第五十二話 底から湧き上がる最悪
休憩を終えて荷物をまとめる頃には、脚に溜まっていた重さもだいぶ取れていた。
毛足の長い絨毯の部屋を出て、また奥へ進む。壁際には大小さまざまな箱と書棚が入り混じっていたけれど、今度はミミックが飛び出してくることも、巡回中のゴーレムと鉢合わせることもない。何も起きないならありがたいはずなのに、ここまで散々な目に遭ったあとでは、その静けさまで何かの前触れに思えてしまう。
「……何もいないと、それはそれで怖くなってきたんですけど」
「警戒する理由が増えただけだ。正常だろ」
「それを正常って呼んでいいのかなあ……」
アルジャノさんは取り合わず、そのまま先へ進んでいった。
やがて箱も書棚も途切れ、正面に大きな両開きの扉が現れる。周囲と扉を調べ終えたアルジャノさんが片側を押し開くと、その向こうにあった闇が、こちらの明かりごと呑み込むように口を開けた。
油ランタンへ火を入れても、照らせるのは足元とその少し先まで。そこでようやく分かったのは、壁に沿って大きな弧を描く石造りの螺旋階段と、上下の暗闇へ点々と浮かぶ扉だった。
扉だけが、輪郭をなぞる程度にぼんやり光っている。
上にも、下にも。
どちらへ視線を向けても終わりはなく、遠くに浮かぶ光だけが闇の深さを余計に際立たせていた。
「その灯りだと、ちょっと暗くないです?」
「見えないよりはマシだが、この先を歩くには心許ないな」
「あ、だったら」
鞄を探って、布に包まれていた荷物を取り出す。中身は持ち手のついた水入りのランタンと、別に包まれた夜行花。
言われた通り蓋を開けて花を水へ沈めると、花びらから白い光が一気に広がった。
「うっわ、眩しっ!」
油灯とは比べものにならない。柔らかい白光が水を通して周囲へ広がり、暗闇へ沈んでいた石段をかなり先まで浮かび上がらせる。
「アルジャノさん、こっち使ってください。先頭が持ってた方がいいでしょ」
「助かる」
油ランタンの火を落として夜行花のものへ持ち替えたあとも、アルジャノさんはすぐには階段へ向かわなかった。短剣を抜き、出てきた扉の脇へ刃を押し当てる。
石を削る音と一緒に刻まれていくのは、丸い顔に三角の耳が二つ。どう見ても猫の頭だった。
「……なんで猫なんです?」
聞くと、アルジャノさんは空いた手で自分の猫耳を指した。
「こんな場所で、わざわざ猫の頭なんか刻む奴はいないだろ。戻った時に一発で自分たちの印だと分かる」
「ははぁ、なるほど」
「目印は綺麗さより分かりやすさだ」
確かに、こんなところへ猫の落書きを残す人はそういない。
猫頭の扉を背に、私たちは螺旋階段を下り始めた。
夜行花の明かりがあっても、空間の広さまでは照らしきれない。アルジャノさんの少し先から階段はまた闇へ沈み、手すり越しに下を覗けば、見える範囲のさらに下へ石段が続いている。
一枚目の扉を通り過ぎ、その下でもう一枚。さらに降りれば、また淡く光る扉が現れる。
何枚通り過ぎても景色は変わらず、底だけがいつまで経っても見えてこない。
「……これ、ほんとに終わるんですか?」
「地図が正しければな」
「その言い方、この場所だと全然安心できないんですけど」
「俺に言うな」
少し後ろから、ライルさんの笑い声が混じった。
「ここまで来たんだ。今さら階段が長いくらいで驚くのも馬鹿らしくなってきたな」
私もそう思い始めていた。
だから、次の曲がりを回った瞬間、足が止まった。
「……え?」
階段が終わっていた。
ほんの少し前、下を覗いた時には確かに暗闇へ石段が続いていた。それなのに今は、アルジャノさんの足元から先に平らな床が広がっている。徐々に底が近づいたわけでもなく、最初からここが終着点だったと言わんばかりだった。
「さっきまで底、見えてなかったよな?」
ライルさんの確認に、誰もすぐ答えなかった。たぶん全員、同じものを見たはずだ。
やがて本人が先に考えるのを諦めたらしい。
「毎回驚いてたら、疲れるのにキリがないな」
「こういう状況でも文句を言えてるうちはマシだって、仲間が言ってました」
「……それ、励ましてるのか?」
「たぶん、ですけどね」
言った本人は本気で励ましていたと思う。そういう人だから。
階段は終わっても、周囲を満たす暗闇はそのままだった。
夜行花を掲げたアルジャノさんが地図を確かめ、「真っ直ぐだ」と歩き出す。その光を追っていくうち、何もなかった闇の中へ乳白色の太い柱が一本、また一本と現れ始めた。
近くにある柱は根元から途中まで見えるのに、上端は光の外へ消えている。左右へ目を向けても同じ柱が一定の間隔で並び、その先はまた何も見えない。ここまで明るかった夜行花でさえ、自分たちのいる場所をほんの一部分だけ切り取っているようだった。
「……広いのか狭いのかも、もう分かんない」
「道が分かれば十分だ」
「アルジャノさん、だいぶ慣れてきましたね」
「慣れたくはなかったがな」
それには同意しかない。
柱の間を進んでいると、正面の闇へ今までとは違う大きな影が混じった。近づくにつれて左右へ分かれた輪郭と中央の継ぎ目が見え、人が使うには大きすぎる両開きの扉だと分かる。
「ここだ」
地図を確認したアルジャノさんが告げる。
罠がないことを確かめ、扉を押し開いた。
今度は一転して、目を細めるほど明るかった。
「……なぁに、ここ。伏魔殿の王様でも住んでる?」
壁には等間隔でランタンが吊られ、全部に火が灯っている。誰が油を足しているのか考えるだけ無駄な気はしたけれど、それ以上に目を奪われたのは部屋そのものだった。
継ぎ目すら目立たないほど丁寧に削られた石の床と壁。天井は高く、柱には細かな彫刻まで施され、左右にも奥にも広大な空間が続いている。王族か大貴族の屋敷――いっそ謁見の間ですと言われても、そのまま信じたと思う。
でも、数歩入ったところで別の違和感に気づいた。
「……いや、待って。もう、こういうツッコミも何度目かわかんなくなってきたけど」
「どうした?」
「これ、広さ合ってなくない?」
さっきまでいた螺旋階段には、上下にも近い間隔で別の扉があった。それなのに、この部屋は高さだけでもその距離を軽く無視している。横幅だって、隣にあった扉の向こうへとっくに食い込んでいるはずだ。
アルジャノさんも一度だけ周囲を見渡し、あっさり言った。
「考えるな。 驚くのも馬鹿らしくなってきたみたいな話してなかったか?」
「……ですよね。 わかってはいるんですけど」
地下に森があって、川まで流れていた。道は勝手に繋がり、底の見えなかった階段は突然終わった。
そこまで思い返したら、もう答えは決まっている。
「はあ~……もういいや。 まずはお仕事終わらせよ」
伏魔殿で空間の辻褄まで真面目に考えていたら、魔物に襲われるより先に頭がおかしくなりそうだった。
奥へ進むと、壁際に設けられた棚へいくつもの箱が並んでいるのが見えてきた。金属の縁取りに細かな装飾まで入った、いかにも『どうも、宝箱です』と自分から名乗っていそうな見た目をしている。
「……これ、噛みつかないですよね?」
「指定されてる収蔵具だ。これで合ってる」
「さっきまで全部ミミックだったから、もう箱を信用できないんですよ」
地図と照らし合わせた先には、一つだけ蓋を開けたままの箱があった。
そこで、ここまでずっと禁書を背負ってきたエマさんが荷を下ろした。
密林でも、川でも、何度戦闘になっても預かり続けていたものだ。封印された包みを抱え直す手つきには慎重さこそあったけれど、迷いはない。
「では、収めますね」
両手で持ち上げ、箱の中へゆっくりと下ろす。
禁書が底へ収まったことを確かめてから手を離した、その直後。
蓋がひとりでに閉じた。
ガコン、と中で何かが噛み合い、続けてガチャン、さらにもう一度、重い金属音が響く。エマさんも箱の前から動かず、私たちも余計なことはせずにその音が止むのを待った。
「……これで?」
「手順書には待てとある」
アルジャノさんが答えた少しあと、唐突に蓋が跳ね上がった。
中から小さなものが弾き出され、石床を乾いた音で転がる。
「あ……鍵ですね」
エマさんが拾い上げた直後、箱は役目を終えたみたいにもう一度閉まり、それきり静かになった。
ここまで背負われてきた禁書はもうない。その代わり、エマさんの手には収蔵を終えた証だけが残っている。
「これで収蔵完了ってことだな」
「……終わった?」
「ふぅ......これで依頼は達成、ってことですね」
エマさんもようやく小さく息を吐いた。
あとは帰るだけ。
そう思った途端、行きの道のりが頭を過ぎる。
その『だけ』が全然信用できないんだけど――。
低い音が響いたのは、その時だった。
ミシ、と石の奥で何か巨大なものが軋む。
「……なに? ここに来て不穏なんだけど」
広い収蔵区画の中ほどで、天井から小さな石片が落ち、床を跳ねた。
次の瞬間には、エマさんの声が飛ぶ。
「皆さん、こっちへ!」
何が起きるのか確かめるより先に集まり、その中心で聖壁の光が一気に膨らんだ。
五人を覆った直後、前方の天井が爆ぜた。
轟音とともに巨大な石材が床へ落下し、その衝撃で砕けた破片が四方へ飛び散る。こちらまで飛んできた石片は光の壁へぶつかるたびに弾かれ、乾いた音を立てながら足元へ転がった。
豪奢だった部屋の一角が、土煙に呑まれる。
その中で、積み上がった瓦礫が動いた。
内側から石材を押し退けるように、黒い巨躯がゆっくりと起き上がっていく。最初に見えた獅子の頭を赤い鬣が覆い、瓦礫を踏み砕く脚は鷲のように太い。その後ろでは、長大な尾の先についた蛇頭が石の間から這い出し、鎌首をもたげた。
さっきまで馬鹿みたいに広いと思っていた部屋が、そいつが立ち上がっただけで急に狭く見える。
「……うそでしょ」
知らないわけがない。
獅子頭。赤い鬣。鷲の脚。蛇の尾。
遭遇したら戦わない。何があっても逃げる。
そう決めていた、最悪の一体。
ほんと最悪。 ここまで来て、最後の最後でこれ?
悪の親玉が登場とか、そういうのフィクションの中だけにしてよ。
赤い鬣の獅子の顎が、大きく開いた。
次の瞬間、咆哮が広大な収蔵区画を震わせる。聖壁越しなのに胸の奥を直接殴られたみたいな圧が押し寄せ、身体が勝手に強張った。
「……ゲシュペンスト」




