第十一話 行きはよいよい、帰り道はどこへ
出発して三日目の朝、夜の名残を溶かすように、東の空がゆっくりと白み始めていた。
エマが焚き火跡へ土を被せると、焦げた薪の匂いだけが残った。
夜露を吸った土は重い。錫杖の先で崩し、炭の赤みが残っていないことを確かめると、今度は水袋を持ち上げて中身を振った。
「昨日より減りが早いですね」
「昼が暑かったからな。次の沢で足しておこう」
「ルクスさんは飲まないのに、よく分かりますね」
「飲まないから見てるんだよ。歩きながらだと自分がどれだけ飲んだか、覚えてないだろ」
返事の代わりに、水袋が俺の荷へ括りつけられた。結び目が昨日より固い。
まだ空が深い藍色に沈んでいた頃、エマは見張りを買って出た。俺が後ろにいると分かっていても、枝が落ちるたびに錫杖を握り直していたが、最後まで交代を口にしなかった。
「眠くないのか?」
「平気ですよ。それに神殿にいた頃は、このくらいの時間には起きてましたから」
そうは言っているが、口元を押さえて小さな欠伸を噛み殺した。何食わぬ顔で前を向いたが、目尻にはうっすら涙が滲んでいる。
「今まさに ”まだ眠いです” って顔していたぞ」
「朝の空気を深く吸っただけです」
どう見ても欠伸だったが、追及すると支度が遅れる。俺は古布にデア・トルネードを包み直して背負い、先に街道へ出た。
「昼前に一度、長めに休む。そこで寝ろ」
「相談ではなく決定なんですね」
「眠気と話し合う趣味はない」
後ろで何か小さなものが装甲へ当たった。振り返ると、エマは何事もなかった顔で荷紐を直している。足元に、まだ青い木の実が一つ落ちていた。
拾って投げ返すのはやめておいた。
◇
西へ向かうほど、道幅は次第に狭くなっていった。
昼頃には荷馬車の轍が消え、四日目には人の踏み跡も疎らになった。代わりに獣の足跡が増え、道の両側から枝が張り出してくる。
背負った突撃槍状の玩具が三度目の枝を折ったところで、脇へ抱え直した。
「それ、このままだと気づいた頃には傷だらけになってそうですね。 ナントカ......トルネード」
「デア・トルネード。だが確かに、咄嗟に呼びづらい気はするな」
「そうですよ。 名前付けてあげたらどうですか?」
「こいつは武器であって、愛玩動物じゃないんだが......。 それに証拠品も兼任してるんだ、いつまで持っているかわからないぞ」
「それでも、ですよ。それだけ大事に抱えてるんだから、愛着が湧くんじゃないですか」
「なら、エマが名前考えてやってくれ」
丘を越えると、街道はとうとう草の中へ消えた。その先には、幾重にも重なる木々に覆われた深い森が、地平を塞ぐように広がっていた。
「ちょっとだけ怖い気もするし、澄んでる気配も感じる森ですね」
「神代を知る森だからな。 寄せ付けない気配があるのは確かだ」
遠目には、ただ古い木々が集まっているだけに見える。だが近づくと、幹と幹の間にある暗がりが妙に深い。梢は風に揺れているのに、森の内側からは葉擦れの音が返ってこなかった。
俺は覚えているはずの景色を探した。
当時はセラスが先を歩いていた。彼女が立ち止まる場所で止まり、耳を澄ます方角を見ていれば、森の奥へ入れた。
今は俺が先頭だ。目印にできるものも、セラスの背中もない。
「獣道すらないですけど、ここから入れるんですか?」
「たぶん、な」
「たぶんで深い森に立ち入りたくないんですけど......神々の森はひとを迷わせる精霊もいるって聞いたことありますよ」
「かつて訪れた時も、地図を頼りに進んだわけではなかったからな」
エマは森と俺を交互に見たあと、外套の前を閉じた。
◇
森へ入ってから、日の位置が分からなくなるまでに時間はかからなかった。
枝葉が光を遮っているだけではない。右手から差していたはずの光が、幹を一本回り込むと正面へ移っている。緩い下り坂を歩いていたのに、気づけば足元の水は反対へ流れていた。
俺は立ち止まり、振り返った。
通ってきたはずの隙間がない。絡み合う枝と蔓が壁のように重なっている。
「エマ。俺の荷物でも手でもいい、握って離すなよ」
「急にどうしたんですか?」
「さっき話していた、ひとを迷わせる精霊の話だ。 あながち間違いではないかもしれん」
「はぐれるかもしれないっていう事ですか」
エマは遠慮がちに、俺の左手へ自分の手を添えた。握るには大きさが違いすぎるため、籠手の指を二本だけ掴んでいる。
森の奥では鳥が鳴いた。高い枝から聞こえたと思った直後、足元の落ち葉の下へ潜り込む。俺が音の方を見ても、動くものは見当たらない。
俺の指を握るエマの手が、無意識に強張る。
「......何か、話していてください」
「何かって?」
「怖くならない話です」
「竜人の住まう霊峰に、不死者の軍勢が攻め込んだ時に──」
「題材でもう駄目です」
「まだ怖いところまで言ってないぞ」
「やっぱり怖くなる話じゃないですか。別の話にしてください」
見上げてくる碧い瞳が、射貫くような鋭いものに変わる。
「じゃあ今夜の飯だ。そら豆と薊の実、馬鈴薯を茹でて──」
「昨日と同じです」
「先が読めて安心だろ?」
「豆を減らしてください」
栄養の偏りを要求する声には、もうさっきほど力が入っていなかった。俺は道の脇へ折れた白い枝を立てた。
二十歩進んで太い根を越えると、正面に白い枝が立っていた。俺が立てた向きまで同じだ。
「もしかして、戻ってきたんですか?」
「まっすぐ歩いたはずなんだがな」
エマは手を離さず、足元へ目を落とした。落ち葉を杖で払い、湿った土を確かめる。次に顔を上げ、森の右手へ向いた。
「向こうから水の匂いがします」
「水以外に、何か感じるか?」
「……はい。腐った草と、薬草を煮詰めて失敗した時みたいな臭いも」
俺には何も分からない。この身体では、臭いの有無さえエマに聞かなければ判断できない。
「どれくらい先かは読めるか」
「近くはありません。でも、風が止まると薄くなります」
俺は白い枝を倒し、エマが向いた方へ進んだ。
今度は二十歩を過ぎても、同じ場所へ戻らなかった。
◇
流れに辿り着いたのは、木々の合間に見える空が茜色へ変わり始めた頃だった。
幅は俺の歩幅より少し広い。浅い水が根の間を抜けているが、表面に濁った膜が張り、岸辺の石には半透明の粘りがまとわりついていた。
エマはしゃがむ前に外套の裾をまとめ、治療道具の中から小瓶を出した。
「汲むのは俺がやる。その水に触れるな」
瓶の口を水へ沈めると、膜が破れ、細い糸を引いた。エマはすぐに顔を背ける。
「目にしみます。これを飲むのは無理です」
「下流まで流れてるな」
周囲を見回す。水は森の奥から来ている。四百年前、セラスの里で使う水は、さらに上流の大水源から引かれていると聞いた。
この流れが同じものなら、問題は目の前の一筋では済まない。
「上流で何かしらの異常が起きている、ということでしょうか」
エマはそこまで言って、瓶に栓をした。布で二重に包み、荷の外側へ固定する。
「この水流は、神々の森の......エルフの方達が住む里に繋がっているんですよね」
「そう聞いている」
「なら、困るひと達がいるっていうことですね」
「そうだな」
先に歩き出したのはエマだった。
「待て」と口にしかける。だが、エマはもう返事を待たず、滑りやすい岸を避けて少し高い足場を選んでいる。
俺は彼女の前へ出ると、垂れ下がった枝を左右へ押し退けた。
流れを辿って奥へ進むうちに、森はそれまでとは違う様相を見せ始めた。
さっきまで行く手を塞いでいた根が途切れ、絡んでいた蔓の間に隙間ができる。誰かが道を切り開いた形跡はない。それでも流れに沿って進む限り、足を止める障害だけが消えていった。
「案内されてるみたいです」
「迷わせたり案内したり、随分と忙しいな」
「歓迎されていないなら、さっきの場所をずっと歩かされていた気がします」
口には出さなかったが、俺も同じ結論に至っていた。
臭いは上流へ行くほど強くなり、エマは口元を覆ったまま離さなくなった。
◇
森の切れ目から踏み出した途端、鈍く光る水面が視界を埋め尽くした。
恐らくは此処が大水源だ。
濁った緑に沈み、岸辺へ寄せる泡が粘液を引いている。流れ出す川にも同じ膜が続いていた。
「ここ全部から……」
微かに震える声は、布越しにわずかに籠もっていた。
≪生体反応、検知。敵性存在、不明≫
「エマ、下がれ。高いところへ」
岸から数歩離れた岩を示す。エマは理由を聞かずに上がり、錫杖を両手で持った。
俺は水面から視線を外さないまま、デア・トルネードを地面へ置いた。古布を解き、すぐ掴めるよう右後ろへ寄せる。水面に風はない。それなのに、中央近くの泡だけがゆっくりこちらへ移動していた。
水面の中央が膨らみ、巨大な水塊となってせり上がった。
「エマ! プロテクションだ!」
水面から飛び出した緑色の何かが、瞬く間に迫る。
俺はエマとの間へ踏み込み、左腕を上げた。同時に薄いプロテクションが斜めに開く。長い舌は障壁へぶつかって軌道を変え、俺の籠手を掠めて岸の枯れ木へ巻きついた。
水面が轟音とともに破裂した。
根こそぎ引き剥がされた枯れ木が水上を薙ぎ、回転しながら濁流の中へ沈んでいく。
その直後、割れた水面を押し広げるように、巨大な頭がせり上がった。
濁った眼。人一人をまとめて呑み込める口。黒ずんだ緑の表皮から、粘液が太い筋になって流れている。
「ブル・トード……」
四百年前にも戦った覚えがある。
だが、目の前のそれは、俺の知る大きさをはるかに超えていた。
魔獣は喉を膨らませると、低い音を水面へ響かせ、再び沈んだ。大きな影だけが、濁りの下を横へ滑っていく。
俺はデア・トルネードを掴んだが、向ける先がない。水の中へ撃ち込んでも、あの深さでは衝撃が散る。
「その岩から動くな。水辺にも近づくなよ」
「ルクスさんは、どうするんですか?」
「まずは、あいつを水中から引きずり出す」
右手の水面に、いくつもの泡が浮かんでは弾けた。
水底を走る巨大な影が進路を変え、岸沿いに俺の正面へ回り込んでくる。
デア・トルネードの保持部を握り直す。
「出番がくるなら、名前考えておけばよかったな」
直後、足元に迫った水面が内側から大きく押し上げられた。
お読みいただきありがとうございました。二人はエルフが住まう領域、神々の森の奥地に辿り着きました。次回、記憶にある姿とは違う、不気味な魔獣との戦闘に突入します。
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