王太子の婚約者
花鈴がこの世界・ノールヴァルド王国で目を覚ましてから、数日が過ぎた。
「マイヤリリス様が目を覚まされた」という知らせは、屋敷中に光のように広がっていたが、花鈴自身は、その中心にいながらも、どこか遠くの出来事を眺めているような心地だった。
花鈴は最初「自分はマイヤリリスではない」と訴えた。しかし、何度訴えても「解呪の儀」で記憶がまだ曖昧なのだと流されてしまった。
侍女のリースをはじめ、執事も医師も料理人も、すれ違う誰もが彼女を当然のように「マイヤリリス様」と呼ぶ。
まるで、以前と何ひとつ変わらぬ日々が戻ったかのように。
――だが花鈴にとって、それはすべてが異質だった。
窓の外に広がる白銀の雪原。
廊下に並ぶ氷の彫刻は、淡く光を透かして息をしているよう。空気までがきらきらと輝いていて、まるで「夢の続き」を歩いているようだった。
リースがトレイを持って入ってくる。
「まだ本調子ではありません。あまり無理をなさらず」
「……ありがとう」
花鈴は未だこの世界にいることが現実味を帯びず、よく眠れない日々が続いていた。
匙を取る手がわずかに震えたが、鼻先に届く香りは、知らない香辛料の匂いで、思いのほか食欲を刺激する。
琥珀色のスープは、見た目こそコンソメに似ているが、まったく別物だった。口に含むと、甘みと刺激がゆっくりと広がり、舌の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……美味しい」
思わず漏れた声に、花鈴自身が少し驚いた。
目の前のスープが温かく、美味しいと感じて、ほんの少し現実感を得る。
感覚が戻ると、幼い頃から祖母と共に台所に立ち料理に親しんできた彼女は、自然と尋ねていた。
「よかったら、このスープのレシピを教えてもらえるかしら?」
だが、返ってきた反応は予想外だった。
「淑女は下々のことに興味を持たないものですよ」
そしてリースは、あからさまに話題を変えた。
「侯爵様も、マイヤリリス様が「呪い」を克服なさったとたいそうお喜びです」
胸の奥に、小さな違和感が引っかかる。
「……その「呪い」って、何なの?」
花鈴が問いかけると、リースの表情が一瞬、影を帯びた。
「詳しくは、いずれ閣下からお話があるかと」
(……またそれ)
この数日間、何度も聞いてきた言葉だった。
皆が一様に、やさしく、しかし頑なに沈黙を守っている。
* * *
屋敷を歩くうちに、少しずつ見えてきたことがあった。
この世界の人々は、花鈴と同じような淡い金髪と青緑の瞳をしている。
花鈴の髪はもっと白銀に近かったけれど、全体的な印象は変わらなかった。
(この色が「普通」なんだ……)
この世界では、自分は異端ではないのだ。
それを知ったとき、胸の奥にほのかな安堵が生まれた。
しかし同時に、どうにも拭えない違和感もあった。
屋敷の者たちの目に映る自分は、まるで「奇跡」のように崇められているのだ。
「本来のお姿に戻られた」
「ついに呪いが解けた」
そう囁かれるたびに、胸の奥がざわつく。
――呪いとは、何だったの?
――そして「本来のマイヤリリス」はどんな人だったの?
屋敷内には、マイヤリリスの絵姿の一つもない。
答えは、まだ霧の中にあった。
* * *
翌朝。
「マイヤリリス様、王都より使者がお見えです」
執事の声に、花鈴は思わず姿勢を正した。
リースが慌ただしく部屋を整え、白い外套を肩に掛ける。
ほどなく現れたのは、氷の紋章を胸に刻んだ初老の男だった。
「ヴァルノイア侯爵令嬢、マイヤリリス様。このたびのご快復、誠におめでとうございます」
「……ありがとうございます」
形式的な挨拶の後、使者は王家の封蝋が押された手紙を差し出した。
青い蝋に刻まれた紋章は、炎と氷が交わる不思議な意匠だった。
リースが代読する。
「――愛しきマイヤリリスへ。
貴女の快癒を聞き、心から安堵しております。
体調の回復を待って、正式に婚約を発表する運びとなりました。
王都へ来られる準備を整えられたし。
ノールヴァルド王太子 ロディオン」
「……婚約?」
思わず声が裏返る。
彼氏もいたことがなかったのに、いきなり婚約と言われ困惑する。
「はい。マイヤリリス様は、王太子殿下のご婚約者であられます。西のサラマンカランとの戦いの折、武功を挙げられたお父上様――ヴァルノイア侯爵に、国王陛下は、第一王子ロディオン殿下と、その年にお生まれになる予定であったあなた様との婚約を約束されました」
使者は当然のように言った。
「しかし……まあ、諸事情により正式な発表は、これからではございますが、いずれこの国を支える王妃となられるお方……」
(――私がいずれ王妃に? 「諸事情」って何?)




