花鈴の受難
私はこの世界の人間ではない。
けれど、この身体は確かに「私のもの」だった。
――魂が取り替えられた意味を、私はまだ知らない。
* * *
十二月の青森。
山あいに抱かれた小さな集落は、一晩で降り積もった雪に覆われ、まるで音という概念そのものを失ったかのように、深い静寂に沈んでいた。
日中のわずかな陽射しが雪を溶かしても、白い世界は変わらず、そこに在り続ける。
それは、包み込むようであり、同時に、閉じ込めるようでもあった。
遠くで、木の枝が雪の重みに耐えきれず、ぱきりと折れる。その微かな音さえ、白の中へ吸い込まれるように消えていく。
その雪原を、一人の少女が自転車で駆けていた。
雪道用のファットバイクの太いタイヤが、ぎゅっ、ぎゅっと鈍い音を立てるたび、冷たい空気が頬を刺し、肺の奥まで流れ込んでくる。
――工藤花鈴。十八歳。
淡い金髪がマフラーの端からこぼれ、瞳は新緑に淡い青を溶かした、不思議な色をしている。
この村では、生まれたときから、彼女は「浮いた存在」だった。
「……あと少し。あと少しで、この村を出られる」
吐いた言葉は白い息となり、すぐに消えた。
誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、それを口にしなければ、心が折れてしまいそうだった。
コートの内ポケットには、一通の封筒がある。
東京の学業支援財団から届いた、奨学金支援決定通知。
それは、花鈴にとって「救い」そのものだった。
春になれば、ようやく――この閉ざされた雪の檻から抜け出せる。
花鈴は、母方の祖父母に育てられた。
両親は、彼女が生まれた直後に離婚している。
理由は、村の誰もが知っていた。
――不義の子。
――外国の血が混じっているに違いない。
――人の子じゃない。
純日本人の両親から生まれたはずの娘が、金髪碧眼。説明できないものを、人は噂で埋める。
――妖精の取り替えっ子だ。
この時代にどれほど時代錯誤と思っても、古い価値観は簡単には更新されない。
両親は、共にこの地で育った幼馴染で大変仲が良い夫婦だった。しかし、待望の第一子に起こった異変を受け止め切れず、争いの末、去っていった。
そんな花鈴に、名を与え、守ってくれたのは、母方の祖父母だけだった。
二人は、惜しみない愛情を与え育ててくれた。
けれど去年、祖父が亡くなった。
山を熟知する祖父は集落に影響力があったが、その祖父が逝去すると、村の視線は急速に冷え込んでいった。
祖母は優しい。
けれど、この現実は一人で支えるには重すぎて苦しい。だからこそ、花鈴は考えた。まだ高校生の自分に出来ることは何か。
「祖父の助言に従って大学に行く。必ず自分で稼げるようになって絶対に祖母を呼び寄せて、都会で一緒に暮らすんだ」
それが、花鈴の出した答えだった。
――もう、二度とここには戻らない。
凍える風の中で、何度も自分に言い聞かせる。
前方に、凍りついた小さな湖が見えてきた。
雪に覆われた湖面は、空と地面の境界を曖昧にしている。
そのとき、坂の下に人影が現れた。
「……あんた、何してんの?」
声の主は、村長の娘——あやめ。
一つ年下の十七歳だ。
雪うさぎのような白い帽子の下から、黒髪が覗いている。
その周りには、町から来たらしい見慣れない少女たちが数人並んでいた。あやめは、いつも取り巻きを引き連れて行動する。しかし、今日の人数の多さは花鈴を不安にさせた。
「また学校の帰り? 学校トップの成績優秀者は偉いねぇ」
あやめの笑みは、最初から敵意に満ちていた。
花鈴は無意識に、ハンドルを握り直す。
――嫌な予感。
「何か用? 急いでるの」
なるべく冷静に言い返すと、あやめは唇を吊り上げた。
「用ならあるよ。あんた、哲司に近づいたでしょ?」
胸が、ひくりと跳ねる。
哲司は、同い年で、同じ集落の少年だ。
思慮深く、いつも雪かきや買い出しを手伝ってくれる、優しい友人。
先ほど、哲司が手伝っている花屋の前を通りかかったとき、店番をしていた彼とばったり会い、少し立ち話をした。
(……誰かが見ていたのね)
東京に行く話をすると、哲司は「お祝いに」と、商品にならないがまだ綺麗なロスフラワーで、小さなブーケを作ってくれた。白い可憐な花が嬉しくて、大事に手に持ちながら、ハンドルを握っていた。
「近づいたって……話しただけよ」
「話しただけ? 嘘つかないで。花束まで貰ってさ。人の彼氏に手を出すなんて、恥ずかしくないの?」
あやめは、わざとらしく息を吐く。
「……あぁ、そっか。あんたの母親と同じ「血」だもんね。アバズレ」
哲司本人に聞けば、彼氏などとんでもないと否定するだろう。
哲司があやめの彼氏であった事実は――ない。
けれど、それを正したところで意味はない。
哲司と仲が良い花鈴にいつもこうして絡んできては牽制するのだ――あやめは、決して受け入れない。
――どうして?
どうして、いつも私は悪者になるの?
背後の少女たちが、同調するように笑い声を上げる。冷たい雪の結晶が、ひとつ、頬に落ちた。
「もう話さない。これでいいでしょ」
そう言って去ろうとした瞬間、腕を掴まれた。
「逃げないでよ!」
振り払おうとした拍子に、頬に衝撃が走る。
乾いた音が、雪の静寂に響いた。
「――っ!」
頬が熱い。
けれど、それ以上に、心の奥が冷たく凍りついていく。
「やめて!」
花鈴は自転車を放り出し、脇の細い坂道へと駆け出した。背後で、あやめが叫ぶ。
「追って! 捕まえてやる!」




