第五十四話 パンデモニウムの気まぐれ最悪メニュー
「ほらぁ! やっぱりきたぁ~!」
叫んだところで、階下に浮かんだ青い光が消えてくれるわけじゃない。硬い金属音を伴う足音は螺旋階段に反響しながら近づき、ひとつではない響きが嫌でも追跡者の多さを教えてくる。
「開けて開けて! もう来てるって!」
「開けてる!」
アルジャノが猫頭の印を横目に扉を押し開け、私たちは順番も何もなく向こう側へ雪崩れ込んだ。毛足の長い絨毯が靴の裏へ絡みついてくるけれど、転んでいる場合じゃない。棚と箱が並ぶ保管庫を突っ切る途中、金属で縁取られた箱が視界に入り、嫌な記憶と今の状況が頭の中で繋がった。
「アルジャノ! あの箱撃って!」
「は!? 気でも狂ったのか!?」
「ミミック! 起こして!」
「お前、正気か!?」
「いいからやれぇっ! 敵の敵も敵作戦!」
振り返った猫耳の下に、心底わけが分からないという顔があった。
「それ、ただ敵増やしてるだけだろ!」
「だから増やすの! 私たち以外を追いかけさせる!」
言い終わるより早くクロスボウの弦が鳴り、矢を食らった箱が跳ね上がった。蓋だった部分が牙だらけの大口へ変わり、続く一射でもう一つ。隣の箱まで床を蹴るように飛び出し、長い舌を振り回す。
「うわ、やっぱキモい!」
「起こせって言ったのお前だからな!」
その向こうから、さっきまで聞こえていた硬い足音まで保管庫へ入ってきた。
私たちはミミックが食いつくより先に出口へ飛び込み、最後尾のライルさんが抜けるのを待って扉を閉める。今度は相手までの距離なんてない。腰から札を抜き、扉と左右の石壁へ叩きつけるように貼った。
「今度はちゃんと使えるからね……!」
白い術式が札から走り、扉の縁を囲んで壁まで食い込む。封締式が噛み合った直後、向こう側から何かが激突して、重い扉がこちらへ膨らむように軋んだ。
「はやいはやいって! 余韻の欠片もないじゃん! もう来たの!?」
「ミミックかもしれんぞ」
「どっちでも嫌だよ!」
二度目の衝撃はもっと大きい。封印が耐えているうちに背を向け、また全員で駆け出した。
次に入ったのは、行きで散々迷わされた回廊だった。ここなら少しくらい時間を稼いでくれるかもしれない――そんな期待とは裏腹に、帰り道では曲がり角が拍子抜けするほど素直に繋がっていく。
「……あんなに苦労したのに?」
「止まるな」
ドルグクさんの短い声に押されて先へ進めば、さらに腹が立つことに、しばらくもしないうちに後ろから硬い足音が戻ってきた。壁や天井で響きが重なって数までは分からない。それでも、一体や二体じゃないことだけは分かる。
「なあんでアイツらまで普通に抜けてくるの!?」
「伏魔殿が俺たちだけ贔屓する理由もねえだろ!」
「めっちゃ危険なもの持ってきて頑張ったんだから、今くらいしてくれてもいいんじゃないの!?」
やがて湿った空気が頬へまとわりつき、遠くから腹に響くような水音が近づいてきた。行きに怪人魚とやり合った、あの川だ。
滝の裏へ続く細い足場を目指すものの、追跡者の足音はもう遠くない。《封締式》もミミックも働いてくれたはずなのに、思っていたよりずっと早く差を詰められている。
「速くない!? あいつら全身鎧だよね!?」
「見りゃ分かる!」
「だったら、もうちょっと重そうに走ってよ!」
自分でも無茶を言っているのは分かっている。でも、言わないとやってられない。
そんな私の横から、今度はエマが外れた。滝裏へ向かっていた進路を途中で曲げ、まっすぐ川の方へ走っていく。
「エマぁ! そっち違うって!」
恐怖かなにかでトチ狂ったのかと思ったけど、振り返った顔はこっちよりよほど落ち着いていた。
「敵の敵は敵作戦ですよね!」
意味が繋がった瞬間、水面の下で黒い影が動いた。
川岸ぎりぎりを走るエマを追い、一体、二体と怪人魚が跳ね上がる。人みたいな手足をばたつかせ、濡れた魚体をくねらせながら迫る姿は、二度目でも生理的に無理だった。
「ちょっと待って! あの子、おとなしそうなのにめちゃくちゃなことやるじゃん!」
「お前がつけた作戦名じゃなかったか?」
ライルさんの声が飛んでくる。
怪人魚の爪を紙一重でかわしながら、エマはさらに川沿いを走った。その後ろへ保管庫を抜けてきた青眼の先頭集団が姿を現し、最前列の銀鎧へ怪人魚が飛びつく。
剣が閃き、水飛沫と黒い液体が散った。別の個体は槍へ噛みつき、振り払われたところへさらに二体が殺到する。
「よっし! かかった!」
今度こそ時間を稼げる――そう思った途端、川の形が変わった。
怪人魚が暴れた程度ではありえない広さで、水面がゆっくりと持ち上がっていく。ひとつの波ではない。向こう岸まで続く水そのものが、下から巨大な何かの背で押し上げられている。
銀鎧へ食らいついていた怪人魚まで急に身を翻した。ついさっきまで獲物へ夢中だった連中が、互いを押し退けて深みへ逃げようとしている。
「……なに、あれ」
答えを待つ間もなく、水面が爆ぜた。
最初に現れたのは、岩塊みたいに幅のある頭だった。
長く平たい顎。濡れた石を幾重にも重ねたような硬い皮膚。その縁に沿って、一本一本が短剣みたいな歯が隙間なく並んでいる。頭だけでも怪人魚なんて何匹入るのか分からない。
一瞬、竜かと思った。
でも違う。
頭の後ろから浮かび上がってきた身体は高くそびえるんじゃなく、水面すれすれを這うように低い。その代わり、とんでもなく長かった。盛り上がった背が川を真っ二つに割りながら延々と続き、最後尾が見える前に視線の方が追いつかなくなる。
巨大なワニ。
そんな言葉だけなら簡単なのに、目の前にいるものは、川そのものが牙を生やして動き出したみたいだった。
開いた大口が水ごと前へ滑る。
逃げ遅れた怪人魚が二体、悲鳴を上げる暇もなく消えた。そこへ近くの銀鎧まで巻き込まれ、太い顎が閉じる。
金属を叩く音じゃない。 潰して、へし折る音。
ドルグクさんの大槌をまともに受けても起き上がった銀鎧が、腰の辺りからあっさり二つに分かれた。上半身だけが牙の間から一瞬ぶら下がり、次の噛み込みで怪人魚と一緒に口の奥へ消える。
「……いやいやいや」
嫌でも知ってる。あれも出発前に資料で見た。
だって、遭遇したら勝とうなんて考えちゃいけない相手って決めてたんだから。
「本日の最悪メニュー二品目ぇー! ギュスターヴ!」
青眼たちは、それでも逃げなかった。
何体かが左右へ散り、剣や槍を巨大な頭部へ向ける。銀色の刃が皮膚へ食い込むより早く、川面の向こうで長大な尾が持ち上がった。
太いなんてもんじゃない。
先端へ行くほど細くなるはずなのに、それでも人間なんて簡単に押し潰せそうな太さがある。
次の瞬間、それが水面を横薙ぎに走った。
川が半分吹き飛んだみたいに水柱が上がる。
銀鎧が一体、二体どころじゃなくまとめて宙へ放り出された。石床へ叩きつけられたものは装甲を大きく歪ませ、壁に当たった一体は身体ごとめり込む。それでも何体かは起き上がろうとしていたけれど、足場の外へ飛ばされた連中には掴まるものすらない。
青白い眼が、奈落へ吸い込まれていく。
それでもギュスターヴは止まらない。巨体を捻っただけで川の流れが乱れ、岸へぶつかった水が私たちの足元まで駆け上がってきた。噛み損ねた銀鎧へ再び頭を振り、一体を横から咥えると、そのまま首ごと振り回す。
銀色の身体が鞭みたいに揺れ、牙の間で装甲が潰れていく。
「逃げるよ、戻って!」
いちばん近くにいるのは、まだ川側に残っているエマだ。
ギュスターヴの頭がそちらへ巡る。
その動きだけで押し退けられた水が膨れ上がり、岸へ向かう壁になる。大口まで開き、その内側へ黒い喉とびっしり並んだ牙が見えた瞬間、背中が冷たくなった。
「エマッ!」
津波と大口が同時に迫る。 呑まれる寸前、エマの姿が掻き消えた。
跳座で跳んだ先は岸じゃない。ギュスターヴの顎が進む線から真横へ外れるように、さらに川の水面上へ出ている。
「ちょっ……落ちるって!」
もちろん、そこに足場なんてない。
落ちる寸前、水面すれすれに淡い光が開いた。聖壁の上へ片足をつき、沈む暇すら与えず蹴り出すと、もう一度その姿が消える。
「ぴぃっ! ちょっとエマぁ!」
二度目の跳座で今度こそ滝へ近づく。
けれど、背後ではさっき銀鎧を何体も吹き飛ばした尾がもう振り戻されていた。水飛沫を引き連れた黒い塊がエマの背後を薙ぎ、あと少し遅れていたら身体ごと消えていた距離を通過する。
直撃だけは免れた。それでも風圧と跳ね上がった水に押され、勢いを殺せないまま滝へ突っ込んでいく。
白い水幕の向こうへ姿が消えた直後、その滝を突き破って小さな身体が飛び込んできた。
真正面へ滑り込んだドルグクさんが低く腰を落とし、飛んできたエマを両腕で受け止める。衝撃で靴底が石を擦り、身体ごと後ろへ押し流されながら、それでも倒れない。最後には足を踏ん張り、勢いまできっちり殺し切った。
「なーにやっちゃってんの! 無事だよね? 顔に怪我したらどうすんの、女の命だよ!?」
駆け寄った時には、もう敬語なんてどこにも残っていなかった。
「だ、大丈夫です!」
「ほんとに? 手とか脚もちゃんと付いてる?」
ずぶ濡れの身体をざっと見ても、大きな傷は見当たらない。ようやく息を吐いた私の横で、受け止めた本人だけはいつも通りだった。
「金剛石みたいな度胸がある」
「褒めるとこそこなんだ……」
でも、怪人魚を引っ張り出して銀鎧へぶつけ、ギュスターヴの口から逃げ、その場で足場まで作って戻ってきた。
呆れるくらい無茶苦茶だ。それでも無事な顔を見ていたら、口元が勝手に上がる。
「……でも、やるじゃん!」
エマの腕を取って抱き起こし、そのまま背中を押した。
「ほら、走るよ!」
再び全員で滝裏を駆け出す。背後では水が砕け、銀鎧がまた何かへ叩きつけられる音が続いていたけれど、今度こそ振り返る気にはなれなかった。
走りながら頭を掠めたのは、黒い鎧の姿だった。
こんなめちゃくちゃやる人、あの人以外にもいたんだ。
思わず笑いそうになりながら前を見る。身体はとっくに疲れ切っているし、まだ出口だって見えていない。
それでも、帰ったら会おうと思った。
ちゃんと帰って、今日あったことを全部聞いてもらおう。




