湖底での出会い
雪を蹴り、息を切らし、ただ前へ。
笑い声と足音が、執拗に追いかけてくる。
視界の先、森の向こうに湖が広がっていた。
花鈴は、土手と湖の境があやふやな雪の上を走った。湖を通れば集落はすぐそこだ。
(湖を渡れば……!)
氷の張った湖面に、足を踏み出す。
氷は、ところどころ薄く、足を取られそうになる。
(こんなところで落ちたら大変!)
焦る気持ちで、ブーケを握る手に力がこもる。
ピシッ。
嫌な音が、確かに聞こえた。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
後ろで、少女たちの制止の声が聞こえる。
花鈴は、必死に自分を奮い立たせた。
真っ直ぐ突っ切れば、もう少しで対岸に着く。
春になれば、東京。
もうすぐ、この息苦しい世界から抜け出せる。
そう思った瞬間――
バキィッ!
鋭い音と共に、氷が裂けた。
表面を覆っていた白い雪が、澄んだ青緑色の水に引き込まれるように落ちて行く。
身体が一瞬宙に浮き、次の瞬間、冷たい闇に引きずり込まれる。
「――っ!!!」
凍える水が肺に流れ込む。
息ができない。
上方には、ぼんやりとした光。
(やだ……! まだ……!)
心臓が激しく脈打ち、必死にもがく。
しかし、その苦しみさえも無情に遠退いていった。
薄れゆく意識の中で、不思議なものを見た気がした。それは、湖の底から湧き上がってくる、無数の青い塊。水の中に宝石のように煌めいていた。
(氷…? 綺麗…)
水面が、ゆっくりと遠ざかっていく。
握りしめていた小さな白い花のブーケが、青い塊と共に水の中で揺らめいていた。
――意識を手放す寸前、花鈴は見た。
湖底から湧き上がる光の道の向こうに、自分と同じ顔をした、黒髪黒眼の少女を。
それはまるで、本来あるべき自分のようで――
(……だれ?)
その瞬間、視界が反転する。
――まばゆい光。
胸の奥が、熱を帯びであつくなる。
冷たいはずの湖が、なぜか柔らかく包み込んだ。
意識が遠のく中、確かに聞こえた。
「……マイヤリリス様……どうか……目をお開けください……」
その声を最後に、すべてが白に溶けた。
* * *
かすかな香る花の匂い。
雪のように白いシーツ。
まぶたを開けると、光が揺れていた。
「……ここは……?」
天蓋付きのベッド。
見知らぬ豪奢な部屋。
壁紙から調度品まで、アイスブルーと白で統一されている。
窓の向こうには、氷の山と、どこまでも続く湖。
まるで、絵本の中の世界だった。
ふらりと立ち上がり、壁際の鏡を見る。
映っていたのは、淡い金の髪と、青を溶かした緑の瞳。
確かに――自分だ。
「……夢、なの?」
呟いたとき、扉の向こうで物音がした。
振り向くと、金髪の女性が駆け寄ってくる。
二十代半ばほどに見え、上品な侍女服を身にまとっていた。
「マイヤリリス様……! お気付きになられたのですね!」
その名に、花鈴は眉をひそめる。
「……マイヤ、リリス?」
侍女は、長年仕えてきた主の無事を喜ぶように微笑んだ。
「ご成功、おめでとうございます。体調はいかがですか?」
「……成功? 何のこと?」
侍女は一瞬きょとんとし、すぐに表情を和らげた。
「呪いに打ち勝たれたのです。湖で儀式に則り入水されてから、長く意識が戻りませんでしたが――これでようやく、本来のお姿に」
(……湖? 呪い?)
意味が分からない。
ただひとつ確かなのは、彼女が本気で自分を「マイヤリリス」と呼んでいることだった。
「あなた……誰?」
「リースと申します。マイヤリリス様の侍女にございます」
深く頭を下げる。
「ここはどこなの?」
「ノールヴァルド王国。ヴァルノイア侯爵家のご領地にある本邸です。貴女様は、侯爵閣下のご令嬢――マイヤリリス・ヴァルノイア様でいらっしゃいます」
その言葉に、世界が止まった。
――ノールヴァルド?
――侯爵令嬢?
夢ではない。
暖炉に焚べられた炎の暖かさも、足元の絨毯の感触も、指先に触れる髪の感触も、すべてが現実だ。
「……どういうこと……?」
逡巡の中、一つの記憶が蘇った。
湖の底で見た、黒髪のもう一人の自分。
その面影が、脳裏をよぎる。
(……あれは、夢じゃなかった)
胸の奥が、静かに軋んだ。
――ここは、日本ではない知らない世界。
――いったい、何が起こったのか。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




