第十六話 再会の喜びは暴力のあとで
ヴェールの奥から向けられた視線が、まっすぐ俺を捉えた。
女は巨大な樹の前に立ったまま、こちらを見ている。足元には色とりどりの花弁が浮かび、尾のように長い銀髪が波のない水面へ広がっていた。
少なくとも、こんな姿の女に覚えはない。水面に着くほどの長さの髪も、花冠から垂れるヴェールも、薄い布を幾重にも重ねた服も、俺の記憶にはなかった。
それなのに、なぜか引っ掛かった。
顔さえろくに見えていないのに、どこかで知っているような感覚がある。
「……どうされました?」
隣からエマに呼ばれ、俺は一度だけそちらへ視線を向けた。
「いや。なんでも──」
言い終える前に、女が水面を蹴った。
「……は?」
静かに樹を見上げていた姿からは想像もつかない勢いで水面を蹴り、水飛沫を舞い上げて一直線にこちらへ駆けてくる。足が水へ沈む様子はなく、踏み込むたびに浮かんでいた花弁だけが左右へ散っていった。
長い銀髪とヴェールが後ろへ大きく流れる。
その隙間から、一瞬だけ顔が見えた。
四百年前とは違う。そのはずなのに、こちらを射抜くような目だけは覚えていた。
「おい、まさか──」
女が水際まで駆け抜け、最後の一歩を強く踏み込んだ。
身体が宙へ跳ね上がる。
次に見えたのは、綺麗に揃えられた両脚だった。
「ちょ──」
避ける間もなく、両足が俺の胸板へ真正面から突き刺さった。
凄まじい衝撃に足が地面から離れ、そのまま身体ごと後方へ弾き飛ばされる。途中の草木を巻き込みながら地面すれすれを飛び、背中へさらに大きな衝撃が走った時には、後ろに立っていた大木の根元へ半ばめり込んでいた。
衝撃を受けた幹が大きく揺れ、遥か頭上から葉がばらばらと降ってくる。
「えぇっ......!? ルクスさん!?」
エマの叫び声が飛んできた。
錫杖を握ってこちらへ駆け出そうとするのが見え、俺は根元へ食い込んだ身体を起こしながら片手を上げる。
「......待て」
俺をここまで蹴り飛ばした女は、水際へ着地したままこちらを見ていた。
跳んだ拍子にヴェールが大きくずれ、その顔がはっきりと見える。
顔立ちは最後に見たときよりも、ずっと大人びて見えた。肩ほどだった髪は比べものにならないほど伸び、服装も、纏っている雰囲気も、俺の記憶とは何もかも違っている。
それでも、顔まで見れば間違えるはずがなかった。
「……セラス」
銀髪の女の顔がくしゃりと歪んだ。
「遅いのよ、この馬鹿!」
声まで聞けば、もう疑いようがない。
セラス・アーデルハイト。
四百年前、同じ焚き火を囲み、同じ戦場を駆けた仲間がそこにいた。
「遅いどころか、生きてただけでも──」
「うるさい!」
言い返すより先に、セラスがまたこちらへ来る。今度はさすがに飛んできた蹴りを腕で受け止めた。
「話を聞け!」
「四百年も待たせた奴が言う台詞!?」
「俺の感覚じゃ、あの時からほとんど時間なんて経ってないんだよ!」
「こっちは四百年経ってんのよ!」
「無茶を言うな! それを俺にどうしろってんだ!」
四百年前にも、こいつとは何度こんな言い合いをしたか分からない。
ただし、四百年待っただの、四百年経っただのという内容だけは初めてだった。
少し離れたところでは、エマが錫杖を握ったまま俺とセラスを交互に見ている。ついさっきまで水面の上で巨大な樹を見上げていた女が、突然走り出して俺を大木まで蹴り飛ばし、そのまま怒鳴り合いを始めたのだから、何が起きているのか理解しろという方が無理だろう。
「だいたい、あんたは昔から──」
そこまで言ったところで、セラスの声が途切れた。
さっきまで俺の顔を睨みつけていた視線が、ゆっくり胸元へ落ちていく。
黒い装甲。まだ完全には塞がっていない胸部の傷と、補修途中の左肩。
俺が知っている頃の身体とは、何一つ同じじゃない。
セラスの勢いが、そこで初めて止まった。近づいてきた手が、恐る恐る俺の胸へ触れる。
「……あんた、これ……」
「俺にもよく分からん」
装甲へ触れたままのセラスを見る。
「目が覚めたら、こうなってた」
「……そう」
返ってきた声は小さかった。
さっきまで俺を蹴り飛ばしていた女と同じとは思えないほど静かに、セラスは黒い装甲を見つめている。
俺にとっては、目を閉じてから再び開くまでの出来事だった。 だが、こいつにとっては違う。
俺がいなくなったあとも時間は流れ、その果てにこうして、昔とは似ても似つかない姿で戻ってきた。
そこまで考えて、何か言おうとしたが、上手い言葉が浮かばなかった。
やがてセラスが顔を上げる。
四百年前ならほとんど変わらなかった目線の高さが、今では明らかに違う。俺の顔を見るために、セラスはしっかり上を向いていた。
「……大きくなったわね」
「四百年寝てたからな。寝る子は育つって言うだろ」
「昔は私の方が高かったのに」
「二センチだけだろ」
セラスは一瞬だけ黙り、それから鼻で小さく笑った。
「そういう余計なところは変わってないわね」
「そっちもな」
長すぎる銀髪も、見慣れない服も、過ぎ去った四百年も消えたわけじゃない。
それでも、ようやく実感が追いついた。
目の前にいるのは、俺の知っているセラスだった。
◇
「あの……」
遠慮がちな声が聞こえ、俺とセラスは揃って振り返った。
エマが少し離れた場所に立っている。
「悪い、エマ。完全に置いていってた」
「いえ、それはいいんですけど……その……」
エマの視線が俺からセラスへ移り、そこで止まった。
「こちらの方が……?」
「そうだ。セラス・アーデルハイト。昔、一緒に旅をしてた仲間だ」
今度はセラスへエマを示す。
「こっちはエマ。一緒に旅してる治癒術士だ」
「エ、エマ・アーネットです」
エマは慌てて姿勢を正すと、しばらく迷ってから恐る恐る口を開いた。
「……神弓の、セラス様……ですか?」
その呼び方を聞いた途端、セラスの顔が露骨に嫌そうになる。
「その呼び方やめて。むず痒いわ」
「えっ」
「セラスでいいわよ」
「む、無理です!」
「なんでよ」
「なんでって……!」
エマからすれば、四百年前の英雄譚に名を残している本人が目の前にいる。
しかもその本人が、登場して早々俺を大木へ蹴り込んだ。
尊敬と混乱のどちらを優先すればいいのか分からなくなっているらしい。
セラスがさらに何か言おうとした時、木々の奥で枝葉が大きく揺れた。
一箇所ではない。左右から複数の足音が近づいてくる。
俺はそちらへ振り向くと同時に、半歩前へ出た。
「ルクスさん……」
「俺の後ろにいろ」
エマを背中側へ入れ、そのまま木々の間を見据える。
やがて姿を見せたのは、尖った耳を持つ者たちだった。何人かは弓を持ち、他にも武器を携えた者がいる。彼らの視線は見知らぬエマにも向けられたが、やはり一番警戒されているのは俺だった。
まあ、それはそうだろう。
森の奥に見知らぬ人間と、二メートル近い黒い鎧が突然現れたんだ。事情を知らなければ俺だって武器を構える。
いくつかの弓が持ち上がり、視線が俺とエマ、セラスを往復する。
俺はデア・トルネードへ手を伸ばさなかった。
敵意を示す理由はない。ただし、矢が飛んでくるならエマより先に受ける。それだけのつもりで、彼女の前から動かずにいた。
「武器を下ろしなさい」
張り上げているわけでもないのに、空間にセラスの声が響いた。
弓を構えていた者たちの動きが止まる。
すぐに全員が従ったわけではない。 セラスの言葉を聞いてなお、こちらを測るような視線は残っていた。
それを見たセラスは、呆れたように俺を指した。
「どこからどう見ても怪しいけど、私の古い仲間よ」
「紹介の仕方、他になかったのか?」
「ないわね」
迷いのない即答だった。それで納得されるのかと思ったが、周囲の警戒は少しだけ緩んだ。
両手を腰に当てながら、セラスは続けて俺の名を告げた。
「ルクス・ウェイン。四百年前、一緒に旅をしてた仲間よ」
「その時に、里にも訪れた事があるわ。こんな黒い不審鎧じゃなかったけどね」
今度は明らかに何人かが反応した。四百年前という言葉に驚いただけなのかまでは分からない。
セラスはそんな彼らを急かすでもなく、周囲の森へ目を向けた。
「それに、精霊たちは騒いでない。森は彼らを受け入れてる」
その一言は、俺が思っていた以上に大きかったらしい。
一人が弓を下げると、それに続いて他の者たちも構えを解いていく。完全に信用されたわけではないだろうが、少なくとも今すぐ俺たちを追い出すつもりはなくなったようだ。
俺もエマの前から少し身体をずらす。
「……もう大丈夫そうですか?」
「多分な」
「多分……」
「俺よりセラスに聞け」
「大丈夫よ」
セラスがそう言ってから、俺とエマを順番に見る。
「少なくとも、この森であんたたちを追い出そうとしてる者はいないわ」
そして俺へ向き直ると、先ほどまでの騒ぎが嘘みたいに、その目を少しだけ柔らかくした。
「話したいことと聞きたいことが、山ほどあるの。今日は寝れないと思いなさい」
「都合がいいことに、睡眠を必要としない体なんだ」
セラスが一瞬だけ黙った。
「……そういうところだけ便利になってるの、なんか腹立つわね」
「俺に言うな」
「でも、ここで立ち話してる場合じゃないわね。あんたはともかく、そっちの娘は疲れきってるじゃないの」
困ったように笑うセラスの視線が俺の横を抜け、エマへ向いた。
振り返れば、エマは自分の足で立っているものの、旅の疲れまでは隠せていない。
昨日は大水源で大きく魔力を使い、今日は朝から森の中を歩き続けている。一晩休んだからといって、すべて戻っているわけじゃない。
「……すみません。大丈夫です」
「大丈夫って言う顔じゃないわよ」
セラスはそう言うと、長い銀髪を揺らして身を翻した。
「来なさい。里まで案内するわ」
その背中を見て、俺はようやくここまで来た理由を改めて思い出した。
まだ生きているかもしれない。それでも可能性があるなら探してみようと、この森まで来た。
その相手が今、目の前を歩いている。
四百年という時間がどれほど長いものだったのか、俺にはまだ実感しきれない。
それでも一つだけは分かった。
あの日、逃がした仲間の一人が、ちゃんと生きてここにいた。
お読みいただきありがとうございました。
神々の森を抜け、四百年前の仲間の一人 ”神弓の姫巫女”セラスと再会しました。
次回、彼女から、かつての仲間達のその後が語られます。
またこのお話にお付き合いいただけたら嬉しいです。




