れないかも。
「サクヤ、焼きリンゴも食べる?」
「食べる!」
差し出された皿を受け取りながら、もう一度だけルクスさんを見る。
返事はまだなくていい。ちゃんと考えてくれるって言った。
だったら私は、待っていればいい。その間もきっと、こんなふうに一緒にご飯を食べたり、冒険へ行ったり、また呆れられたりするんだと思う。
そう考えたら、焼きリンゴはまだ食べてもいないのに、口のなかで少しだけ甘い味がした。




