第五十話 伏した魔の殿
六枚目の扉を越えてからしばらくは、本当にただの図書館だった。
高い書棚の間をアルジャノさんが少し先行し、私たちは距離を空けてその後を追う。古びた床板は歩くたびに軋むけれど、魔物の気配も罠らしいものもない。入口であれだけ身体が嫌がるような魔力を感じたせいか、何も起きないことの方がかえって落ち着かなかった。
どれくらい進んだ頃だろう。前を行くアルジャノさんの片手が上がり、全員の足が止まる。そのまま指された先を見ても、最初は何がおかしいのか分からない。
「……なに?」
目を凝らして、ようやく足元の違いに気づいた。板張りだった床が、いつの間にか灰色の石へ変わっている。壁にも湿った石が混じり、その先では蔦が本棚を呑み込み、さらに奥には太い木々まで生えていた。
境目がない。
図書館が終わって森になるんじゃなくて、二つの景色を水に溶かして、その途中だけ無理やり混ぜたみたいだった。
「……いやいや、おかしいでしょ」
隣から伸びたライルさんの指を追って、上を見る。
「ここ、地下で間違いないよな?」
「六回も階段下りましたよね......」
「そう、だよなあ......」
それなのに、蔦に覆われた本棚の向こうでは、木々の隙間から青い空まで覗いている。振り返れば、さっきまで歩いてきた暗い書庫。前を向けば、地下にあるはずの密林。どっちかが偽物だと言われた方が、まだ納得できそうだった。
「……静かですね」
エマさんに言われて耳を澄ませる。
鳥も虫も鳴いていない。小動物が草を踏む音もなく、あれだけ葉が茂っているのに風さえ吹いていなかった。枝先ひとつ揺れない静けさの中で、匂いだけが異様に濃い。
湿った土、青い葉、花、樹液。森の匂いを全部煮詰めて顔へ押しつけられているみたいで、息を吸うほど喉の奥へ張りついてくる。そこへ濃すぎる魔力まで重なると、鼻で嗅いでいるのか、ルナールの感覚で拾っているのか、自分でも分からなくなってきた。
「……ちょっと気持ち悪いかも」
「わたしもです。まだ大丈夫ではありますけど」
静かなのに、空気だけがうるさい。
その感覚を振り払えないまま石床を進むと、蔦に埋もれた本棚の間へ、得体の知れない石像まで混じり始めた。人に近いものもあれば、獣じみたもの、腕だけがやたら多いもの、顔に当たる部分が丸ごと削り落とされたものまである。
当然どれも動かない。それなのに横を通る間ずっと見られている気がして、何度か振り返りたくなった。
「……魔物なら魔物で、襲ってきてくれた方がまだマシなんだけど」
また前方で手が上がる。
道の少し先に立っていたのは、二メートルほどの茶褐色のゴーレムだった。粗削りの岩を人型に積み上げたような身体へ太い蔦が絡みつき、背中には周囲の緑から浮くほど鮮やかな赤い花が咲いている。
アルジャノさんがクロスボウを取り出した。
「間引き対象だ」
その一言で、ライルさんとドルグクさんが前へ出る。
こちらへ向いたゴーレムが一歩踏み出した瞬間、反射的に雷霆の術式を組みかけた。けれど視界いっぱいの木々と蔦が目に入り、すぐに切り替える。
ここで火でも回ったら、ゴーレム一体どころじゃ済まない。この森が普通の森と同じ燃え方をする保証だってない。
「足の動きだけ止めます!」
投げた呪符が右脚へ貼りつき、踏み出しかけた動きを縛る。左右の脚がもつれて片膝を落としたところへ、大盾が真正面から叩き込まれた。
岩同士をぶつけたような鈍い音とともに上体が傾き、そこへ横から大槌が振り抜かれる。肩から胴まで一気に砕け、岩塊が石床へ散らばった。
「……結構あっさりと――」
そう思ったのは一瞬だけだった。
散った岩が、小刻みに震えている。
「え?」
赤い花の付け根から細い根のようなものが何十本も伸び、腕だった岩、胸だった岩、脚だった岩へ絡みつく。それぞれが凄い勢いで引き寄せられ、見る間に人型へ戻っていった。
「はあ!? 何それ……」
ゴーレムが治ってるんじゃない。
花が、壊れた身体を拾ってる。
再構築された巨体が立ち上がり、そのまま両腕を頭上へ振り上げる。
「そのまま動かないでください! 聖壁!」
振り下ろされる寸前、半透明の障壁が前衛二人との間へ滑り込み、岩腕を正面から弾き返した。反動で上体が仰け反ったところへ、今度はドルグクさんの大槌が下から跳ね上がる。
背中から石床へ叩きつけられた直後、森の静けさを引き裂くような甲高い悲鳴が響いた。
「うわっ、うるさっ……! なに――」
倒れたゴーレムの背中で赤い花が激しく揺れ、ぶちぶちと細い根を引き抜いていく。
「チッ……! プラントイドか!」とアルジャノさんが吐き捨てるのが聞こえる。
花が抜けた。
それだけでも意味が分からないのに、何本もの蔦を脚みたいにばたつかせると、赤い花弁を揺らしながら密林の奥へものすごい勢いで走り去っていく。
横ではもうクロスボウが構えられていた。逃げる花を追って照準が動く。でも引き金は引かれず、その姿が木々の向こうへ消えたところで銃口も下がった。
「追わないんですね」
「何かも分からないものを、わざわざ森の奥まで追う理由がない」
まるっきり同感、私も追いたくない。というか、あの走り方を近くでもう一回見たくない。
残された岩塊の中をライルさんが剣先で探り、露出した核へそのまま突き刺す。硬い音とともに砕けると、残っていた魔力の気配もようやく消えた。
「こっちは念のためにな」
そこから先は木々が徐々に減り、代わりに左右から石壁が迫ってきた。いつの間にか人が二人並ぶのも窮屈なトンネルへ入り込んでいるのに、本棚だけは相変わらず消えない。壁の途中に一架だけ埋め込まれていたり、狭い通路をさらに邪魔するみたいに置かれていたりする。
「……本棚だけは絶対ついてくるんだ」
分岐の奥には、いかにも迷宮らしい木製の宝箱まであった。
「あれは絶対ミミックだ、近づくなよ」
「まだ調べてもないだろ。なんで分かる?」
「この暗がりで、あれだけ明るく見えてるのおかしいんだ」
言われてみれば、壁も床も輪郭が曖昧なくらい暗いのに、宝箱だけは妙にはっきり見えている。
「……ほんとだ。見つけてほしそう」
「そういうのは大体、見つけてほしい理由があるってことだ」
誰も近づこうとはしなかった。
分岐を離れてさらに奥へ進んでいると、先頭の足が少しだけ緩む。
「水音がする」
言われて耳を動かしてみると、確かにトンネルの奥から低い音が続いていた。
「……ほんとだ」
「滴じゃない。流水だ。それもかなり大きい」
近づくほど音は太くなり、やがて話し声の奥まで低い轟きが入り込んでくる。湿気も増し、石壁までじっとり濡れ始めた頃、ようやくトンネルが途切れた。
その先では、どう見ても跳んで越えられる幅じゃない川が、迷宮を真横からぶった切るように流れていた。
普通の川じゃない。
片側の高い石壁から大量の水が滝になって落ち、それがそのまま横へ流れて川を作っている。さらに反対側では地面ごと途切れ、今度は水が下へ向かって巨大な滝となり、底の見えない暗がりへ吸い込まれていた。
「……これ、どこから水来てるわけ?」
地下の書庫にある川として考えようとするほど、頭の中で理屈が崩れていく。
「この流れじゃ、泳いで渡るのは無理だな」
岸へ寄ったライルさんが水面を覗き込み――次の瞬間には、剣を抜きながらこちらへ走って戻ってきた。
「下がれ!」
背後で水面が大きく盛り上がる。
最初に現れたのは、大きな魚の頭だった。その下からゴブリンかオークみたいな太い両腕が伸び、さらに脚まで続いている。
「ぴぃっ…! きもっ…キモチ悪いっ!」
「きゃっ!」
エマさんと声が重なった。
一体じゃない。三体。
人間くらいある魚の身体を腹這いにしたまま、両腕と両脚をばたつかせ、口までぱくぱく動かしながら石床へ這い上がってくる。
「ライルさん、ドルグクさん、術を使うから下がって!」
二人が迷わず左右へ退く。その隙間を抜けるように一体がこちらへ向きを変え、腹を擦りながら気持ち悪い速さで迫ってきた。
「うわっ、やっぱりヤダッ、こっち来ないで!」
強いとか怖いとか、そういう問題じゃない。見た目も動きも生理的に無理。
直後、乾いた破裂音が響いた。
ボウガンの矢が刺さったのは敵じゃなく、その鼻先の石床。砕けた破片が跳ねた瞬間、三体の動きが反射的に止まる。
それで十分だった。
前衛二人が完全に離れたのを確認して呪符を抜き、中央の一体へ投げつける。濡れた鱗へ貼りついたところを起点に、雷を三方向へ分けた。
「急急如律令、呪符…雷霆!」
青白い雷光が三体の間を駆け抜ける。
川から上がったばかりの身体はどれもびしょ濡れだ。石床を掻いていた手足が同時に跳ね、ぱくぱく動いていた口まで止まると、そのまま三体まとめて崩れ落ちた。
「……ほんと、止まってる方が百倍マシ。 援護、助かりましたマジで…」
「それが俺の役割でもあるからな」
川そのものを渡る道は見当たらなかったものの、周囲を探るうちに、流れ込んでいる滝の裏側へ細い石造足場が続いているのが見つかった。
一列になって水飛沫の向こうへ入る。横は濁流、足元は濡れて滑り、滝の轟音が近すぎて自分の呼吸まで遠く感じる。下を見れば、そのまま反対側の滝まで連れていかれそうで、とても長く覗いてはいられなかった。
ようやく向こう側へ抜けると、アルジャノさんが地図を広げる。その間に鞄を下ろしたところで、密林からずっと続く気持ち悪さが思った以上に残っていることに気づいた。
頭の奥がぼんやり重い。
隣を見ると、エマさんも少し顔色が悪い。
「エマさん、気分悪くない? これ噛んでから飲みこんで」
小さな包みから丸薬を取り出して一粒渡す。
「あれ、これって……」
「ん? どしたの?」
「……いえ。ありがとうございます」
何か言いかけたものの、そのまま噛んで飲み込んだので、私も一粒口へ放り込んだ。
途端に、強い香草の清涼感が舌から喉の奥まで抜けていく。普段だったら爽やかを通り越して苦いと感じそうなのに、むせ返るような植物の匂いと魔力に当てられた今は、それくらいでちょうどよかった。
三人にも体調を聞きながら渡していくと、ライルさんは噛んだ途端に眉を寄せる。
「ニガ……いが、効くな」
「やっぱり苦いんですね」
私にはそこまで苦くない。エマさんもさっきより呼吸が楽そうで、逆にライルさんは効いているとは言っても、私たちほど辛そうには見えなかった。
……魔力を強く扱う方が、この濃さに当てられやすいのかな。
まだ決めつけるには早い。でも、覚えておいた方がよさそうだ。
そこからまた短いトンネルを進み、次の区画へ抜ける。
今度は石造りの床と壁がきちんと繋がり、頭上にはちゃんと天井まである。通路はいくつかに枝分かれし、壁際には相変わらず本棚が並んでいた。
さっきまでの密林や滝に比べれば、ようやく見慣れた景色に見える。
思わず少し安心しかけてから、すぐに別の意味で頭が痛くなった。
……やっと普通の迷宮っぽい。
いや、ここ書庫なんだから、迷宮っぽい方がおかしいんだけど。




