第五十五話 龍虎相搏つ
滝の裏を抜けても、背後の水音は少しも遠ざからなかった。
むしろ酷くなっている。岩壁へ叩きつけられる水の轟音に、甲冑が石を削るような耳障りな音まで混ざっていた。ギュスターヴがまだ銀鎧たちを相手に暴れているらしいけれど、確かめようなんて気は一欠片もない。
「もう絶対振り返らないからね! 何があっても!」
「そういうこと言うと何か起きるんだよ!」
「じゃあ今のなし!」
アルジャノに怒鳴り返した、その直後だった。
奈落側から銀色の塊が飛び出してきた。
「ひゃあっ!?」
目の前を掠めたそれが石床へ激突し、甲高い音を撒き散らしながら何度も跳ねる。止まった時には、もう人の形なんてほとんど残っていない。胸から下を失った銀鎧の上半身が、片腕だけを引きずるように転がっていた。
「……まだ来るの?」
「絶対振り返らないんじゃなかったのか!? 走れ!」
ライルさんに急かされるまでもなく脚を動かそうとして――今度は下から風が来た。
奈落の底から、空気そのものを突き上げるような轟音が響く。舞い上がった水飛沫が雨みたいに逆さへ走り、砂や小石まで巻き込まれて視界を覆った。
「だから何なのもう!」
風の中へ黒い影が躍り出る。
最初に見えたのは、大きく打ち下ろされた翼だった。一度羽ばたくたび、奈落から暴風を引きずり上げる。続いて獅子の頭、燃えるような赤い鬣、黒い巨体が水煙を突き破った。
見間違えるわけがない。
「ゲシュペンストぉ!?」
「なんで追いついてんだよ、あいつ!」
「知らないって! こんな場所作った人に言ってよ!」
翼を広げたまま岸へ滑り込み、その巨体が石床へ叩きつけられた。
次の瞬間、飛翔の勢いを抱え込んでいた風が一気に弾けた。
「うわぁっ!?」
身体が浮きあがりかけて、思わず片手で裾を押さえる。
足元から地面を引き抜かれたみたいに全員まとめて持っていかれ、ライルさんの盾が石を擦った。隣ではドルグクさんが踏ん張り、エマがその腕へしがみついている。私は反射的にアルジャノの肩を掴んだ。
「ちょっ、耳掴むな!」
「肩だよ!」
「髪まで入ってんだよ!」
「今そこ気にする!?」
どうにか吹き飛ばされずに済んだ頃には、髪も服も砂と水でぐちゃぐちゃだった。
でも、目の前のゲシュペンストはこっちを見ていない。
半ば広げた翼の向こう、獅子の顔が川を挟んだ反対側へ向いている。
そこには、水面から長い背を浮かせたギュスターヴがいた。
黒い鱗に覆われた巨大な顎がゆっくりこちらへ巡り、対するゲシュペンストの赤い鬣が逆立つ。
川を挟んで、二体の怪物が睨み合った。
「……あ」
嫌な予感しかしない。
「これ、絶対ここにいちゃ駄目なやつじゃない?」
「奇遇だな。俺もそう思ってた」
「では、走りましょう!」
「エマが一番冷静なの腹立つ!」
ゲシュペンストが吼えた。
ほとんど同時に、対岸からギュスターヴの咆哮が返る。
ふたつの音が川の上でぶつかり、胸の内側まで揺さぶった。水面が震え、壁から細かな石が降る。
「もうやだぁぁぁ!!」
「俺もだよ!」
「走れ走れ走れ!」
誰の声かなんて、もうどうでもよかった。
二体の咆哮を背中へ浴びながら、私たちは全速力でその場を離れた。
◇
気がついた時には、椅子に座っていた。
目の前には磨かれた木の机。柔らかい灯り。湯気の立つ茶器。
魔物の声がしない。
水音も、金属音も、何かが追いかけてくる足音もない。
「……生きてる、たぶん」
口から勝手にこぼれた。
伏魔殿をどう戻ったのか、覚えていないわけじゃない。森を走った。扉も通った。誰かに声をかけられた気もする。でも全部が薄い布越しみたいにぼやけていて、ここへ座るまでがひと続きの記憶になっていない。
「はい。五名とも無事に帰還しています」
正面に座るノーレンさんの声で、ようやく意識が今へ戻ってくる。
「あなた方が出発してから、現在まで二十二時間が経過しています」
「……二十二?」
隣からも息を呑む音が聞こえた。
「そんなに経ってたの?」
「体感では、そこまでじゃなかったな」
ライルさんも眉を寄せる。アルジャノに至っては、数え直すように指を動かしてから首を振った。
「行きはかなりかかった。休憩もした。でも帰りは……そんな長く走ってねえぞ」
向かいにいる伏魔殿の管理者が、困ったように口元を結んだ。
「内部では、空間だけでなく時間の経過も外部と一致するとは限りません。記録上、同じ経路を通っても所要時間が大きく変わった例があります」
「……もう何でもありじゃん」
「否定はできません」
そこ否定してほしかった。
深いため息を飲み込んでいると、エマが大事そうに抱えていた鍵を机へ置いた。
「こちらが、収蔵後に箱から排出された鍵です」
管理者が手袋越しに持ち上げ、刻まれた術式と形を確かめていく。
「間違いありません。収蔵は正常に完了しています」
それを聞いて、ようやく肩の力が少し抜けた。
「じゃあ、依頼自体は成功ってことですよね?」
「はい。そこは問題ありません」
よかった。ほんとにそこだけは。
ノーレンさんが書類へ目を落とす。
「その後、ゲシュペンストとギュスターヴ、双方に遭遇した、と」
「したくなかったけど、しました」
「同じ探索で?」
「いましたってば。しかも、同時に」
何度聞かれても増えたり減ったりしない。
管理者まで難しい顔になる。
「二体とも既知の危険個体ではありますが……同一探索中に双方へ遭遇するとなると、災難としか言いようがありませんね」
私はにっこり笑った。
――その災難が起きる場所に私たち放り込んだの、どこのどちら様でしたっけ?
言いたい。ものすごく言いたい。
でも審査だって分かってる。分かってるから言わない。
「……」
「サクヤさん?」
「なんでもないですよ?」
「額に青筋が浮いているが」
アルジャノ、余計なこと言わなくていいから。
「それより、青眼の銀鎧という存在についてです」
強引に話を戻すと、さすがに部屋の空気も変わった。
「そこが最も気になります」
ノーレンさんの声からも柔らかさが消える。
「外部からの侵入者という可能性は?」
「俺も最初はそう思ったんだがね」
ライルさんが座り直した。
「いや、正確には咄嗟に騎士団かと思った。全身鎧で、数もいたからな」
「では、騎士ではないと?」
「騎士だとしたら動きがおかしいんだ」
迷いのない返事だった。
「指揮官らしい奴がいない。号令もない。あれだけの人数がいて、隊列すら作らない。ゲシュペンストみたいな大型魔獣へ接敵する時の陣形でもなかった。それに――」
そこでライルさんの視線が、机の向こうにいるギルド職員へ移る。
「盾にも甲冑にも所属を示す紋章がない。正規の騎士団なら、あの人数全員が無紋ってのは不自然だ」
「リビングアーマーの群れという線は?」
管理者の言葉へ、今度はアルジャノが鼻を鳴らした。
「だったら中身が出てくるかよ。兜が外れた奴、女の顔してたぞ」
「私も見ました」
エマの声が重なる。
「青白く光っていた以外は、人の眼に見えました」
「膝を撃ち抜いても止まらなかったけどな」
「槌で飛ばしても動いた」
ドルグクさんまで淡々と加える。
「……人間であるとも断定できませんね」
「だから分かんないんですよ」
もう頭が回らない。分からないものを分からないまま説明するのって、思っていたよりずっと疲れる。
ライルさんも同じだったらしい。大きく息を吐くと、背もたれへ身体を預けた。
「悪い。報告は今日はこの辺で勘弁してくれないか」
「まだ確認したい点はいくつかありますが」
「命がかかってんのは毎度そうではあるんだがな。さすがに今回は限界だ」
「俺も。頭がもう回らねえよ」
眉間を指で摘まみながら、もう片方の手を振って否定を示す。
「これ以上聞かれても、たぶん同じこと二回言うぞ」
「同意する」
「ドルグクさん今日それ便利に使ってない?」
「便利だ」
思わず笑ってしまった。
ノーレンさんも、それ以上は引き止めなかった。
◇
魔術院を出ると、冒険者ギルドが馬車を用意してくれていた。
五人で乗り込み、空いている席へ身体を沈める。走らなくていい。追われない。座っているだけで目的地へ近づいていく。
今ならそれだけで泣けそうだった。
しばらく車輪の音だけが続いたあと、向かいのライルさんが力なく笑った。
「ひと仕事終えたら、酒場でパーッとやるのが冒険者ってもんだけどな。今は……」
「とにかく寝てぇよ」
「同意する」
アルジャノに続いたドルグクさんの即答へ、今度は全員の笑いが重なった。
私も同意。
もう今日は、それ以外いらない。




