第五十一話 戦闘後ティータイム
石造りの床に、石を積んだ壁。その上にはきちんと天井まである。
ただそれだけなのに、妙に安心する。青空の見える地下密林だの、壁から湧き出して奈落へ落ちていく川だのを見たあとでは、左右に本棚の並ぶ薄暗い回廊がひどくまともに思えてしまった。
……やっと普通の迷宮っぽい。いや、ここ書庫なんだから、迷宮っぽい方がおかしいんだけど。
「地図とは合ってる。今のところは、だが」
先頭で紙面を確かめていたアルジャノさんの一言が、せっかく戻りかけた安心をあっさり削ってくる。
「その付け足しいります?」
「ここまで来て、いらないと思うのか?」
「……いりますね」
悔しいけど否定できない。
それでも、しばらくの探索は拍子抜けするほど順調だった。通路の角から這い出してきた数匹のスライムも、ライルさんが盾で正面を塞いでいる間に、まとめて狙える位置へ寄ってくる。
「まとめて焼き払います! 呪符 焔華ッ!」
広がった炎が軟体を包み込み、ぶよぶよした輪郭が熱に耐えきれず崩れていく。表面から溶けるように縮み、そのまま黒ずむことさえなく、最後には粘液ごと跡形もなく消えていった。
「……っはあ~…見慣れた敵だと良いなぁ。楽じゃないけど」
「不満か?」
「逆です。普通って素晴らしいなって」
ライルさんには笑われたけれど、本気だった。敵が出てきて、倒せば終わる。それだけでありがたいと思えるくらい、伏魔殿はさっきまで何もかもがおかしかったのだ。
だから、次の曲がり角を前にアルジャノさんの足取りが急に鈍った時には、嫌な予感しかしなかった。
「止まれ。口と鼻を覆え。なるべく深く吸うな」
言うなり布を引き上げたので、私たちもそれに倣う。エマさんが「毒ですか?」と尋ねたものの、返ってきたのは「分からん。ただ、この臭いは嫌な類だ」という、あまり安心できない答えだった。
意識して嗅いでみれば、湿った獣臭の奥に、腐りかけた果実みたいな甘ったるさが混じっている。密林で散々嗅がされた草木の濃い匂いとは違い、こっちは喉の奥に薄い膜でも張りつくみたいで、何度も吸い込みたい空気じゃない。
「心当たりは?」
ライルさんが剣を抜きながら訊く。
「ああ。前に、ああいう奴らに傷をつけられてな。あとで腕を切り落とすことになった奴がいる」
「……それ、もっと早く言ってくださいよ」
「だから今言ってる」
アルジャノさんの視線を追って天井を見上げ、私は言葉を失った。
暗がりへ張りついていた黒い塊がゆっくり翼を広げ、その中心から白いものが覗く。最初は骨が引っ掛かっているのかと思ったけれど、違う。人間のものにしか見えない髑髏を、頭からすっぽり被っている。
身体そのものも大きい。翼を畳んでいてさえ人間一人分ほどあり、髑髏の眼窩の奥では赤い光がぬらりと揺れていた。割れた歯列の隙間からは、本来そこに収まるはずのない牙まで突き出している。
「……ここ来てから、生理的に受け付けない見た目のやつ多くない?」
「……それは、ちょっと分かります」
隣を見ると、エマさんも珍しく露骨に嫌そうな顔をしている。
「エマさんも?」
「治療する側にも好みはあります」
「ですよねぇ…」
妙なところで意気投合しかけた、その時だった。
天井から黒い影が剥がれ落ちる。正面へ飛び込んできた一匹を大盾が受け止め、その衝撃にライルさんの靴がわずかに滑ったものの、爪を振り下ろされる前に押し返す。すでに加速の光をまとっていたドルグクさんが横から踏み込み、大槌を胴へ叩き込んだ。
重い音とともに巨体が壁へ吹き飛び、被っていた髑髏だけが床を転がる。その音を合図にしたみたいに、残りも一斉に翼を開いた。
「二匹目、そっち!」
低く滑る一匹へ呪符を飛ばし、片翼の付け根を封締式で絡め取る。全部を止める必要はない。左右の翼の動きさえ崩せば、あとは勝手に飛べなくなる。
姿勢を失ったところへクロスボウの弦が鳴り、反対側の翼へ矢が突き刺さった。石床へ落ちた巨体を大槌が仕留め、最後の一匹も盾で逃げ道を狭められたところをアルジャノさんが射落とす。
時間にすれば短い戦闘だった。それでも終わった直後、エマさんは真っ先に前衛二人の傷を確認し始めた。
「服だけじゃなく、爪が掠ったところも見せてください。小さな傷でもです」
「大丈夫、俺はないよ」
「こっちもだ」
何もないと分かってからようやく安心し、少し離れた場所に転がっている髑髏を覗き込む。中身は空っぽで、どうやって頭へ固定していたのかもよく分からない。
「……これ、自分で拾って被ってるのかな」
「考えない方がいいと思います」
「エマさんもそう思う?」
「はい、頭の隅にどうにか追いやってます」
今度は間すらなかった。どうやら、この手の気持ち悪さに関してだけは相当話が合いそうだ。
先へ進んでも、伏魔殿はまともな迷宮のふりを長く続けてはくれなかった。ある回廊では巡回用らしいゴーレムが胸部を大きく砕かれ、その少し先には大型の魔獣が頭を潰されて転がっている。壁には深い爪痕が走り、石床にも何度も重いものを叩きつけた跡が残っていた。
「相討ちか?」
「たぶんな。少なくとも仲良く巡回してたわけじゃなさそうだ」
アルジャノさんは死骸へ近づかず、脇を抜けられる場所を選んで進む。
ここにいるもの同士でも殺し合うらしい。誰かが秩序立てて管理している場所というより、危ないものを片っ端から大きな箱へ放り込んで、そのまま蓋を閉じた――そんな印象の方が近かった。
しかも、通路のあちこちに妙に立派な宝箱が置かれている。
「それもミミックだ」
「また?」
さらに進んで別の箱を見つけても答えは同じ。三つ目ともなると、こっちも期待する気がなくなってくる。
「じゃあ、あれも?」
「まごうことなくミミックだ」
「……一個くらい本物ないんですか?」
「いまのところ全部ミミックだ」
「宝箱って、もうちょっと見つけたら嬉しいものじゃないんですか?」
「嬉しいから寄ってくる奴がいるんだろ」
「夢を餌にしてる時点で最悪なんですけど」
そんな私の文句には取り合わず、分岐の手前でアルジャノさんは短剣を抜いた。敵でもいたのかと思ったら、刃先を石壁へ強く押しつけ、斜めに一本の傷を刻む。
「これを覚えておいてくれ」
「目印か?」
「念のためだ」
斥候が必要だと思ってやっているなら任せればいい。ライルさんもそれ以上は聞かず、私たちは示された通路へ進んだ。
右へ曲がり、階段を下り、さらに二つの分岐を抜ける。途中でスライムを一群始末してからも似たような回廊は延々と続き、左右の本棚と灰色の石壁を見ているうちに、どれだけ歩いたのか分からなくなってきた。
その頃には、なんとなく同じ景色を前にも見た気がしていた。
先頭が急に止まったのは、その直後だった。
「……どうしました?」
返事より先に、みんなの視線が集まっている壁を見る。
そこには斜めに一本、深い傷が刻まれていた。
「これ……さっきの、ですよね」
「戻ってきたのか?」
ライルさんの問いに、アルジャノさんは地図を開いたまま首を振る。
「いや。戻る道は通ってない。分岐も間違えてない」
紙面の経路を何度も指で辿り、それでも答えが変わらないと分かったのか、低い声が回廊へ落ちた。
「……同じ場所を廻ってる」
背中を冷たいものが這った。
密林が地下に生えているのも、壁から川が流れ出すのも十分おかしい。でも、歩いている道そのものが知らないうちに繋がり直している方が、私にはずっと気味が悪かった。
どうする、と考えかけたところで昨夜の言葉が浮かぶ。
『構造物と武具に関してはドワーフ、城塞ならば蜥蜴人……いまはリザルドだったな。そいつらの右に出るものはいない。もしいれば、頼れ』
だったら、私が分からないまま悩む必要はない。
「ドルグクさん、ちょっと見てもらっていいですか?」
「何をだ」
「道は間違ってないみたいなのに、ここへ戻ってきてます。造りとかで何か分かりません?」
返事の代わりに、太い掌が壁へ当てられた。
表面をゆっくり撫で、指で擦り、そのまま腰を落として床との境目や石同士の継ぎ目まで確かめていく。別の分岐へ戻って同じことを始めても、私には何を比べているのかさっぱり分からなかった。
「……違うんですか?」
「違う」
「ど、どこらへんが......?」
「石がだ」
それだけ言われても、全部同じ灰色にしか見えないから迷ってるんだって。
「俺にも同じに見えるぞ」
「そうだろうな」
ライルさんにまで平然と言い切るあたり、たぶん馬鹿にしているわけじゃない。本当に、ドワーフ以外には分からなくて当然だと思っているらしい。
いくつかの壁と床を調べた末、ドルグクさんは一本の通路を指した。
「継ぎの石が同じだから、こっちだ」
色ではなく、石の粒、混じっているもの、水気の吸い方、組み方まで違うらしい。説明されても私にはまだ同じに見えたけれど、理解できないことと頼れないことは別だ。
「道を見るな。石を追う」
そこからは進み方が変わった。
罠や敵の気配を拾いながら先を読むアルジャノさんと、分岐ごとに床や壁を確かめるドルグクさん。二人の判断に従って進むだけで、さっきまで何度も同じ場所へ戻されていたのが嘘みたいに景色が流れていく。
「抜けたぞ」
その声の先で回廊が途切れ、次の部屋へ踏み込んだ途端、靴の下が柔らかく沈んだ。
床一面には足首が埋まりそうなほど毛足の長い絨毯。壁際には本棚の代わりに、装飾された木箱や重そうな金属箱が大小入り混じって並んでいる。
「……箱、多くない?」
ここまでミミックばかり見せられたせいで、宝物庫みたいな光景なのに少しも嬉しくない。
同じことを考えているのか、アルジャノさんもクロスボウを下ろさず、天井から箱の隙間、入口まで順に警戒している。
ここまで何度も戦ったし、回廊では散々歩かされた。まだ動けるけれど、この先にも腰を落ち着けられる場所がある保証はない。
「ここで一回、休憩挟みません?」
「俺はまだいけるぞ」
「私もまだ動けます。でも連戦してるし、この先どこで休めるか分からないじゃないですか。だったら、休めそうな時に一回止まっといた方がいいかなって」
少し考えたあと、「それなら賛成だ」とライルさんも応じる。エマさんも異論はなく、ドルグクさんからも反対は出なかった。
それでもクロスボウの先だけは下がらない。
「まだ何かいそうです?」
「気配が入り混じってて分からん。休むなら、なおさら警戒は必要だ」
「あ、それなら」
鞄から一本のスクロールを取り出して見せる。
「魔獣避けのスクロールがありますから、これ使いません?」
そこで初めて、アルジャノさんの注意が周囲から私の手元へ移った。
「……貴重品を惜しげもないな」
「え? これ、そんなにするんですか?」
「安くはない。休憩のたびに気軽に使うような代物じゃない」
「……あっ、これ、そうなんだ」
普通に使えと渡されたから、値段まで考えていなかった。
残りのスクロールが入った鞄へ一度だけ目を落とし、深く考えるのはやめる。高いからと惜しんで休めなくなる方が、多分怒られる。
「まあ……でも使います。ここでちゃんと休みたいし」
絨毯を少し避けた石床へスクロールを広げ、端の起動術式へ触れる。白い光が細い線となって床を走り、私たちを囲う魔術紋を描くのに合わせて、紙も端から白い粒へほどけていった。
紋様だけが淡く残るのを確認して、「これで、この辺りは魔獣から見つかりにくくなるみたいです」と伝える。
「なら少し楽できるな」
ようやくクロスボウが下がった。
私も絨毯へ腰を下ろし、鞄から携行食を取り出そうとする。その時、いくつかの包みの間に小さく折った紙が挟まっているのを見つけた。
『緑の包みがお前のだ。無理はしても無茶はするな』
「……なにそれ」
言われた通り緑色の包みを開けば、中身は木の実と穀物をチョコで固めた携行食だった。ひと口齧ったところで、中に混じった橙色の果肉へ気づく。
杏だ。
食事の時、私がよく取っていたもの。好きだなんて言った覚えはないのに、いつの間にそんなところまで見ていたんだろう。
「……ほんと、こういうのずるいよ」
小さく呟いてから、紙は丁寧に折り直して鞄へ戻した。
ほかの携行食と飴もみんなへ回すと、絨毯へ深く腰を沈めたライルさんが息を吐く。
「正直、休憩を言ってくれてちょっと助かった。迷宮はあまり慣れてないんだ。こんなのがずっと続くと思うと、さすがに気が持たない」
「安心しろ。こんな迷宮が他にもあってたまるか」
真顔で返したアルジャノさんに、思わず眉が寄る。
「それ、安心していいやつです?」
「少なくとも俺が入った迷宮は、もっとまともだった」
「迷宮に『まとも』って言われても困るんですけど」
ライルさんが吹き出し、エマさんまで小さく笑う。
その横で、いつの間にかドルグクさんが金属の酒瓶を取り出していた。
「酒か。俺にも少しくれ」
「構わん」
気軽に受け取ったライルさんが瓶を傾けた次の瞬間、盛大にむせ返る。
「げほっ……! なんだこれ、強っ……!」
「酒だ」
「それは分かってる!」
今度は私も耐えられなくて、エマさんまで口元を押さえて笑っていた。
最初に顔を合わせた時は、全員まとめて知らない人だった。今だって相手のことを何でも知っているわけじゃないし、これから先で意見がぶつからないとも限らない。
それでも今は、ライルさんがむせて、アルジャノさんが呆れ、ドルグクさんだけが平然と酒を飲んで、その横でエマさんが笑っている。その輪の中へ自分まで自然に混ざっていることを、昨日の夜にあれだけ不安がっていた私はたぶん想像もしていなかった。
探索はまだ途中だし、この先に何が待っているかも分からない。
でも、今のところは――思っていたよりちゃんとやれているみたいだった。




