第五十三話 三十六計逃げるに如かず
その名を口にした直後、獅子の顎が大きく開き、二度目の咆哮が広大な収蔵区画を揺らした。
聖壁に守られているはずなのに、胸の奥へ直接拳を叩き込まれたような衝撃が抜けない。床から伝わる震えに脚が竦み、頭の中では逃げろと何度も叫んでいるのに、その命令だけが身体まで届かなかった。
こいつが出たら戦わない。足止めだけして、迷わず撤退する。それはここへ入る前から何度も確認して、自分でも納得して決めたことだ。
なのに、実物を前にした瞬間、その単純な手順さえどこかへ吹き飛んでいた。
「サクヤさん! 聞こえてますか!」
鋭い声が耳を打つ。
「皆さん、逃げるんですよね!」
エマさんだった。ここまでの柔らかな声音ではなく、立ち尽くしていた全員をまとめて叩き起こすような一喝だった。
詰まっていた息がようやく肺へ戻る。
「……うん。全っ力で逃げる! 打ち合わせ通り!」
その声を合図にしたように周囲も動き出した。ライルさんは剣を構え直し、ドルグクさんの大槌が低く下がる。アルジャノさんの視線はもう出口へ向かい、その横ではエマさんの周囲へ淡い魔力が集まり始めていた。
加速を全員へ行き渡らせるまで、ほんの少しだけ時間がいる。
その少しを作るのが私の役目だ。
腰の札へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。遠い。しかもゲシュペンストとの間には崩れた石材が散乱している。あの脚元へ札を正確に投げ込み、術式の起点を作っている余裕なんてない。
だったら札なしでやるしかない。
四本全部なんて欲張らない。狙うのは一本だけ。それも、こちらへ踏み出そうとしている前脚へ全部を集中させる。
足元から封締式の白い術式が走り、瓦礫を縫うように光が伸びる。何本もの帯となったそれが黒い脚へ絡みつき、全身へ回すはずだった魔力まで叩き込むと、ゲシュペンストの巨体がわずかに傾いた。
よし、止まった!
ほんの一瞬でも、それでいい。この隙に全員が走り出せれば――そう思った次の瞬間、張り詰めた光が嫌な音を立てた。
「このまま……っ!」
さらに魔力を押し込む。それでも黒い脚は、拘束ごと床を引きずるように前へ出ようとしていた。一本が弾け、続けて二本目が切れる。
「ちょ、待っ――」
残った光へ無理やり魔力を流し込んだものの、最後まで耐えていた拘束も、結局は力任せに引き千切られた。
「は!? ちょっと待って! 全力なんだけど!? なんか既視感あるかも!」
白い残光が宙へ散って消える。
意味が分からない。こっちは一本しか狙っていないし、その一本にほとんど全部突っ込んだ。それでも止まったのは、本当に一瞬だけだった。
ゲシュペンストの顔がこちらへ向き直る。
まずい、と身体が強張ったところで、今度は頭上から鋭い風切り音が降ってきた。
「もお~! 今度はなに!?」
崩落で開いた天井の穴から、黒い影が次々と落ちてくる。一つ、二つと数える間もなく降り注ぎ、そのいくつかはゲシュペンストの背中や肩へまともにぶつかった。
さすがの巨体も、一瞬だけ沈む。
けれど、それで終わるような相手じゃない。全身を振り回すように大きく震わせた途端、取りついていた影がまとめて宙へ弾き飛ばされ、石床や柱へ激しく叩きつけられた。
硬い衝突音が広間へ響き、金属がひしゃげたような音まで混じる。
「……甲冑?」
床へ転がった一つが、何事もなかったように上体を起こした。
銀色の全身鎧だった。あんな勢いで叩きつけられた直後とは思えない動きで剣を拾い直し、兜を上げた奥には、青白い二つの光が浮かんでいる。
二度目の嫌な既視感が胸を掠めた。
全身を覆う鎧。兜の奥で光る目。それに、普通なら立ち上がれるはずのない衝撃を受けても平然と動く身体。
「騎士団……?」
ライルさんから、思わずといった声が漏れる。
その時、別の銀鎧がゲシュペンストの尾に薙ぎ払われた。
横殴りに飛ばされた身体が石床を跳ね、そのまま柱へ激突する。衝撃で兜が外れ、銀色の塊だけがこちらへ転がってきた。
残された首から、長い髪がこぼれる。
「……人、でいいんだよ、ね?」
鎧の中は空じゃなかった。
柱にもたれたまま顔を上げたのは、若い女に見える顔だった。青白く光る眼だけが異様で、それ以外は少なくとも、どこから見ても人のものにしか見えない。
リビングアーマーみたいな、鎧そのものが動いている魔物じゃない。
じゃあ、何なの。
答えを探す間もなく、女は落ちた兜など気にも留めず、剣を握ったままゲシュペンストへ向かっていった。
別の銀鎧も槍を構えて続き、その後ろへは天井の穴から新しい影がまた落ちてくる。
掛け声はない。互いの名前を呼ぶ声もなく、落ちて、起きて、武器を向ける。それだけを繰り返しながら、銀色の甲冑が次々とゲシュペンストへ群がっていった。
「なに、あれ……」
助けに来た――なんて都合のいい考えが頭を過ぎたところで、二つの兜がこちらを向いた。
青白い眼が揃って私たちを捉える。
「……え?」
次の瞬間、二体とも迷わず走り出した。
「おい!」
鋭い弦音が響き、一体の膝へ矢が突き刺さる。アルジャノさんの放った矢は関節を正確に撃ち抜き、駆けていた銀鎧をその場へ崩れさせた。
これで止まった――と思ったのも束の間だった。
倒れたまま腕をつき、撃ち抜かれた脚を引きずって、まだ前へ来ようとしている。剣も手放していない。
「動きが完全に不死者なんですけど! まだ動くの!?」
もう一体は倒れた仲間など気にも留めず、その横を抜けて距離を詰めてきた。
その進路へ、ドルグクさんの大槌が低く滑り込む。
次に響いたのは、耳の奥まで痺れるような重い衝突音だった。横殴りの一撃をまともに受けた銀鎧が真横へ吹き飛び、その先で膝を撃ち抜かれていた一体へ激突する。
二つの甲冑が派手な金属音を撒き散らしながら一緒に床を転がった。
「うっわあ……」
あれならさすがに、と思った目の前で、重なった鎧の下から腕が一本伸びた。
石床を掴み、また起き上がろうとしている。
「こっちも敵じゃん! なんとなく、そうだと思ってたけど!」
「騎士団なわけあるか! こんな場所に騎士団がいるわけねえだろ! いるとしたら化け物か狂人だけだ!」
「俺もあんな同僚いた記憶はない!」
ライルさんは言い返すなり、もう出口へ走り出していた。
「もうどっちでもいい! 逃げるよ!」
正体なんてあとで考えればいい。人の顔が入っていようが何だろうが、ゲシュペンストを襲ったついでみたいにこっちまで斬りに来るなら、今は全部まとめて敵でいい。
天井の穴からは、その間にも銀色の影が落ち続けていた。ゲシュペンストへ向かうものもいれば、着地した直後からこちらへ兜を向けるものまでいる。何体いるのか数える気にもならないし、そんなことに頭を使っている余裕もなかった。
巨大扉を抜け、乳白色の柱が並ぶ暗闇へ飛び込む。
加速のおかげで身体は軽い。先頭で揺れる夜行花の白い光だけを追い、柱の間を一気に駆け抜ける。行きにはあれほど不気味だった闇も、今は何も見えないことの方がありがたかった。
背後から、またゲシュペンストの咆哮が響く。
少し遅れて、何か重いもの同士が激突する音。さらに石材が砕ける轟音まで重なり、足元の床まで震えた。
「……絶対、振り返りたくない!」
「だったら前見て走れ!」
「見てる!」
アルジャノさんへ怒鳴り返しながら、脚だけは止めない。
黙ったら後ろで何が起きているのかばかり気になりそうだった。だから喋っている方がまだマシだと思ったのに、さらに大きな崩落音が響くと、さすがに背中がぞわっとする。
「なに壊してんのあいつら!」
「知るか!」
「私だって知りたくない!」
ようやく前方へ螺旋階段が浮かび上がる。
先頭がそのまま石段へ飛び込み、私たちも続いて駆け上がった。
上にも下にも闇が広がり、途中にある扉の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。行きには終わりがないんじゃないかと思った階段を、今度は本能任せにひたすら上へ向かう。
「猫! 猫の扉どこ!?」
「まだまだ上だ!」
「長いって! なんで帰りまでこんな長いの!」
「文句言えるなら余裕あるな!」
「ないから言ってんの!」
こんな時に、あの人の言葉を回収することになるとは思わなかった。全然嬉しくない。
一枚目の扉には目印がない。その次も違う。夜行花の光が壁を照らすたび、石の表面へ必死に目を走らせる。心臓は速いし、加速で脚は勝手なくらい動くし、頭の中なんてとっくにぐちゃぐちゃだった。
さらに弧を一つ回った先で、白い光が石壁の傷を拾う。
丸い顔に、三角の耳が二つ。
「あった! 猫!」
「見りゃ分かる!」
アルジャノさんが扉へ手をかける。やっと戻れると、そう思った瞬間だった。
階下から、硬い金属音を伴う足音が響いてきた。螺旋階段に反響して輪郭を掴みにくいが、ひとつではない。それだけは嫌でも分かる。
「……ねえ、なんか聞こえない?」
返事がないけど、聞こえていないんじゃない。全員聞こえているから、答えたくないだけだ。
ライルさんが手すり越しに下を覗き、嫌だったけれど私もつられて視線を落とした。
ずっと下の暗闇で、淡く光る扉の前を銀色の影が横切る。その少し上でも、また一つ。兜の奥に浮かぶ青白い光が暗闇へ消えたかと思えば、次の扉では二組が続けて姿を見せた。
まだ後ろにもいる。
こっちへ上ってきてる。
「ほらぁ!やっぱりきたぁ~!」




