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盲目の魔塔主

思考が追いつかず、頭の奥で音が遠のく。


「でも、わたし……何も覚えていなくて……」

「無理もございません。あの「儀式」のせいで、すべてをお忘れになったと伺っております」


儀式――呪い。


目覚めてから何度も耳にした言葉が、再び胸を締めつけた。


(もしかして、この婚約が儀式の背景にあるのかしら……?)


使者が辞去すると、リースは柔らかく頭を下げた。


だが、その笑顔はどこか張りついて見えた。


「リース、この婚約が武功の褒賞なのは分かったけど、私は王太子殿下をお慕いしていたの?」


問いに、リースは少しだけ目を伏せた。


「生まれる前から決まっていた縁組ではございます。けれどマイヤリリス様が殿下をどう想っていたか……それは、私には」

「……あの出来事以来、殿下は王都に籠もられたと聞きます」

「その出来事って?」

「……申し訳ありません、私の口からは」


また、壁だ。


答えの返ってこない質問をし続けることに、花鈴の苛立ちは募っていった。


 * * *


――なら、自分で確かめるしかない。


花鈴の内に、静かな決意が灯る。


(決行は明日! 街へ行こう)


侯爵邸で口を閉ざしても、街の噂まですべて封じることはできないはずだ。


たとえ断片でも、真実に近づけるなら――。


その希望が花鈴を押した。


早朝。薄明の空が、凍てついた丘を淡く照らしている頃に、花鈴はマントを羽織り、窓を開けた。冷気が肌を刺すが、心は妙に澄んでいる。


誰も、侯爵令嬢が夜明け前にひとりで屋敷を出るとは想定していない。


警備の目を避け、窓から静かに外へ降りた。


「バスも車もない……馬は怖いし」


こっそり忍び込んだ厩舎で見つけたスキーのような道具を手に取る。


見よう見まねで雪原へ滑り出すと、意外にも体が自然に馴染んだ。


冷たい風が頬を打ち、頬にかかる髪がさらりと舞う。


(私…生きてる)


風を受け身体を動かし、ようやくその実感が、胸に広がった。


ここは、山の中腹に立つ屋敷のようだった。


――とにかく下れば、どこかの街に着くはず。


花鈴はそう思い、とりあえず、道らしき場所を進む。けれど、深く積もった雪で道の全貌は分かりづらい。


太陽が昇りきる前に、いつの間にか森の中へと迷い込んでいた。


深い深い森。


木々が高く伸び、雪の枝が垂れ下がる。音が消え、世界が息を潜めている。


全くの人気の無さに不安が募った。


「……やばい。これ、遭難……?」


吐く息が白く散る中、ふと背筋が粟立った。


「――私の森に、誰だ?」


空気を裂くような声が、木々の奥から響いた。


森の影の向こうで、青白い光が揺らめく。


花鈴が身を引いた瞬間、雪を踏み分けて姿を現したのは一人の青年だった。


朝の光を受けて、茶金の髪が淡く輝く。


深い蒼の瞳は澄んでいるのに、どこか焦点を結ばず、宙を見つめていた。


(……この人、目が見えない……?)


白い外套が風に揺れ、雪の精霊のように見える。


「ここを魔塔の森と知っての狼藉か?」


青年の声は低く響いた。


「何者だ、こんな時間に」

「わ、私は……迷子になってしまって」


花鈴の緊張で掠れた声に、青年は小さく息をついた。


「……迷子、か。ならば来い。凍死されては後味が悪い」


そう言うと、花鈴の体がふわりと浮いた。

気づけば彼の腕の中に抱え上げられていた。


「ちょ、ちょっと!?」

「騒ぐな。足がすくんで歩けまい」


無防備に知らない迷子の花鈴に近寄り、抱き上げた青年に思わず注意していまう。


「でも、私が悪い人だったらどうするの? こんな風に近寄ったら危ないでしょ!」


青年は小さく笑った。


「この森の結界は、悪意のあるものを弾く。それに、お前からは……陽だまりの匂いしかしない」


 * * *


連れて行かれたのは、塔の奥深くにある部屋だった。


高い天井の下、棚という棚に奇妙な瓶が並ぶ。

ガラス越しに覗く液体の中で、植物の根や動物の臓器が静かに光っていた。


暖炉の火が、瓶の群れに橙の色を映す。


「……ここは?」

「魔塔。王立魔導院の研究施設だ。私はそこの顧問魔導士――アレクサンドル」


花鈴は息を呑んだ。


侯爵邸の侍女たちが噂していた、盲目の魔塔主。

あの屋敷で花鈴が知り得た、数少ない情報の一つだった。

何度も耳にしていたので、つい愛称が口に出てしまう。


「アレックス……」


その名を呼ぶと、彼はかすかに笑った。


「いきなりだな。そう呼んだのは、近年マイヤだけだ」


息が止まる。


「マイヤリリスを……知っているの?」

「侯爵令嬢を呼び捨てにするお前は何者だ?」

「わ、私は……マイヤリリス」


花鈴は屋敷で何度も流されていたので、本当の名を告げるのをためらい、ここに来てから呼ばれ続けた名を告げた。


「違うな」


しかし、青年はすぐさま否定する。その一言は鋭く、しかし不思議な温もりを帯びていた。


「どうして分かったの?」

「私は目が見えぬ。だが、人がまとう「色」が見える」


アレックスはゆるやかに言葉を紡いだ。


「お前の色は、彼女とは違う……美しい蒼い炎の色だ」


花鈴の心臓が跳ねた。


この世界で、初めて「自分」を認識してくれた人だった。


「……泣いているのか?」


指摘されて初めて、花鈴は頬を伝う温かい涙に気づいた。


「私、マイヤリリスじゃないの」

「知っている」

「私は、工藤花鈴。湖に落ちて、気づいたらここにいたの」


震える声で、知る限りのことを語る。


アレックスは黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。


「不思議な話だ……だが君を信じよう」


その一言で、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。


全身から力が抜けていく。


自分でも気づかないほど、ずっと緊張していたのが分かった。


「ねぇ、教えて。「呪い」と「儀式」って何?」


アレックスは、しばし黙したまま暖炉の炎を見えない目で凝視していた。


そして静かに口を開く。


「侯爵令嬢マイヤリリスは、この地ではあり得ぬ「黒」の髪と瞳を持っていた。その色を、人々は忌み、「呪いの黒」と呼んだ」


炎の光が、彼の蒼い瞳に揺らめく。


「――すべては、その誕生から始まったのだ」


花鈴は息を飲んで聞き入る。


胸の奥で、何かが静かに軋む音がした。


遠くで風が唸り、塔の窓を叩く。まるで、閉ざされた世界が次第に目を覚まそうとしているように。

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