第十三話 転ばぬ先の杖は転んでから手に入る
ブル・トードが喉を大きく膨らませた。
水中では濁りに隠れていた巨体が、今は夕暮れの下に全部さらされている。黒ずんだ緑の胴は牛より太く、腹は地面につきそうなほど垂れていた。その後ろで折り畳まれた二本の後肢だけが、胴に似合わないほど発達している。
「エマ、水際を見てろ。戻ろうとしたら教えてくれ」
「はい。ルクスさんは?」
「まず、殴ってみる」
「すごく分かりやすいですけど、アレに......?」
「俺だって、近寄りたくて近寄るわけじゃない!」
俺がデア・トルネードを構え直したところで、ブル・トードの後肢が伸びた。
水中ほど自在ではない。だが、一度の跳躍で距離を潰す速さは変わらなかった。真正面から飛んできた巨体を横へかわし、すれ違いざまに脇腹へ叩き込む。
手応えはあった。黒緑の皮膚が大きくへこみ、巨体が着地を乱して泥を削る。それでも倒れず、むしろ表皮を覆う粘液のせいで打撃が滑り、力を奥まで通しきれていない。
「効いてますか!?」
「嫌がってはいる!」
「それ、効いてない時の言い方じゃないですか!」
ブル・トードが身体を回し、短い前肢で地面を掻きながらこちらへ向き直る。口の端から太い舌が覗いた。
「エマ、ヌメり気のひどい舌が来るぞ!」
「見えてます! その言い方やめてください!」
錫杖が振られ、俺の右前へ斜めのプロテクションが走る。
真正面から受け止めるのではなく、伸びてきた舌の横腹だけを押した。軌道がわずかに逸れ、その隙に俺は懐へ踏み込む。
腹へもう一撃。
巨体が揺れたが、やはり皮膚と粘液に力を逃がされた。
「今のでも駄目ですか!」
「倒すには足りない!」
「じゃあ、あと何回殴るんです?」
「それを今考えてる!」
「今からですか!?」
前肢でぬかるんだ泥の上で身体を押し、少しずつ向きを変える 逃げる気か。
前傾姿勢で駆け出し、泥を巻き上げて水面と奴の間に滑り込む。
退路を塞がれた魔獣が低く喉を鳴らし、今度は逃げずにこちらへ跳ぶ。前肢を受けて横へ流し、着地した腹へ再度、デアトルネードの打撃を叩き込んだ。
さらに後肢の付け根を狙うが、ぬめった皮膚を滑って浅く弾かれる。
でかい。皮も厚い。そのうえ外側は粘液まみれだ。
ブル・トードがまた口を開いた。その奥に、粘液で濡れた暗い喉が見える。
外が面倒なら、中はどうだ。
俺は距離を取り、デア・トルネードの穂先を地面に突き刺した。
「えっ、なんで置くんですか!?」
「こいつは相性が悪すぎる。あの化物蛙に打撃は効かん」
「どうするんですか......? あの爪の剣ですか?」
答える代わりに、岩場へ視線を向けた。水際へ近づく前に置いた旅の荷物がある。
「エマ。発火のスクロールと炎属性の魔石、取ってくれ」
「ありますけど……何に使うんです? 先になにをするか教えてください!」
「いま閃いたことだ!」
「いま!? どうなるか教えてくださいよ!」
エマが慌てて荷物を探り、丸めたスクロールと赤い魔石を取り出した。
「投げろ!」
「落とさないでくださいよ!」
「それとプロテクションだ! あと一度いけるか?」
エマの表情から軽口が消えた。
「硬度と範囲によります」
「あいつ一匹、丸ごと包むくらい」
「……一度なら。何するつもりですか?」
「俺があいつの口に入っても止めるな」
「今の答え、取り消していいですか?」
「駄目だ」
「絶対嫌なんですけど!」
目端に涙を浮かべながらの即答だった。
「最後まで聞け。俺が入ったら、あいつから離れろ。何か起きたら化物蛙ごと囲え。水の方へ何も飛ばすな」
「何かって何ですか!」
「たぶん、見れば分かる」
「その説明で納得すると思ってます!?」
怒ってはいるが、泥濘に足をとられながらエマは下がった。
俺とブル・トード、それに大水源まで見渡せる位置に陣取っている。
それでいい。若干、距離を取りすぎな気もするが。
俺は発火のスクロールと炎属性の魔石を両手に持ったまま、ブル・トードの正面へ立った。武器も持たず、避ける姿勢も見せない。
だが、すぐに動き出さず、ご自慢の舌も飛んでこない。
「……来ませんけど」
「慎重な奴だな」
「感心してる場合ですか?」
距離を詰め始めると、濁った眼がこちらを追って大口を開いた。
撓る舌が打ち出され、胸へ巻きついた瞬間、両腕を締めてスクロールと魔石を守る。身体が浮き、泥の上を勢いよく引きずられた。
「ホントに飲み込まれちゃいますよ!?」
「これでいいんだ!」
反射的に錫杖を上げていたエマが動きを止める。
すぐ目の前まで巨大な口が迫った。人ひとりを呑み込めるなら、この身体でも入る。
舌に引かれるまま顎を越え、視界が暗闇に飲み込まれた。
全身へ生温い粘液がまとわりつき、柔らかな肉が装甲を締めつけてきた。人間だった頃なら呼吸を塞がれた時点で終わりだが、今の俺には肺も呼吸もない。
こういう時だけは便利な身体だ。
右手の炎属性の魔石へ、左手の発火スクロールを押し当てる。
「悪いな。食い合わせが悪かったと思ってくれ」
スクロールを発動させた瞬間、刻まれた術式が燃え上がるような赤光を放った。闇に沈んでいた体内が一瞬だけ鮮烈な朱に染まり、その中心で炎属性の魔石が耐えきれずに砕け散る。
次の瞬間、解き放たれた炎が爆ぜた。
周囲の肉が一気に膨張し、圧力が装甲を包み込んだ。外側でブル・トードの巨体そのものが激しく痙攣する。
破裂した胴から放り出され、俺は泥の上を転がった。胸や籠手は煤け、全身には緑色の体液と粘液がべったり付着している。
だが、大水源までは届いていない。
淡い光の壁がブル・トードを中心に半球状に立ち上がっていた。飛び散った肉片も毒液も粘液も、その内側へぶつかって滑り落ちていく。
障壁の外で、エマが錫杖を両手で握っていた。
「……本当に見れば分かるやつだった!」
「助かった! でかしたぞエマ!」
「でかしたぞ、じゃないです! そこから動かないでください!」
俺もブル・トードの残骸が散らばる障壁の内側だ。
「これ、開けたらまずいよな」
「だから解除できないんです」
エマは一度息を整え、錫杖を握り直した。
「アンチドートを使います。実戦で使うの、初めてですけど」
「お前への負担は、相当大きいんじゃないのか?」
「プロテクションとの同時使用は……でも、やります」
プロテクションを維持したまま、淡い治癒の光が内側へ広がっていく。
肉片や泥に混じっていた毒液から、少しずつ濁った色が抜け始めた。そこへ神々の森を満たす濃い魔力まで重なり、触れた草を黒くしていた腐食も徐々に止まっていく。
「エマ、どうだ?」
「まだです。もう少し……」
額に汗を浮かべながらも、エマは障壁を解かなかった。
しばらくして、内側に残った液が草へ触れても変色しなくなる。
「……毒性、落ちました。腐食も止まってます」
「じゃあ終わりか?」
「確認してからです」
「慎重だな」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
最後まで状態を見届けてから、エマがようやくプロテクションを解除した。
同時に彼女の身体が少し傾き、錫杖へ体重を預ける。
「大丈夫か?」
「大きいのを張ったままアンチドートまで使ったんですよ……誰かさんが爆発するから」
「悪かった」
「本当に思ってます?」
「半分くらい」
「残り半分も思ってください!」
直後、エマが鼻を押さえた。
「うっ……まだ臭い!」
「俺には分からん」
「今だけ本当に羨ましいです!」
今度は俺だけを狙ってアンチドートがかけられる。装甲についた毒性は消えたらしいが、ぬめりも悪臭も残ったままだ。
その時、頭の内側へ無機質な声が響いた。
≪特性解析、戦闘適応、完了≫
ブル・トードの残骸から淡い光が細い筋となって浮かび、俺の身体へ吸い込まれてくる。
「また何か始まりましたけど!?」
籠手が小さく軋んだ。指を開くと、その間に薄い膜が形成されている。
「……ヒレ?」
「みたいだな」
足を確認するが、そちらにヒレはない。
代わりに濡れた岩へ掌を置いてみると、吸いつくように固定された。足裏にも同じ感覚があり、粘液で濡れた斜面へ乗っても滑らない。
水中を自在に動き、濡れた場所へ張りついていたブル・トード。
討伐した魔獣の魔力を吸収し、そこに含まれていた性質を、この身体が俺向けに作り替えたらしい。
「これなら、水の中も泳げそうだな」
「……さっき出来れば楽だったんじゃないですか?」
「倒した後じゃないと覚えないらしい」
「遅いです!」
ごもっともな意見だ、俺だってそう思ってる。
俺は指の間に出来た膜を開いたり閉じたりしてから、大水源を見た。
足元では、ばらばらになったブル・トードの残骸の中に、大きな魔石が一つ残っている。
大水源を荒らしていた主は、もう動かない。
エマは疲れたように息を吐き、それから俺の全身を上から下まで眺めて顔をしかめた。
「とりあえず、そのカエルモードで水に入る前に」
「なんだ?」
「そのぬるぬる、どうにかしてください」
それについては、俺も賛成だった。
お読みいただきありがとうございました。 次回、大水源の問題を解決したルクスとエマは人を迷わせるといわれる神々の森に踏み込みます。ブックマーク・評価をいただけると励みになります。




