第四十八話 ほだされて、ほどかれて、夜に溶ける
目が覚めた時、月はまだ高かった。
カーテンの隙間から差し込む青白い光が、床の上を細長く切り取っている。朝にはまだ遠い。寝返りを打って枕へ顔を埋めたものの、一度浮かんだ意識は、水面に落ちた木の葉みたいに沈んでくれなかった。
明日だけ。
明日一日だけ、良い子にしてればいい。
余計なことを言わない。思い通りにならなくても我慢する。知らない人たちと普通に組んで、普通に依頼を終わらせる。
それだけなのに、考えるほど胸の奥がざわついた。
「……寝れない」
諦めて身体を起こす。
行っていいのかなんて考え始めたら、多分行けなくなる。だから考える前に寝間着を脱ぎ、いつもの装備に着替えて、髪を整えると部屋を出た。
深夜の王都は、昼間とは別の街みたいに静かだった。
少し前まで夜でも暖かかったのに、今は風が頬を撫でるたび薄く冷える。石畳に響く足音も私のものだけで、最初は普通に歩いていたはずなのに、人気のない通りをいくつか抜けるうち、いつの間にか歩幅が広がっていた。
気づけば、小さく駆けている。
「……なにしてんだろ、私」
呟いても足は止まらなかった。
二人が滞在している屋敷が見えると、胸の奥に詰まっていたものがほんの少し軽くなる。玄関前まで来て、ようやくこんな時間に訪ねる方がおかしいと冷静になった。
セラスさんは多分寝てる。
でも、ルクスさんが寝ているところは見たことがない。こんな時間でも起きてるかもしれない。
「……すぐ返事なかったら帰ろ」
そう決めて、ドアノッカーを鳴らした。
静かな夜には金属音が思っていたより大きく響く。一度。少し待って、もう一度。それでも返事がなく、やっぱり寝てるんだと踵を返しかけた時、ドアの向こうから低い音がした。
金属が擦れる音。
それだけで、誰なのか分かった。
胸が大きく跳ねた直後、錠が外れ、重い扉が内側へ開く。
「……サクヤ?」
夜の色より暗い、漆黒の鎧が視界いっぱいに入った。
何も知らない人なら、こんな時間にこれが玄関から出てきたら悲鳴くらい上げると思う。
なのに私は、安心した。
起きてた。会えた。
それまで胸の中で膨らみ続けていた不安に、安心と気まずさと緊張まで一気に流れ込んで、目の奥が熱くなる。泣くのだけは嫌だった。
「どうした。何かあったのか?」
心配する声まで聞こえたら、余計に駄目になりそうだった。
「入れて。こんな時間に女の子が訪ねて来たら、黙って迎え入れるのがデキる男だから」
「自分で言うのか、それ」
返事を待たず、脇をすり抜ける。
その一瞬で目端に浮かんでいた水滴を指先で拭った。
見られてない。多分。そういうことにしておく。
広いリビングは主照明が落とされ、窓から差し込む月明かりと、卓上の小さな灯りだけが闇を薄く押し退けていた。
その一角には、小さい爆発みたいな音を鳴らして撃っている銃の弾、色の違う小瓶、魔石、巻かれたスクロールが並び、傍らにはハルバードが立てかけられている。
何か作業をしていたらしい。
対面のソファへ腰を下ろしてから、私はようやく口を開いた。
「寝れないから、お話して」
我ながら子供みたいだと思う。こんな時間に押しかけて、眠れないから話し相手になってほしいなんて。迷惑なのも分かってる。
ルクスさんは、そういう面倒を面倒じゃないふりはしない。呆れるし、文句も言う。でも、だからといって私を拒絶もしない。
「寝付けないなら、セラスに添い寝でもしてもらったらどうだ」
こっちを見るでもなく、何枚も重ねたスクロールを揃えて紐でまとめながら言う。
「やっぱりデリカシーない。彼女が来たらそういうの直接聞かずに、さりげなく話聞くものだから」
「俺はいつの間に恋人ができてたんだ?」
「私のことじゃない!」
思わず声が大きくなって、誤魔化すように卓上の小瓶へ目をやった。
「……それ、何に使うの?」
咄嗟に口から出た。
自分でも分かるくらい、露骨な話題逸らしだった。
セラスさんのところへ行けと言われたのが嫌だったわけじゃない。ただ、今はここにいたかった。それをうまく誤魔化したつもりだったのに、ルクスさんはフラスコを灯りへ透かしたまま、最初から全部見えていたみたいに口を開いた。
「話を聞いてほしいのか、聞かせてほしいのか、どっちだ」
答えながらも手は止まらない。小さなフラスコへ別々の瓶から何かを移し、灯りに透かして中身を確かめる。栓をすると布で包み、細い紐で留め、その横へ置いた。
私は返事に詰まった。考えてみれば、何を話すつもりなのか、何も決めずに部屋を飛び出してきた。
「……えっと」
「待ってろ」
ルクスさんが立ち上がり、消えかけていた暖炉へ火を戻す。やがて橙色の火が薪の隙間から膨らみ、冷えていた部屋へゆっくり熱を広げ始めた。
さらに毛布を持ってきたので、ちょっと期待した。
次の瞬間、それがこっちへ飛んできた。
「わっ……もっと優しく身体に掛けるものだと思うんだけど」
「自分で掛けられるだろ」
「こういう時は雰囲気ってものがあるじゃん」
「深夜に押しかけてきた奴が注文をつけるな」
文句を言いながら肩から毛布を被り、そのままソファへ横になる。
月明かりと卓上灯、それに暖炉の火。違う色の明かりが重なるリビングは、さっきまで一人で歩いていた夜道よりずっと暖かかった。
一拍置いて、考えるのをやめる。
何から話すか順番を決めようとするから、余計に言葉が出てこない。だったらもう、整理なんてしなくていい。今、頭の中にあるものをそのまま口にしてしまえばいい。
「私、才能あるから」
「いきなり大層な自信だな、と言いたいが……否定はしない」
「でしょ?」
毛布から顔だけ出して、少しだけ得意になる。
「ルクスさんもセラスさんも、悔しいけど私が追い付かないくらい二人だけで戦えるし。だから私も好きに動けるの」
どこを封じて、どこを崩して、いつ仕留めにいくか。いちいち確認しなくても、自分で判断して動ける。
二人なら、それで通じる。
「とんでもない戦い方するときあるけど、それもほんとは好き。私じゃ思いつかないことしたりするから」
「心当たりが多すぎて、どれの話か分からんな」
「そういうところ、だよ」
少し笑って、それから毛布の端を指先で弄る。
「でも、他の三等級の人とじゃ、多分そうならない」
言ってから、自分でも少し変だと思った。
今までだって、知らない人と組めなかったわけじゃない。依頼で初対面の冒険者と一緒になったことなんて何度もあるし、そのたびにどうにか仕事はしてきた。
なのに、二人と動くようになってから、妙に居心地が良くなってしまった。
好きに動いても追いついてくる。無茶をすれば、それ以上の無茶で返ってくる。いちいち自分を小さくしたり、相手の機嫌を探ったりしなくても戦える。
居心地のいい場所に長く座りすぎて、立ち方まで忘れてしまったみたいだった。
「……前は知らない人とも普通にやってたのに。二人と一緒にいるのが楽すぎて、どうやってたか忘れちゃった」
「贅沢な悩みだな」
「私だってそう思うよ」
少し唇を尖らせる。
「思い通りにならないと、私、キツい言い方しちゃうし。私が意見出しても、若くて女だからって取り合ってもらえないこともあって、だから強く言うと生意気って言われて」
そこで一度言葉を止めた。
「愛想よくっていうか……私、可愛いし。その……身体も自信あるから、それで男女問わずに取り入ったりしてて……パーティだと恋人同士の人もいるから、それで揉めたり、とか」
言葉にするたび、自分で自分の古傷を爪でなぞっているみたいだった。痛いのは知っているのに、どこまで痛むのか確かめるように触ってしまう。
「いくつもパーティの仲壊して。それが、監査官のひとが言ってたこと」
ノーレンさんはもっと綺麗に言ってくれた。対人面の問題。協働への懸念。本当は、そんな整った言葉じゃない。
「……私、最低なの」
ルクスさんは作業の手を止めなかった。スクロールをまとめ、調合した瓶を包みながら、それでもちゃんと聞いているのは分かる。
「最低だと、自覚できているだけ上等だ」
「……慰めてる?」
「慰めも同情もしていない。サクヤは分かりやすい方だ」
「な、なにが?」
「話して楽になりたいわけじゃない。話しても突き放されないか試したいんだろう。捨てるんじゃないか、とかもな」
言い返せなかった。
というより、こんなに懐かせてから捨てるんだ、とまで自分で言っている。私がいない間に別の誰かを仲間にするんでしょ、とも言った。
ここまで直情的で分かりやすい女も、そうそういない気がする。
「……そういうの、分かってても普通は言わなくない?」
「試したければ、好きなだけ試せ」
あっさり返された。
「凄まじく面倒な女ではあるが、そのくらいは付き合ってやる」
そう言いながら立ち上がり、暖炉のそばに掛けてあった容器を手に取る。中で温められていた葡萄酒を金属のカップへ注ぎ、戻ってくると私の前へ置いた。
毛布から手を出して包むと、金属越しの熱が冷えていた指先へじわりと染み込んでくる。
「以前、仲間のリ……治癒術士が言っていた」
「今、誰かの名前言いかけなかった?」
「気のせいだ」
「絶対なんか言ったじゃん」
「『面倒な女はイイ女』だとな。手間をかければかけるだけ、良い女になるらしい」
「なにそれ」
「『だから、私に手間をかけろ!』と胸を張っていた」
思わず笑ってしまう。
「女の子の前で他の女の話するなんてサイテーだよ」
「注文が多すぎる……面倒くさくなってきたな」
「面倒な女はイイ女なんでしょ」
「言った手前、否定できないな」
暖炉の火が小さく爆ぜた。
葡萄酒の熱と一緒に、胸の奥で固まっていたものまで少しずつほどけていく。さっきまで口にするたび傷口を撫でているようだった昔の話も、今はもう少し遠くにある。
「……実際、良い女で、良い仲間だった」
その言い方だけは、少し静かだった。
私はカップ越しに向かいの黒い鎧を見る。
「ルクスさん、自分のことあまり話さないから、そういうの聞きたい」
「そういうの?」
「昔のこととか。誰と一緒にいたとか、どんな人だったとか。私ばっかり色々喋ってるの、ちょっとずるいじゃん」
ルクスさんは少しだけ黙った。
卓上の灯りが、黒い兜の縁を細く照らしている。その向こうにどんな顔があるのかは、やっぱり分からない。
「そうだな。サクヤが帰ってきたら、ひとつ話してやる」
「……ほんと?」
思わず身体を起こしかけた私へ、続けて声が落ちる。
「失敗しても構わない。無事に帰ってこい」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
二等級になれとも、上手くやれとも言わなかった。
ただ、帰ってこい。
たったそれだけの言葉なのに、明日のことを考えるたび胸の中を走り回っていた不安が、急に行き場を失ったみたいに静かになる。
手の中では、まだ葡萄酒が温かい。
暖炉の火が揺れるたび、向かいに座る黒い鎧の輪郭が橙色に浮かんでは、また夜の色へ溶けていく。その規則的な明滅を眺めているうちに、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
私はもう一度ソファへ身体を預け、毛布を顎の下まで引き上げた。
明日のことが怖くなくなったわけじゃない。
知らない人たちとうまくやれる自信だって、急に湧いてきたわけでもない。
それでも、帰ってきたら話してくれることが一つある。
それくらいなら、明日へ持っていく理由としては十分だった。
さっきまで眠れる気なんて欠片もしなかったのに、少しずつ瞼が重くなっていく。
どうやら今夜は、もう大丈夫そうだった。




