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第十四話 悪戯心は無邪気に遊ぶ

 大水源の水は、まだ濁ったままだった。


 岸辺へしゃがみ込んだエマが、錫杖の先で水面近くの苔をそっと確かめる。少し前までブル・トードの粘液が触れれば黒ずんでいたそこに、新しい変色は見られない。


「……これ以上、悪くなってはいないみたいです」


「なら、元は断てたか」


「はい。ただ……」


 エマは大水源を見渡し、困ったように眉を寄せた。


 ブル・トードの周囲に飛び散った毒液や肉片は、プロテクションで閉じ込めた上からアンチドートをかけた。だが、それ以前から水へ混じっていた濁りや粘液まで消えたわけじゃない。


「大水源全体に効果を行き渡らせるのは無理です。範囲が広すぎますし……わたしの魔力も、もうかなり限界で」


 言いながら、エマの身体がわずかに錫杖へ傾く。


 戦いの最中から何度もプロテクションを使い、最後にはあの巨体を丸ごと包む大きさを維持したままアンチドートまで使った。


 まだ立っているだけでも十分だ。


「でも、もう少しなら──」


「お前は十分過ぎるほどやった」


 エマが口を閉じる。


「これ以上はお前の領分じゃない。森自体の再生に任せろ」


「……森に?」


「原因は潰したし、新しく毒が流れ込んでる様子もない。此処から水が湧き出て、向こうから流れ出してる」


 大水源の端では、木々の間へ向かって水が細く流れ出している。


「時間はかかるだろうが、入れ替わっていく。ここまで生きてきた森だ。全部俺たちが手を入れなきゃ戻れないほど弱くもないだろ」


 エマは濁った水面を見つめ、それから小さく頷いた。


「……分かりました」


「それでいい。過分と領分を違えるな」


 これ以上ここで仲間を一人潰したところで、誰も得をしない。

 

 俺は大水源から視線を外し、自分の胸へ落とした。

 さっきから、妙に違和感がある。 痛みじゃない。そんなものは最初からない。


 町の防衛戦で大きく抉られ、その後も補修途中だった胸部装甲。その割れ目が、目に見えて狭くなっている。


 左肩も同じだった。

 剥がれていた装甲の隙間を埋めるように内側の繊維が蠢き、その上から硬い表層がゆっくり形を取り戻していく。


「ルクスさん。そこ……直るの、速くなってません?」


 エマも気づいたらしい。


「俺もそう見える」


 ブル・トードを倒したあと、大量の魔力がこの身体へ流れ込んだ。

 新しい能力に全部使われたわけではないらしい。余った魔力が、以前から続いていた補修へ回っているのだろう。


「魔力が増えたから修復も早まった、ってところか」


「……あの」


「ん?」


 エマが俺の胸を見上げたまま、何とも言えない顔をした。


「そもそも鎧って、魔力で直るものなんですか……?」


「俺に聞くな」


「ルクスさんの身体でしょう!?」


「俺も目が覚めたらこうなってたんだよ」


「そうでした……」


 エマが頭を抱えそうな顔になる。


「まあ、直るなら助かる」


「そういう問題なんでしょうか……」


 俺にも分からん。分からないものを考え続けても仕方がない。

 それより、今はもう一つ確かめるべきことがあった。


 籠手の指を開く。


 指と指の間に、薄い膜のようなものが張っていた。足には何もない。だが掌を濡れた岩へ押し当てると、吸いつくような感覚とともにぴたりと固定される。


「……それ、本当に泳げるんですか?」


「本人が一番知りたい」


「じゃあ、試すんですか?」


「ああ。ただし遊びじゃない」


 俺は濁った水面を見る。


「一匹しか出てこなかったからって、一匹しかいないとは限らない」


 エマの表情が引き攣り、固まった。


「……もう一匹、いるかもしれないってことですか?」


「成体がいなくても、繁殖してたら同じだ。卵でも幼体でも残ってれば、またここが汚される可能性がある」


「それは……確かに」


「だから中を見てくる」


 ちょうど、そのために使えそうな身体になった。

 デア・トルネードは岸へ置き、俺は大水源へ足を踏み入れた。


「何かあったらすぐ戻ってきてくださいよ!」


「そのつもりだ」


 腰まで入り、最後に一歩踏み出す。


 沈むほどに、水面が頭上へ遠ざかっていく。


     ◇


 一度目に水へ落ちた時は、ろくに身動きも取れないまま水底まで沈んだ。


 今度は違う。


 指を開いて腕を掻くと、薄い膜が水をしっかり捉えた。脚を動かせば身体が前へ押し出され、少し力を入れすぎただけで予想以上の距離を進む。


 慌てて近くの岩へ掌をついた。


 ぴたり、と止まった。


 ……なるほど。


 泳ぐだけじゃない。濡れた岩へ身体を固定できるのは、水底を調べるにはありがたい。

 足裏も同じだった。斜めになった岩棚へ立っても滑らない。

 

 俺は一度、岸の方を振り返った。濁った水越しにエマの姿はほとんど見えない。


 その時、頭の内側へ声が響いた。


 ≪対潜探索、開始≫


 視界の端へ淡い線が走る。これまで水中では役に立たなかった探索機能が、水底をなぞるように広がっていく。


 ≪対潜探索、敵性存在、反応無し≫


「……使えるようになるのはいいんだが、奴と戦ってる時にこそ欲しかったな」


 ブル・トードから吸収した魔力で鎧そのものが回復し、水中への戦闘適応まで済ませた。その結果、水中に潜む敵を探す機能も動くようになったらしい。


 もっとも、これだけで安心するわけにはいかない。

 敵性反応がないことと、卵まで存在しないことは別だ。


 俺はブル・トードが潜んでいた辺りを中心に、水底を調べていった。

 岩の隙間。 泥の深い窪み。 水草の密集した場所。


 巨体が何度も通ったらしい跡は残っているが、別の個体が潜んでいる気配はない。

 卵らしいものも、幼体も見つからなかった。


 しばらく進んだところで、水草が一方向へ傾いているのに気づく。

 腕の力を抜いてみると、身体がわずかに流された。


 水底にも確かな流れがあり、辿っていくと、その先は大水源の外へ向かっていた。


     ◇


 水面へ顔を出すと、すぐにエマが駆け寄ってきた。


「どうでした!?」


「潜んでる敵はいない。卵や幼体らしいものも、見た範囲じゃなかった」


 エマの肩から力が抜ける。


「よかった……」


「少なくとも、今ここに残ってる奴はいない。それで十分だ」


 俺は水から上がり、指の間の膜を見る。


「あと、本当に泳げた」


「そっちは今どうでもいいです」


「ちょっとくらい喜ばせてくれ」


「さっきまであんなのと戦ってたんですよ!」


 もっともだった。


 俺は大水源の端から流れ出す水を見る。


「それと、水底でも流れがあった。あちら側へ続いてる」


「川ですか」


「ああ。進むなら、あれを辿るのが一番分かりやすそうだ」


 森の中で道を探すより、水の行き先を追う方が迷いにくい。

 

 ただし、今日は遠くまで行くつもりはなかった。エマの魔力はもう限界に近い。

 荷物をまとめ、川沿いを少しだけ下ったところで、足場の乾いた高みを見つけた。


 その途中、エマが突然振り返る。


「……今、誰かいました?」


 俺も同じ方向へ目を向けたが、木々の間には誰もいない。

 風もないのに、奥の枝葉だけがわずかに揺れている。 鎧も警告を出さない。


「ここは神代から続く森だ」


「え?」


「人ならざる者の十や百いても、おかしくない」


「そんな平然と言わないでくださいよ……」


 エマがそわそわと周囲を落ち着きなく見回す。


 俺は周囲へ意識を向けるが、この鎧の身体自体も警告を発してこない。


「おそらく敵らしい敵はいない。味方かどうかはわからんが」


「それ、安心していいんですか?」


「少なくとも、こっちを殺す気なら、もっと分かりやすく来るだろ」


 言った直後、俺の左肩へ葉が一枚落ちた。

 払い落すと、今度は右肩へ落ちる。


「……」


「……」


 隣にいるエマと同時に動きを止め、顔を見合わせる。


「遊ばれてません?」


「そんな気はしてきた」


 姿は見えない。


 だが、確かに何かいる。


     ◇


 野営場所を決める頃には、森の中も随分と暗くなっていた。

 エマが拾った枯れ枝をまとめ、火打ち道具を取り出す。


「……少し待て」


「はい?」


 俺は荷物を探り、小瓶を一つ取り出した。

 町を出る時に買った、木の実や果実の砂糖漬けだ。


「それ、わたしの……」


「全部は使わないから、そんな目で見るなって」


「何するんです?」


「昔、セラスに教わった」


 少し離れた木の根元へ行き、傷のない大きな葉を一枚拾う。

 土の上へ広げ、その上に砂糖漬けの果実をいくつか並べた。


 姿の見えない誰かへ向かって、声をかける。


「ここで火を使わせてもらうぞ」


 返事はない。


 枝が揺れた様子もなかった。


 エマが俺の後ろから不思議そうに覗き込んでいる。


「……誰に言ってるんですか?」


「ここの住人に」


「いるんですか?」


「知らん。ただ、セラスが森で火を使うなら一言通せってうるさくてな」


「だからお供え物を?」


「手ぶらで頼むよりはいいだろ」


 それに、甘い物なら嫌われにくい。たぶん。


「これで火を使っていいんですか?」


「駄目なら何か言ってくるか、何か起こるだろ」


「その確認方法、怖くないですか……?」


 何も起きなかったので、エマはおそるおそる火を起こした。


 小さな炎が枯れ枝へ移る。


 森は静かなままだった。


 俺は火から少し離れた場所へ腰を下ろす。エマも外套に包まりながら、その近くに座った。


 しばらくして、外套に包まっていたエマが、不安そうな目でこちらを見上げてきた。


「……ルクスさん」


「なんだ」


 エマが、さっき果実を置いた葉をぷるぷると震えた指で差している。


「......減ってます」


 確かに、一つなくなっていた。転がり落ちた様子はない。

 葉の上には、代わりに小さな白い花が一輪置かれている。


「……だろうな」


「だろうな、じゃないですよ! わたし、こういうの苦手なんです!」


 森の奥で、風もないのに枝葉が小さく揺れた。


 俺は白い花を眺めてから、焚き火へ視線を戻した。


 どうやら、火を借りるくらいは、許してもらえたらしい。

 お読みいただきありがとうございました。

 大水源も汚染の原因を食い止めたルクスとエマは、神代から続く森のなかを進みます。

 そこに住まう者達は二人を受け入れたのか、それとも迷わせるのか。次回、お付き合いいただけたら嬉しいです。

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