第三話 行かなきゃ後悔する
王都の城壁が見えてきたのは、宿場町を出て二日目の昼過ぎだった。
遠目にもわかる、立派な壁だった。四百年前、この辺りには砦の一つもなかった。それが今や、見上げるような石壁が地平線の端まで続いている。壁の上には旗がはためき、門の前には通行を待つ人や荷馬車の列ができていた。
人が、たくさんいる。生きている人間が、当たり前みたいに行き来している。
荷を運ぶ商人。親に手を引かれた子供。門番と世間話をする農夫。誰も剣の柄に手をかけていない。誰も背後を警戒していない。魔物に怯えて空を見上げる者もいない。
俺たちが命を張って守ろうとしたのは、たぶん、こういう光景だった。特別な誰かじゃない。名もない人間が、名もない一日を、平和に過ごしている。それだけのことだ。それだけのことが、四百年後にちゃんと残っていた。
それを見られただけで、俺はもう十分だったのかもしれない。
「ここまで来たら、もう大丈夫だな」
俺は足を止めた。
「俺はここまでだ」
エマが、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「え……?」
「見ろよ、あの門。通行許可証だの身分証だの、色々いるんだろ。俺にはそんなもの、あるわけがない。だいたい、この面だぞ」
俺は自分の顔──があるはずの場所を、指で示した。黒い鎧に、赤く光る目。こんなものが門の前に立ったら、通されるどころか、衛兵が総出で槍を構えるだろう。
「あんたは中に入れる。俺は入れない。それだけの話だ」
「……」
「難しい顔するな。ギルドに帰還報告をして、まっとうな冒険者に戻ればいい。それが筋ってもんだ」
エマは、しばらく黙っていた。何か言いたそうに口を開いては、また閉じる。それを何度か繰り返した。
「これから、どうされるんですか」
ようやく出てきたのは、そういう問いだった。
「──そうだな」
俺は、ちょっと考えるふりをした。
「アテがないこともない。まあ、この時代のことも、色々知らないといけないからな。ぼちぼち回るさ」
嘘ではなかった。まだ生きているかもしれない仲間が、一人か二人いる。エルフと竜人だ。あいつらなら、四百年くらい平気で生きていてもおかしくない。探すアテは、そこにあった。
だが、それをこの子に背負わせる話でもない。エマにはエマの人生がある。
俺は腰の後ろに手をやった。狼の魔石が二つ、そこにある。迷宮で拾ったやつだ。
「世話になったな。こんなものしかないけど、持っていけ」
俺は魔石を一つ、エマの手に握らせた。
「え、あの、わたしはなにも──」
「魔力が俺の動力源らしいからな。一個はもらうぞ。だが二人で出てきたんだ。だから半分だ」
エマは、手のひらの魔石を見つめていた。それから、俺を見上げた。
「二人で、出てきた……」
「そうだろ。あんたが道案内して、俺が魔獣をぶん殴った。立派な共同作業だ」
我ながら安い言い方だと思った。だが、嘘じゃない。俺はこの子を、助けた足手まといだとは思っていない。一緒に迷宮から出てきた同行者。だから戦利品は折半だ。
「……ありがとう、ございます」
エマは、両手で魔石を包んだ。大事そうに。
「じゃあな、エマ。達者でやれよ」
俺は背を向けて、歩き出した。
これでいい、と思った。この子は若い。まだ何にでもなれる。神殿の聖職者にでも、まっとうな冒険者にでも。黒い化け物と旅を続けるより、ずっといい未来がいくらでもある。俺と一緒にいたら、その未来を潰しかねない。
振り返らなかった。振り返るのは、俺の悪い癖だ。四百年前、それをやらずに済んだから、あいつらは逃げられた。だから今日も、振り返らない。
◇
しばらく歩いて、街道を外れ、王都を大きく回り込むように進んだ。門をくぐれない以上、壁沿いに迂回するしかない。
日が傾いてきた。
俺には、行く当てが漠然としかない。まずはこの時代の地図が要る。仲間を探すにも、どこに何があるのか、四百年でどう変わったのか、何もわからない。焦っても仕方がない。俺には時間だけは、たっぷりある。
なにせ、腹も減らなければ、眠りもしないんだからな。
──それは、思ったより寂しい事実だった。
野営の焚き火を囲む必要も、飯を分け合う理由も、もう俺にはない。人と共にいる理由が、体から一つずつ消えていく。そういう作りになってしまった。
まあいい。感傷に浸るのは俺の柄じゃない。
そう思って歩いていると、背後から足音が聞こえた。
小さくて必死な、この数日で聞きなれた足音だった。
「ルクスさーん!」
振り返った。悪い癖が出た。
街道の向こうから、エマが走ってくる。旅装を整え直して、荷物を背負って、息を切らして、こっちへ向かって全力で走っていた。
「……なにやってんだ、エマ」
エマは俺の前まで来ると、膝に手をついて、しばらく息を整えた。それから、顔を上げた。
「はぁ......はぁっ......報告、してきました! ギルドに。ちゃんと帰還しましたって!」
「そりゃ結構だ。で、なんで戻ってきた」
「……」
エマは、まだ息を切らしながら、まっすぐ俺を見た。怖がりのくせに、こういう時だけ、まっすぐ目を見る子だった。
「行かなきゃ、後悔する気がして」
「後悔?」
「はい。ここで別れたら、わたし、きっと一生後悔するって。ギルドで報告してる間、ずっとそのことばっかり考えてて。だから、走ってきました」
俺は、少し面食らった。
「言っとくが、俺の旅は物騒だぞ。行く当てもはっきりしない。食材はすべて粉砕されるだろうから、飯を作ってやることもできないし、宿の手配は......リビングアーマー呼ばわりされて衛兵だの騎士だのを呼ばれなければ出来るが。何より──」
俺は自分の鎧を、指で叩いた。硬い音がした。
「こんなのと一緒にいたら、エマまで変な目で見られる」
「知ってます」
「知ってて言ってるのか」
「はい!」
即答だった。少しくらいは否定してほしかったが、素直でよろしい。
俺は、しばらくエマを見下ろした。俺の胸のあたりまでしか背のない、怖がりで、野営もろくにできない、新米の治癒術士。そいつが、頭一つ半も大きい黒い化け物を見上げて、一歩も引かずに立っている。
──憧れの聖女の背中を追いかけてるのか。
神殿で待つんじゃなく、助けを求める人のところへ、自分から行く聖女に。
時代が移ろい、景色も何もかもが変わっても。いつだって、旅立ちの理由はそういうものなんだ。
なるほど。今のこの子は、たぶんその一歩目を踏み出したところなんだろう。
「──わかった。一緒に行こう」
正面から見返しながら、俺はそう言った。
「ただし、危なくなったら迷わず逃げろ。俺を助けようとするな。いちばん重要な仕事は、生きて帰ることだ。いいな」
エマの顔が、ぱっと明るくなった。聞き分けの良さそうな、素敵な笑顔だ。理解してくれたな。
「はい! ルクスさんと一緒に生きて帰ります!」
理解はしてもらえなかったが、返事だけはもう一人前だった。
◇
二人で歩き出して、しばらく経った頃だった。
日はとっぷり暮れて、辺りは夜になっていた。街道の先、ずっと向こうの空が、妙に赤い。
「随分と明るいな」
俺は足を止めた。
エマも立ち止まって、同じ方を見る。
「お祭りの時期、でもないような……」
エマが首をかしげた。
俺は、その赤い光をじっと見た。祭りの灯りなら、もっと点々と散っている。あれは違う。一箇所から、赤い光が塊になって噴き上がっている。空の低いところに、黒い煙が這っているのも見えた。
「エマ、抱えるぞ。しっかり掴まってろ」
「えっ、えっ!? どうしたんですか!?」
俺はエマを脇腹へ抱え上げた。エマが慌てて俺の腕にしがみつく。
「あれは、祭りじゃない」
俺は、暗い夜空を赤で侵食する方向を見据えて、地を蹴った。
お読みいただきありがとうございました。エマは自分の意思で、黒騎士との旅を選びました。そして向かう先は、炎に包まれた町。次回、ルクスの鎧が振るわれるのは、戦いのためだけではありません。人を救うために、この力を使います。ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




