第十九話 会いにいくよ、黒鹿に乗って
里を発つ段になって、セラスが用意していた乗り物を見た俺は、しばらく言葉を失った。
鹿だった。
ただし、俺の知っている鹿より二回りは立派だ。とりわけ俺の前にいる黒毛の牡鹿は馬と見紛うほど大きく、頭上には真っ白な二本の角がそびえている。幾重にも枝分かれした角は見栄えがいいというより、正面から突っ込まれたら洒落にならない類の代物だった。
その隣には栗毛の雌鹿が一頭。こちらも十分な体格だが、黒鹿と並んでいるせいか、ずいぶん穏やかそうに見える。
「……鹿、だよな?」
「見ればわかるでしょ」
セラスは何を当たり前のことを、とでも言いたげだった。
「神代の末裔よ。昔から里で騎乗用に育ててるの。風精の加護を受けてるから足も速いし、長く走っても疲れにくいわ」
「神代の末裔、ねえ。 道理で立派なわけだ」
そう聞いて改めて黒鹿を見ると、ちょうど黒い瞳と目が合った。
ぶふっ、と荒い鼻息。
続いて前脚で地面を掻き始める。それも一度では終わらず、早くしろとでも言いたげに二度、三度。
どうにも大人しく乗せてくれる顔には見えない。
「こいつ、本当に俺を乗せて大丈夫なのか?」
「気性が荒くて元気だから、あんたより大きい荷物も運んだことあるし大丈夫よ」
「前半に大丈夫じゃない言葉が聞こえた気がするんだが……」
「気のせいよ」
絶対に気のせいじゃない。
とはいえ、この身体を運べるというならありがたい。俺は頭の先から足の先まで鎧そのものだ。普通の馬なら、まず重さに耐えられるかを心配するところだった。
鞍へ跨がると、黒鹿は俺を確かめるように一度身体を揺すった。それだけで、脚が沈むことも苦しそうにすることもない。
むしろ手綱を握った途端、勝手に前へ出ようとした。
「おい、まだだ」
引き止めると、また鼻息。
なるほど。セラスの言う「元気」の意味が少しわかってきた。
一方、栗毛の雌鹿の前では、エマが鞍を見上げたまま動かない。
「エマ、もしかしてこういうの初めて?」
「え?」
「騎乗よ。馬とか鹿とか」
「……乗ったこと、ないです」
「やっぱりね。じゃあエマが前よ」
「前ですか?」
「アタシが後ろで手綱取るから。その方が安全よ」
「お、お願いします」
エマが恐る恐る鞍へ上がり、前をしっかり掴む。その後ろへセラスが軽々と跨がると、両腕の間にエマを収める形で手綱を取った。
あれなら、多少揺れても落ちる心配はなさそうだ。
「最初から飛ばすなよ」
「わかってるわよ。今日はエマに合わせるから」
栗毛の雌鹿が歩き出すと、黒鹿も待っていたとばかりに地面を蹴り、その後へ続いた。
里を離れて森へ入ると、ほどなくして神代の末裔と呼ばれる理由を身体で知ることになった。
速度が上がっても走りが乱れない。木の根が張り出した地面も、石の転がる場所も、わずかに歩幅を変えるだけで越えていく。森の中で無理に速度を出している感じがなく、むしろこの足場で走ること自体に慣れ切っている。
俺を乗せた黒鹿に至っては余裕がありすぎるくらいだった。少し手綱を緩めれば栗毛の雌鹿へ並び、そのまま前へ出ようとする。
「これで抑えてるのか?」
「まだまだよ。エマが慣れるまではね」
そのエマは、まだ景色を楽しむどころではないらしい。
栗毛の雌鹿が張り出した根を越えたところで、身体が軽く弾んだ。
「ひゃっ......!」
後ろへ揺れたエマの頭が、セラスの胸元へ沈む。
何が起きたのかわからず見ていると、エマがぴたりと固まった。
次の揺れでもう一度。 すると今度は、黙ったままじわじわ前へ逃げ始める。
「エマ、そんなに前に寄ったら危ないわよ」
「だ、大丈夫です!」
「大丈夫じゃないから言ってるの。もっとこっちに身体預けなさい」
セラスに腰を支えられ、元の位置へ戻される。
そこへまた鹿が跳ねて、エマの頭が後ろへ沈む。
「……なんでしょう、この絶妙な敗北感」
「何に負けてるんだ?」
「ルクスさんは気にしないでください!」
なんで俺が怒られるんだ。
その後も似たようなことが何度か続いた。
最初のうちは揺れるたびに前へ逃げようとしていたエマも、やがて抵抗をやめたらしい。セラスへ背中を預けたまま、すっかり力を抜いている。
「エマ、慣れてきた? 風が感じられて気持ちいいでしょ!」
「はい。もう諦めました」
「えっ、何を?」
「挑まないほうがいい戦いもあるっていうことです」
また鹿の身体が軽く上下する。 今度は前へ逃げるどころか、そのまま後ろへ身体を預けた。
「……これはこれで」
「ん?」
「なんでもないです!」
さっきまでの敗北感はどこへ行ったんだ。
まあ、怖がっているよりはいい。
そのうち本当に騎乗にも慣れてきたのか、エマは周囲を見る余裕を取り戻した。木漏れ日の差す森や、俺達に驚いて飛び立つ鳥を見つけては楽しそうに声を上げている。
「ルクスさん、すごいですよ! こんなに速いのに、もう全然怖くありません!」
「さっきまで必死だったのにな」
「慣れたんです!」
「ずいぶん急だったな」
「急に慣れたんです!」
そこまで言い切られたら、これ以上は突っ込まない方がよさそうだ。
俺は前を行くセラスへ視線を移す。
肩まで切った銀髪が風に踊っていた。神託の間で再会した時には水面を引きずるほど長かった髪だ。それを思い出して、ふと気になった。
「そういや、お前。あの髪じゃ、実戦だの狩猟だのには長いこと出てなかったんじゃないのか?」
「なによ、急に!」
「いや、さすがに勘が鈍ってないかと思ってな」
「四百年寝てて、生後一か月程度のよくわかんない鎧と、新米治癒術士となら、ちょうどいいじゃないの」
「新米は余計です!」
エマの声が即座に割って入るが、俺の方はと言えば反論する言葉が見つからなかった。
「……俺も人のこと言えないか」
「でしょ? 素直でいいことだわ」
「でも、何がちょうどいいんだ?」
「勘を取り戻す旅としてよ」
セラスは何でもないことのように言った。
四百年前なら、こいつの腕を心配するなんて考えもしなかった。戦いになれば背中を預け、それで困ったこともない。
ただ、俺が眠っていた四百年を、セラスは実際に生きてきた。昔と何も変わっていないと決めつける方がおかしい。
それでも本人に不安がないなら、今はそれでいい。必要になれば、嫌でも腕前を見ることになるだろう。
しばらく走ったところで、セラスがこちらを振り返った。
「ねえ、あんた達のやってることが詩になってるのよね」
「そうらしい。元凶の詩人がそう言ってた」
「元凶って……」
「フィネガンってやつだ。本人が俺達の前で歌ってた」
「黒い騎士が治癒術士攫って、いやらしい事してるとかって詩じゃないのよね?」
「いじわるはされますけど、いやらしい事はされてません!」
またエマが真っ先に答えた。
「必死に訴えられると、逆に怪しく見られそうなんだが」
「だって違いますから!」
「なら、何で騎士団が詩であんたを探してるのよ。期待の新人を探してるってわけじゃないでしょ」
「それをこれから聞くために探してるんじゃないか」
「ああ、それもそうね」
「今さら気づいたのか。 勢いだけで生きてるのは変わってないんだな」
本人はまるで気にしていない。 しばらくして、今度は楽しそうな声が飛んできた。
「あんた達と詩になるのも悪くないわね!」
「やめろ。これ以上増やすな」
「なんでよ。アタシが入った方が華があるでしょ」
「そこは否定しないけど、話が余計ややこしくなる」
「失礼ね! アタシが面倒な存在みたいな言い方やめてよ」
「今でも十分ややこしいんだよ」
黒騎士だの聖女だの、こっちは頼んでもいない名前を勝手につけられ......利用したこともあったが。
その詩を手掛かりに騎士団まで俺達を探している。
何のためなのかは、まだわからない。
「まあ、会えばわかるさ。鬼が出るか騎士が出るか、だな」
「騎士に会いに行ってるんだから、騎士は出るでしょ」
「ただの例えだって」
「その例え、今の状況に合ってないわよ」
「細かいんだよ!」
前からエマの笑い声が聞こえた。
四百年ぶりに再会したはずなのに、セラスとのやり取りは拍子抜けするほど昔と変わらない。その間にエマが混じり、当然のように会話へ入ってくる。
昔の旅に戻ったわけじゃない。
あの頃にはいなかった相棒と、四百年ぶりに戻ってきた仲間。その二人と一緒に、俺は今の世界を旅している。
そう思うと、不思議と気分が軽くなった。
木々が少しずつ疎らになってきた頃、俺は前へ声を掛ける。
「この調子なら、町まであとどれくらいだ?」
「今日は五時間くらいね」
「五時間?」
「普通の馬なら八時間くらい。エマが乗ってるから、これでもかなり抑えてるわよ」
「抑えて、それかよ」
ここまで走り続けているのに、黒鹿の呼吸はほとんど乱れていない。前の栗毛も同じで、脚取りが鈍る様子すらなかった。
「風精の加護ってのは、速度だけじゃないんだな」
「そうよ。疲れにくいのもこの子達の強み」
「そりゃ旅には便利だな」
黒鹿はまだ走り足りないらしく、隙を見ては栗毛の雌鹿へ並ぼうとする。そのたびに手綱を戻すと、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
これでまだ抑えているというなら、全力ではどこまで走るのか少し興味が湧く。
だが今日はエマの安全が優先だ。
「エマ、もう平気そうか?」
「はい! 最初よりずっと楽です。 それに、こんなに風を感じること初めてです!」
答えたところで鹿が軽く弾んだが、今度は何の慌てようもない。エマは自然に後ろへ身体を預けたまま、むしろ機嫌よく景色を眺めている。
「……本当に慣れたな」
「どんどん楽しくなってきましたっ!」
振り返りもしないところを見ると、ずいぶん満喫しているらしい。
それからしばらく進むと、頭上を覆っていた木々が途切れた。
視界の開けた街道の先に建物の屋根が並び、その周囲を低い壁が囲んでいる。目的地の町で間違いなさそうだ。
「あっ、見えました!」
エマの声が弾む。
俺もようやく騎士団について何か掴めるかと思った。
だが、町の上に立つ黒煙を見つけた瞬間、その期待は消えた。
「……あれ、煙ですよね?」
「ああ。しかも一か所じゃない」
近づくにつれて、街道をこちらへ逃げてくる人々の姿がはっきりしてきた。荷物を抱える余裕もなかったのか、手ぶらの者が多い。子供の手を引く者もいれば、足の遅い老人を支えながら必死に進んでいる者もいる。
町から鳴り続けている鐘も、時刻を知らせる音とは違った。
さらに風が運んできた悲鳴を聞けば、何かあったのかと考えるまでもない。
「セラス!」
「見えてる。行くわよ! しっかり掴まってなさい!」
栗毛の雌鹿が速度を上げる。
黒鹿もすぐさま応じ、抑えていた脚を解き放つように加速した。身体が後ろへ引かれる感覚に、俺は手綱を握り直した。
どうやら、ここまでの走りは本当に加減されていたらしい。
町との距離が詰まるにつれ、逃げてくる人々の向こう側も見えるようになった。
入口近くで、小柄な緑色の影が棍棒を振り回している。少し離れた場所には粗末な剣を持った別の個体がいて、さらに町の奥にも同じ姿がいくつも動いていた。
迷い込んだ魔物を追い払う程度の騒ぎじゃない。
町そのものが襲われている。
「さて、鬼が出るか騎士が出るかと思って来てみれば……」
騎士団を探して森を出た最初の町で、よりによって待っていたのがこいつらか。
「鬼も騎士どころか、ゴブリンじゃないか!」
お読みいただきありがとうございました。
次回、騎士団を探しに来たはずが、ゴブリンの群れと遭遇戦となります。
またこのお話にお付き合いいただけたら嬉しいです。
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