第五十七話 これがね 恋じゃなきゃなんだってんだ
次に目を覚ました時には、身体にまとわりついていた重さがずいぶん薄れていた。まだ腰や脚には鈍い痛みが残っているものの、少なくとも布団へ縫い付けられているような感覚はない。
そして、少し顔を横へ向ければ、すぐそこに黒い姿がある。
話したいことは、眠る前には山ほどあった。伏魔殿のこと。アルジャノたちのこと。エマのこと。あの気持ち悪い魚に、銀鎧に、ゲシュペンストとギュスターヴ。何から話そうか順番を考えていたはずなのに、いざ目の前にルクスさんがいると、それだけで胸の中が妙に満たされてしまう。
声を聞いて、姿を見て。それだけで、張っていた気持ちがゆっくりほどけていった
……困るなあ、これ。
「良い冒険になったか?」
「冒険って。これ、審査になる依頼だし――」
反射的に返してから、言葉が止まった。
暗い伏魔殿の景色より先に、浮かんだのは四人の顔だった。最初はこっちを警戒していたアルジャノ。石を追って道を見つけてくれたドルグクさん。最後まで落ち着いていたライルさん。それから、小さい身体でとんでもない無茶をやらかしたエマ。
逃げて、戦って、怒鳴って、助けられて。最後には夜明けの街で「おやすみ」と別れた。
審査だったのは間違いない。でも、それだけだったと言われたら、なんだか違う気がする。
胸に残ったものを一度ゆっくり転がしてから、息を吐いた。
「……うん。いい冒険だった」
「そうか」
たったそれだけなのに、答えてしまったら急に話したくなった。
「じゃあ何からにしよっかな。そうだ、治癒術士の子がいたって話したでしょ? エマっていうんだけど――」
「治癒術士はエマといったのか」
「あ、名前までは言ってなかったんだっけ、エマのこと。今は神秘院で修行してるんだって。あの子ほんっと見た目に騙されるからね。途中から無茶苦茶だったんだから」
そこからは、口を開くたびに記憶が勝手に次を連れてきた。
最初に遭遇した、植物に寄生されたゴーレム。倒したと思ったら本体らしい植物だけが石の身体から抜け出して逃げたことを思い出し、両手をくねらせる。
「こう、にょろにょろにょろーって! 逃げんの! 植物が!」
「植物が逃げたのか?」
「そう! ゴーレム置いて自分だけ! しかも動きがキモいの! あれ絶対見たらルクスさんも嫌になるって」
その次は、地下とは思えないほど巨大な滝と川だった。両腕いっぱいに広げても到底足りないので、途中から大きさを示すのは諦めた。
「で、そこに最悪の人魚がいたんだけど……いや、人魚って言ったら人魚に失礼だわ。怪人魚。あれはもう怪人魚」
魚の身体から人みたいな手足が伸びていた姿を真似して、肘を変な方向へ曲げてみる。
「水からこう、ぬるって上がってきて、ばしゃばしゃばしゃーって!」
低い笑い声が落ちてきた。
一瞬、何の音か分からなかった。
「……今、笑った?」
「ギルドへの報告で、にょろにょろだのばしゃばしゃだの言うなよ」
「ちゃんと報告の時は言ってないし!」
思わず抗議したものの、笑われたことの方が気になってしまう。
ルクスさんが笑うのを見たことがないわけじゃない。それでも、自分の話でこんなふうに声を漏らすのは珍しくて、胸の奥へ小さな鈴でも放り込まれたように、しばらく余韻が鳴っていた。
それから先も、記憶を拾うたびに口は止まらなかった。
闇の中で遭遇したゲシュペンスト。逃げた先では、川そのものが襲ってきたのかと思うほど巨大なギュスターヴまで現れた。そこへ正体の分からない銀鎧の集団まで乱入し、味方なのかと思う間もなくこちらにも刃を向けてきた。
銀鎧については、報告した内容をかいつまんで話した。兜の下には若い女のような顔があったこと。淡い青色に眼が光っていたこと。そして、膝を射抜かれようが、ドルグクさんの槌で吹き飛ばされようが、まともな人間なら動けなくなる状態から立ち上がってきたこと。
そこまで話したところで、不意に引っ掛かっていたものが口からこぼれた。
「……変な話なんだけどさ」
「何だ」
「そいつら見て、ルクスさんみたいだって思った」
言ってから、自分でも変な比べ方だと思う。姿も色も違う。あっちは銀色で、兜の下には人らしい顔まであった。
「色は違うけど眼が光ってて、普通なら動けなくなるような状態でも立ち上がるの。なんか……一瞬だけ、似てるって思った」
返事がすぐには来なかった。
さっきまで私の怪人魚の真似を笑っていた空気が、薄い布を一枚かけられたように静まる。
「全部聞いてからと思っていたんだが……お前が帰ってきたら、話をしてやると約束したな」
「……うん」
「今の話にも関わるかもしれない。俺の話も聞いてくれるか?」
「聞く」
答えに迷う理由なんてなかった。
ルクスさんは少し間を置いてから、飾ることなく口にした。
「俺は今の時代の人間じゃない」
理解するより先に、次の言葉が重なる。
「いや、そもそも人間とは言えない身体だ」
四百年前、一度死んだ。
その事実を、いつもの淡々とした調子で聞かされた。
次に意識を取り戻した時には、それまでの肉体を失い、今の身体になっていたこと。長い時間を経て、現在の時代で目覚めたこと。けれど、どうしてこうなったのか、この身体がいったい何なのかについては、本人にも分かっていないらしい。
「俺が食事を摂らないことも、眠らないことも、それが理由だ」
そう言われてしまえば、今まで見てきたものが一本の糸に繋がっていく。
食卓にいても何も食べないこと。夜が明けても平然としていること。私が眠って、起きて、また眠って――それでもずっと傍にいたこと。
「さっきのお前の話で引っ掛かったのは、眼が光ることと、普通なら動けなくなるような攻撃を受けても動き続けることだ」
「……だから話してくれたの?」
「ああ。ただ、そいつらと俺には違うところがある」
わずかに身を乗り出す。
「俺の中には、人間の身体もない」
しばらく、その兜を見つめた。
怖いという感情は、どこを探しても出てこなかった。代わりに胸の中へ増えていくのは疑問ばかりで、知ったはずなのに、むしろ聞きたいことの方が増えていた。
「……触っていい?」
「構わないぞ」
両手を伸ばし、兜の頬へそっと添える。
硬くて、滑らかで、やっぱりいつものルクスさんだった。
「ほんとに何も入ってないの?」
冗談半分に、兜を左右から挟んで剥がそうとする真似をしてみる。もちろん本気で力を入れる前にやめた。
「……あは。聞きたいこと、いっぱい増えちゃった」
「怖くはないか」
その問いの方が、少しだけ意外だった。
「怖いとか、疑うとか、そんなのどうでもいいの」
触れたままの両手を離す気にはならなかった。
「私のこと知ってほしいし、ルクスさんのことも、もっと教えて」
言葉にすると、胸の奥に灯っていたものへ薪を一本足したみたいに熱くなる。
もっと知りたい。
この人が何を見てきたのか。何が好きで、何が嫌いで、四百年前に誰と笑って、何を失ったのか。
そこまで考えたところで、もっと大事なことを思い出した。
「……っていうか!」
「元気なのはいいが、何だ」
「私の話止めたんだから、まずはちゃんと聞いてよ、魔獣大決戦の部分も!」
勢いのまま身を乗り出す。
「それじゃあ、敵の敵は敵作戦からね」
また、低い笑い声が落ちてきた。
「お前も名づけのセンスが大概ひどいな」
「そこ笑うとこじゃないし! ちゃんと役に立ったんだから!」
そこからまた、話は伏魔殿へ戻った。
銀鎧に追われて逃げ込んだ先で、あの怪人魚まで巻き込み、敵同士をぶつけながらどうにか距離を稼いだこと。その向こうからギュスターヴまで現れ、今度はエマまで同じ発想でとんでもない無茶をやらかしたこと。
話しているうちに、怖かったはずの場面にまで笑いが混ざる。アルジャノの悪態も、ドルグクさんの短い言葉も、ライルさんの落ち着いた声も、思い出せば不思議なくらい鮮明だった。
全部話し終える前に、今度は身体の方が別の要求を出してきた。
「……なんか、急におなかすいたかも」
「なら、用意してこよう」
「あ、もうだいぶよくなったし、食堂にいく」
立ち上がろうとして――やめた。
代わりに、両腕を前へ差し出す。
「んっ」
意味はすぐ伝わったらしい。
背中と膝の裏へ硬い腕が差し入れられ、そのまま身体がふわりと持ち上がる。今度は意識を失っていない。だから遠慮なく、両腕をルクスさんの首へ回した。
「だいぶよくなったんじゃないのか」
「こういう時は黙ってやるのがデキる男なの」
呆れたような沈黙が返ってくる。
でも降ろされる気配はない。
胸の奥で、また小さな鈴が鳴った。
今日くらい聖女の気分に浸っても、許されるよね。




