第十二話 大水源で抱きしめて
足元の水面が、不自然にせり上がった
逃げるより早く、濁った緑の水面を割ってブル・トードの頭が突き出してくる。
濁った眼。その下に開いた口は、人ひとりなら丸ごと呑み込めそうなほど広い。黒ずんだ緑の皮膚には粘つく液が膜のように張りつき、岸へ乗り上げた顎から糸を引いて垂れていた。
「何百年経とうが、こういう類が毒だの呪いだのを持ってないわけがないんだよな」
俺はデア・トルネードを横向きに構え、突撃槍状の前部を開いた口へ突き入れるようにして受ける。
金属環が一斉に鳴った。噛みつく力そのものより、下から突き上げられた勢いがまずい。
踏ん張った踵の下で土が崩れ、岸の縁が大きく抉れる。
「踏ん張りが効かない......! エマ、岩から動くな!」
エマの叫び声が聞こえるのとほぼ同時に、足場が消えた。土と石ごと水へ落ち、頭上から聞こえた声も、水をかぶった途端に遠ざかる。視界は一面の緑に変わり、数歩先すら輪郭しか見えなくなった。
身体はそのまま沈んでいった。両腕を動かしてみても上へ進む感覚はなく、むしろ武器を抱えた姿勢が崩れて身体だけが横を向く。泳ぎ方を知っているかどうか以前に、この身体は水に浮くようにはできていないらしい。
なら、無理に浮こうとする必要はない。こういう時に、呼吸の必要がない身体が便利だと感じる。
ほどなく両足が硬いものを踏み、沈んだ勢いで岩混じりの水底から泥が舞い上がった。
落ちた岸は背後のはずだ。振り返ると、水底がそちらへ向かって緩く高くなっている。水面から差す夕暮れの光も、わずかに近い。戻る方向は分かったが、問題はその間にいる奴だった。
≪対潜探索、異常検知。 索敵不可≫
どうにも不穏なワードの羅列が頭に流れ込んでくるのと同時に、濁りの奥を巨大な影が横切る。
水面から見えていた頭だけでも十分に大きかったのに、水中ではその後ろに続く太い胴まで見えた。黒緑の身体は見た目に反して水の抵抗をほとんど感じさせず、大きな後肢がひと蹴りするたびに俺の視界の端から端へ滑っていく。
四百年前に見たブル・トードも水辺を好んだが、ここまで水中で動ける奴ではなかった。
影が正面から消れ、代わりに横の水が大きく揺れた。デア・トルネードを身体の前へ引き寄せた直後、大きな後肢が濁りを裂いてぶつかってくる。
受け流そうにも踏み込みが利かない。
衝撃をまともに受けた俺は水底から引き剥がされ、背中から岩へ叩きつけられた。石の方が欠ける。装甲に新しい歪みは見当たらず、得物も離していないが、このままでは話にならない。
地上なら、相手が踏み込む瞬間にこちらも足を使える。ところが水の中では、身体を向け直すだけでも一拍遅れる。その一拍で、あの巨体は簡単に俺の横へ回れる。
試しに岸へ向かって水底を蹴った。
二歩目までは進めても、少し深くなるだけで水に押される。上へ跳んでも水面へ届く前に勢いが死んだ。
追えば逃げられ、逃げれば追いつかれる。
だったら、追わなければいい。
俺は岸へ背を向けない程度に身体を斜めに構え、デア・トルネードを抱え直した。
わざわざ水へ落とした獲物が動かなくなったからといって、見逃してくれるとは思えない。
濁りの向こうに二つの眼が浮かぶ。
すぐには来ない。巨体は距離を保ったまま半円を描き、俺の正面から横へ回った。さっきまで一方的に追えていた獲物が急に止まったのを警戒しているのかもしれない。
その時、頭上で淡い光が走った。
水面越しに歪んで見えても、あの色は分かる。エマのプロテクションだ。
続けて、細長い影が水面から斜めに戻ってくる。先ほど枯れ木を根ごと引き抜いた、ブル・トードの舌だ。俺を沈めたあとでエマを狙ったらしいが、光の壁に弾かれた舌は狙いを外し、そのまま濁りの奥へ引っ込んでいった。
一度見た攻撃に、ちゃんと対応したらしい。少なくとも、今すぐ助けに上がる必要はなさそうだ。
なら俺は、こいつをここから出すことだけ考えればいい。
視線を足元へ落とす。岩の混じった水底。その上でデア・トルネードの向きを確かめた。
水中で撃っても衝撃は水へ逃げる。離れた敵を狙う使い方では役に立たないが、撃つ相手を魔獣にしなければ話は別だ。
発射した時の反動は嫌というほど知っている。
俺の身体を押し返すだけの力があるなら、その向きを選べばいい。
ただし、俺だけ岸へ飛んでも意味がない。
あの化物蛙もエスコートする必要がある。
濁った眼が近づいてきた。
俺はわざと岸へ向かって動く。水を押し分ける鈍い動きだ。逃げようとしているように見えれば、それでいい。
巨体が進路を変え、大きな口がこちらへ向く。この距離から来る攻撃は、すでに二度見ていた。
直後、口から長い舌が射出される。
避けずに右肩を少し前へ出した。粘ついた舌が肩口へ当たり、胴に巻きつけられる。締めつけられた身体が水底から浮き、ブル・トードの口へ引かれ始めた。
腕まで完全に封じられる前に、左腕を巻きついた舌の内側へねじ込んだ。右手は保持部から離さない。
これなら狙いを変えられる。向こうは俺を捕まえたつもりだろうが、これでようやく互いが一本で繋がった。
ブル・トードが舌を縮めるたび、こちらの身体が泥の上を引きずられる。口が近づき、濁った眼がはっきり見えた。表皮から剥がれた粘液が水の中へ漂い、周囲の緑をさらに濁らせている。
俺は引かれる力に逆らわず、デア・トルネードの前部を水底へ向けた。ただし真下ではない。岸とは反対の深い側へ少し傾ける。
撃った反動が返ってくるのは、その逆──岸側の斜め上だ。
金属環が低く震え始める。
≪出力調整、射撃補正、完了≫
「そこまでやってくれるのはありがたいが、説明書も出してくれると尚良いんだけどな」
ブル・トードがさらに舌を縮め、大口が迫ったところで引き金を絞った。
水底へ叩き込まれた衝撃が、岩と泥をまとめて吹き上げた。視界が一瞬で茶色く潰れ、その中心で発射の反動が両腕から肩、胴へ抜ける。
いつものように足で受け止めず、その力を身体ごと逃がした。
俺は斜め上へ押し出され、胸に巻きついた舌が限界まで伸びる。ぴんと張ったそれが反動を返すと、ブル・トードの巨体が初めて大きく揺れた。
水を蹴って深みへ戻ろうとするが、俺はすでに岸側へ動き始めている。しかも、こいつ自身が舌を縮めていたせいで互いの距離が詰まっていた。
進路を崩された黒緑の巨体を引きずったまま、浅瀬へ向かって一気に浮上する。
明るさを増していた水面が目前まで迫り、そのまま突き破った
「ルクスさん、右側に来ます!」
空気へ出た直後に飛んできた声へ反応し、身体を左へ捻る。すぐ脇へブル・トードの前肢が落ち、湿った岸が大きくへこんだ。
「あの質量がぶつかる直撃となると、真面目に受けてはいられないか......!」
俺は肩から岸へ落ち、そのまま濡れた土を抉りながら転がった。胸にはまだ舌が巻きついている。
水面から出た頭に続き、ブル・トードの前半身までが岸へ乗り上げた。黒ずんだ緑の皮膚を覆う粘液が夕暮れの光を鈍く反し、泥の上へ太い筋を残している。
「まだ下半身は水の中です! 戻ろうとしてます!」
エマは最初に登った岩から少し奥へ移り、錫杖を両手で構えていた。水辺には近づいていない。それでも俺とブル・トード、それに水面までまとめて見渡せる位置へ、自分で移ったらしい。
ブル・トードが身体を捩る。
「来ます!」
エマの声よりわずかに遅れて、大きな前肢が振り回された。腕を上げて受けると、籠手が強く弾かれ、足が泥の上を滑った。
「その粘液にも気をつけてください! 地面が……あっ、苔が黒くなってます!」
指された先を見ると、巨体の腹から垂れた液が触れた苔だけ色を失っている。
「毒か?」
「分かりません。でも普通じゃないです!」
「触らないよう努力する」
「もう胸に巻かれてますけど!」
「だから努力だ!」
ブル・トードが大きく身体を沈めた。
後肢が水を蹴り、胸に巻きついた舌が一気に張る。岸へ上がりかけていた巨体が、じわじわと水側へ戻り始めた。
「エマ、こいつの後ろを見てろ! 脚が水から出たら教えてくれ!」
「はい!」
俺は左腕で舌を押さえ、右手でデア・トルネードを巻きつきの内側から引き抜く。脇の地面へ放り投げ、空いた両手で胸元の舌を掴み直した。
粘液で滑る。だが籠手越しなら構わない。
腰を落として引き返すと、ブル・トードの腹が泥の上を滑った。
「少し動きました!」
「どれくらいかを......教えてくれっ!」
「少しです!」
「少しにも種類があるんだよ!」
「聞いたのそっちじゃないですか!」
言い返す余裕があるなら、まだ大丈夫そうだ。
とはいえ、後肢はまだ水中にある。ひと蹴りされるたびに今度は俺の足が岸際へ寄せられ、濡れた土が足裏の下から削れていく。
「エマ、俺の後ろにプロテクションを展開できるか!」
「後ろって、どこですか! 後ろにも種類があるんですよっ!」
「踵だ! 低くていい、足が滑らなきゃそれでいい!」
「やってみます!」
錫杖の先に光が集まり、俺の後方で一度形を崩す。
「っ、もう一回……!」
身体がさらに半歩持っていかれたところで、踵のすぐ後ろに淡い光が立ち上がった。いつもの人ひとりを守る壁ではなく、膝より低い小さな障壁だ。
踏み込んだ足裏が光へ当たる。今度は止まった。
「上等だ! ここでいい! しばらく持たせろ!」
「無茶言わないでください! 微調整は難しいんです......!」
それでも障壁は消えなかった。足場があるなら、力のかけ方は変えられる。
籠手で舌をしっかり掴み、光の壁を背にして腰を落とす。ブル・トードも水へ戻ろうと前肢で泥を掻いた。
「右の後ろ脚が上がってきてます!」
エマの声に合わせるように、巨大な後肢の片方が水面を割った。
「もう片方は?」
「まだ半分以上は水中です!」
なら、もう一度だ。
全身で引く。黒緑の腹が地面を擦り、粘液を撒き散らしながら少しずつ岸へ上がってくる。背後のプロテクションに細い亀裂が走った。
「まだ持ちこたえさせてくれ......!」
ブル・トードが最後の後肢で水を蹴った。舌を通してその力がまともに伝わり、俺の身体が前へ傾く。
「今です! もう片方も出ます!」
踵を障壁へ押しつけ、腕だけでなく脚と腰まで使って一気に引いた。
ブル・トードの腹が岸の縁を越える。
水を掻いていた最後の後肢も宙へ持ち上がり、そのまま泥の上へ滑り出した。
「出ました!......でも、こっちも限界です......!」
ほぼ同時に、背後のプロテクションが砕け散る。
「エマ、下がれ!」
「もう下がってます!」
見ると、本当にさっきよりさらに距離を取っていた。
「判断が早くなったなぁ......!」
「水辺に近づくなって言ったの、ルクスさんですよ!」
「聞き分けがよくて助かる相棒だよ!」
ブル・トードが地面へ腹を打ちつけ、その衝撃に引かれるように俺も二歩よろめいた。
踏みとどまった足の下には、もう水底の岩ではなく、湿った土の感触がある。
敵もすぐに体勢を戻した。水中では濁り越しにしか見えなかった全身が、ようやく夕暮れの下へ晒される。
黒ずんだ緑の皮膚を粘液で濡らした太い胴。その後ろには、水中で俺を翻弄した大きな後肢が畳まれている。正面には、人ひとりを呑み込める大口。
「まだ水際を見ててくれ」
「また逃げるかもしれないから、ですね」
「そういうことだ」
俺は胸に残った舌を外し、地面に転がるデア・トルネードを拾い上げた。
沼地の様に淀んだ両眼がまっすぐ俺を見ている。
「散々、薄汚い舌で弄んでくれやがって」
水中では、あの巨体の速さに一度もまともについていけなかった。
だが、ここなら話は別だ。 足場のある地上なら、もう好きにはさせない。
「前戯の時間終わりだ、化物蛙」
お読みいただきありがとうございました。 次回、化物蛙退治と水源問題の解決になります。
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