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第五十六話 帰ってこれたから

 夜明け前の王都は、昨日までとは別の街みたいに静かだった。


 東の空だけが薄く白み始めている。通りにはまだ夜の冷たさが残っていて、時折どこかの店から仕込みの音が漏れてくる程度だ。馬車を降りてからここまで、何度「もうそのへんで寝ようかな」と思ったか分からない。脚は鉛を詰めたみたいに重いし、瞼なんて気を抜けば勝手に閉じそうになる。


 それでも、気づけば足はこの屋敷まで来ていた。


「……来ちゃった」


 脚はもう休めと訴えているのに、ここへ来るまで一度も道を間違えなかった。むしろ考えるより先に、身体の方が行き先を決めていたみたいだった。


 扉の前まで来て、拳を上げる。


 その時だった。


「――もうこれ以上は待つわけにはいかない」


 木の扉一枚を隔てた向こうから、聞き間違えようのない声が落ちてきた。上げた手が、そのまま空中で止まる。


「二十四時間は待てって言われたじゃない。許可がでないといずれにせよ入れないわよ」


「この際、そんなもの知るか。強行突破する」


 ……は?


 さっきまで頭の中で泥みたいに混ざっていた眠気が、一瞬だけ吹き飛んだ。


「待ちなさいって。アンタが暴れたら話が余計ややこしくなるでしょうが」


「中で何か起きてからでは遅い」


「だからって、伏魔殿までの封印扉を壊す気?」


「入るのに必要ならな」


 魔術院で聞いた数字が、急に形を持った。


 二十二時間。


 伏魔殿へ入ってから、外ではそれだけの時間が過ぎていた。そして今、中では二十四時間と言っている。報告だの移動だので、その差はもう二時間も残っていないはずだ。


 つまり、この人は。


「……馬鹿じゃん」


 声にならないくらい小さく漏れた。


 ゲシュペンストがいた。ギュスターヴもいた。あのわけの分からない銀鎧までいた。こっちは五人で死に物狂いになって、やっと戻ってきた場所だ。


 そこへ、この人は来るつもりだった。


 しかも許可が出なければ強行突破して。


 呆れるべきなのに、胸の奥では別の何かが勝手に熱を持っていく。困る。ほんとに困る。最近ただでさえ、この人の一言一言が妙なところに引っかかるのに、こんなのまで聞かされたら余計にどうしていいか分からない。


 もう一度ノックしようと拳を上げ直した、その瞬間、扉が内側から開いた。


 目の前に、見慣れた黒い巨体がある。


 何を言おうとしていたのか、一瞬で全部飛んだ。強行突破って何考えてるの、とか。ゲシュペンストいたんだけど、とか。ギュスターヴなんて川ごと食べそうだったんだけど、とか。


 口から出たのは、もっとずっと簡単な言葉だった。


「……帰ってきた」


「――ああ」


 それだけでよかった。


 胸の奥で張り詰めていた糸が切れ、急に床が傾いた。


「あ、れ……」


 倒れるより先に、身体が硬い腕に受け止められる。奥からセラスさんの声が聞こえた気がしたけれど、もう言葉の意味までは拾えなかった。


 そのまま抱きかかえられると、最後まで残っていた力まで抜けていく。ここまで来た。ちゃんと帰ってきた。そう思えたところで、意識はきれいに途切れた。


     ◇


 次に目を開けた時、最初に見えたのは見知らぬ天井だった。


 ぼんやり瞬きをして、ゆっくり記憶を拾う。屋敷。ルクスさん。玄関。そこまで戻ったところで、身体中から遅れて抗議が押し寄せてきた。肩も腰も脚も、全部まとめて自分のものじゃないみたいに重い。


「……痛ったぁ」


「起きたか」


 すぐ近くから声がして、顔だけそちらへ向ける。


 ベッドから少し離れた場所に、ルクスさんがいた。朝の淡い光の中でも、黒い姿はやけにくっきり見える。気を失う寸前に見たのと同じ姿がそこにあるだけで、胸の奥に残っていたざらつきが少しずつ消えていった。


「……ずっといたの?」


「ああ、此処にいた」


 たったそれだけなのに、胸の内側を指先で弾かれたみたいに妙な感覚が走った。


 誤魔化すようにベッドへ視線を落としたところで、ようやく自分の格好が目に入る。


「……あれ。服」


「脱がせたのはセラスだから安心しろ。目立った外傷はなかった」


「そこ先に言うんだ……」


 いや、ありがたいけど。


 起き上がろうとしただけで腰が悲鳴を上げ、素直に枕へ戻る。そんな私の横へ、ルクスさんが小さな瓶を差し出してきた。


「強壮剤だ、飲め」


「うぇ......強壮剤?」


 受け取った途端、ちょっとだけ嫌な予感がした。


 ルナールは強壮剤そのものが飲めないわけじゃない。ただ、よく使われる成分の一つがどうにも苦手で、匂いも後味も舌の奥にいつまでも残る。今の身体には必要なんだろうけど、正直あれを飲むくらいならもう一回寝たい。


 覚悟を決めて口をつける。


「……あれ?」


 思った味が来ない。もう一口飲んでも同じだった。


「普通に飲めるんだけど......」


「なら全部飲め」


「いや、飲むけど。何これ」


 残りを飲みきって瓶を返すと、ルクスさんはそれを受け取り、元いた場所へ戻ろうとした。


 気づけば、手が伸びていた。


 黒い指の一本を掴んでから、自分でも何をしているんだろうとは思った。それでも離したくはなかった。


「……近くにいて」


 一拍だけ間があった。


「わかった」


 理由は聞かれなかった。


 私が指を離すと、椅子がベッド脇まで運ばれ、その巨体がすぐ手の届くところへ収まる。さっきまで離れたところにあった黒が近くなっただけなのに、身体のどこかまで一緒に緩んだ気がした。


 その時、廊下から軽い足音が近づいてきた。


「起きたぁー?」


 食事を載せた盆を抱えたセラスさんが扉から顔を出す。私が起きているのを確かめると、今度は手元の空瓶へ目をやった。


「あ、もう飲んだのね」


「うん。でもこれ、普通に飲めた。いつもの嫌な感じしない」


「ああ、強壮剤ってアンタの種族苦手でしょ。だからルクスが調合したのよ」


「……ルクスさんが?」


 思わず隣を見る。


「効能は変わらん」


 返ってきたのは、いつも通りの素っ気ない一言だけだった。


 それが余計に困る。


 伏魔殿へ迎えに来ようとしていたことも、目を覚ますまでここにいたことも、薬まで私向けに作り直していたことも。この人はたぶん、どれも大したことみたいに言わない。


 なのにこっちは、そのたびに胸の奥へ小さな火種を落とされているみたいだった。


「……ありがと」


「飲めたならそれでいい」


 ほんと、そういうとこ。


 セラスさんが盆を置きながら私とルクスさんを交互に見た気がしたけれど、何も言わなかった。今はそれがありがたい。


「食べられそう?」


「たぶん。お腹はすごい空いてる」


「でしょうね。ほら、無理しない程度に食べなさい」


 湯気の立つスープの匂いで、胃が急に自分の存在を主張し始める。匙を手に取って一口入れると、冷え切っていた身体の中へ温かさが落ちていった。


 少し食べて、ようやく頭がまともに動き始める。


「……ねえ」


「何だ」


「ほんとに来るつもりだったの?」


 ルクスの顔が、わずかにこちらへ向く。


「聞こえてたのか」


「うん。玄関の前で。強行突破するとか、封印扉を壊すとか」


「本来はもっと早く行くつもりだった」


「……はぇ?」


 匙が途中で止まった。


「もっと早くって何。中、ほんと洒落にならないのいたんだからね? 空飛ぶ化け物に、川を塞ぐくらいでっかいワニ、それに青い眼の銀鎧集団まで」


「なら、なおさらだ」


「なおさらじゃないって!」


 思わず声を上げたら脇腹まで痛んで、顔をしかめる羽目になった。セラスさんの呆れた視線が食事へ戻れと言っている。


 でも、怒りきれなかった。


 来なくてよかった。あんな場所へ入ってきてほしくなんかなかった。それなのに、来るつもりだったと言われて、嬉しくないわけでもない。


 矛盾した気持ちが胸の中で絡まり、どうにもほどけてくれない。


「……馬鹿じゃん」


「お前が助かるなら、それでいい」


「ほんとに......馬鹿......」


 小さく言って、またスープを口へ運ぶ。今は顔を上げない方がいい気がした。


 それでも、しばらく食べているうちに、ここへ来た本当の目的を思い出す。


「そうだ。今日のこと、話すために来たんだった。ほんと色々あって――」


「話ならいくらでも聞く」


 先を急ぐ私を、彼の声が静かに止めた。


「その前に食事を摂ってから、もう一度休め」


「でも――」


「急ぐ話なら要点だけ先に言え。そうでないなら、頭がまともに回る状態で聞く」


 昨日までなら、たぶん「大丈夫」と押したかもしれない。


 けれど今は、すぐ横にいてくれる。話せば聞いてくれるし、私が眠っている間にどこかへ行ってしまう人でもない。


 それが分かってしまったら、急ぐ理由が少しだけ消えた。


「……あとで絶対聞いてよ」


「好きなだけ話せ」


「最初から、全部だからね?」


「ああ、だから今は休め」


 それならいいか、とようやく肩の力を抜く。


 スープはまだ温かかった。窓の向こうでは、長かった夜がようやく朝へ変わり始めている。


 今度はもう、眠るのが少しも怖くなかった。

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