迫り来る戦雲
「えっ? 王太子殿下が……出兵されたの?」
侍女の知らせを聞いた瞬間、花鈴は思わず立ち上がった。
ロディオン王太子の名を冠したお触れが出たのは、今朝方のこと。
大陸西の砂漠国家サラマンカランで反乱が起き、和平条約が一夜にして無効となった。
資源を求め東へ進軍するサラマンカラン軍は、ノールヴァルドの港町ハンプルトンへ迫りつつあるという。
「じゃあ……婚約式は、先延ばしになるのね」
胸を撫で下ろしたと同時に、心の底から安堵が湧いた。
侯爵令嬢マイヤリリスとして生活することになってしまったが、王太子との結婚など想像したくもない。
だが――これからどうして行くか、分からないまま、戦の噂だけが現実を圧迫してくる。
花鈴は心の置き場を失っていた。
そこへ、アレックスが駆け足で現れた。
表情はいつもの落ち着きを欠き、深刻な影を帯びている。
「花鈴、話がある」
両肩を掴まれた瞬間、胸の奥で嫌な予感が弾ける。
「私も……ハンプルトンへ向かわねばならない」
心臓が止まるほど、花鈴は凍りついた。
「え……危ないじゃない」
「私は魔塔主だ。魔塔は国家に属する以上、戦時には協力する義務がある。国と人々の安定を確認する責務を果たさなければ」
「そんな……」
頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
(アレックスが……いなくなる? 離れる? どうしてそんな……そんなの嫌……!)
「私のことは心配ない」
アレックスは握った肩に力を込め、まっすぐ花鈴に顔を向けた。
「だが君が心配だ。私がいない間は、無理をしないと約束してくれ」
「いや……いやよ。私を置いて行かないで……!」
抑えようのない声が漏れ、花鈴の体が震えた。アレックスはため息のような微笑を浮かべ、花鈴をそっと抱き寄せる。
「大丈夫だ。必ず戻る」
そう言って、彼は小さな箱を取り出した。蓋を開けると、緑の宝石が穏やかな光を放つネックレスが姿を現す。
「これには私の魔力を込めてある。君の力の暴走を抑え、守ってくれるはずだ」
花鈴は涙を拭うことも忘れ、アレックスを見上げた。
「……私も渡したいものがあるの」
祭りの日に見つけた蒼いビーズを編み込んだブレスレット。自分の手で作った、小さな守り。
「あなたを……守ってくれますように」
そっとアレックスの手首につけた瞬間、彼が目を細め、花鈴を抱きしめる腕の力が強くなる。額に落ちた優しい口づけが、胸の奥に深く沈んだ。
「ありがとう。……必ず戻る。君の元へ」
魔法陣の光がアレックスの姿を包み込み、やがて空気の中へ溶けるように消えていく。
残された静寂は、花鈴にとって世界のすべてが遠ざかったように思えた。
花鈴は胸元のネックレスに触れると、温かい魔力が脈打つように伝わる。
まるでアレックスがまだ隣にいるかのように。
(……大丈夫。きっと……必ず……)
そう言い聞かせても、不安は消えてはくれなかった。




