誤算
その音に反応したように、マイヤの肩がぴくりと震えた。
薄れた意識の中で、マイヤが顔を上げた。
靄を振り切るように頭を振る。
次第にはっきりとしてくる視界の中の哲司を捉えた。
「哲司……! 血が……!」
血まみれの哲司を見た瞬間、瞳に鋭い光が宿る。
「起きちまったか。まぁいい。抵抗した方が燃えるってもんだ」
崇が薄ら笑いを浮かべた、その時だった。
「うっ……!」
崇が苦悶の声を上げ、膝をついた。
マイヤの両脚が首に絡み、ねじり上げていた。
「この女、なんだ⁉︎」
隣の男が殴りかかる。
しかし、マイヤはいつの間にか縄をほどき、崇からベルトを奪い取っていた。
「へっ、やる気かよ」
男が笑う間もなく、マイヤの手がしなやかに動く。
ベルトの先が閃き、男の顔面に走った。
「ぐっ!」
目に命中し、男が崩れ落ちる。
次の瞬間、鞭のように繰り出される一撃が、次々と別の男たちを倒していった。
額、顎、頸動脈、心臓、腎臓――攻撃は正確で、容赦がない。
その身のこなしは、まるで訓練された暗殺者のようだった。
数分後、部屋には呻き声と荒い呼吸だけが残った。
「やめろ、マイヤ……! もう十分だ!」
哲司の声が響く。
だがマイヤは止まらない。崇の胸ぐらを掴み、手刀を振りかざした。
「マイヤ!!」
縛りをこじ開けた哲司が駆け寄り、背後から抱きとめた。
「もういい。もう、大丈夫だ……!」
マイヤの体が震え、動きが止まる。
ゆっくりと振り向いた瞳には、涙がにじんでいた。
「哲司……」
「大丈夫。もう終わった」
哲司は彼女を強く抱きしめた。
マイヤは小さく頷き、腕の中に身を委ねた。
――互いを守るように、手を離さずに。
* * *
病院を出たとき、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
もうすぐ哲司の父親が迎えに来てくれる予定だった。警察で事情を話し終え、迎えの車を待ちながら、二人は黙って手を握っていた。
静寂の中で、マイヤが小さく口を開いた。
「私ね……ずっと命を狙われていたの。黒髪の私を気に入らない婚約者の…皇太子ロディオンから」
哲司は黙って耳を傾けた。
「護衛隊長のグレッグが、私に体術を教えてくれた。魔力を持たない私が生き残るために……」
夜風に髪が揺れ、マイヤの横顔が街灯に照らされた。その表情には、強さと脆さが混じっている。
「もし哲司が止めてくれなかったら、私……あの人たちを殺してた」
「でも、止まった」
哲司の声は穏やかだった。
「うん。あなたの声が届いたの。哲司の声だけが、私を現実に戻してくれたの」
マイヤの頬を、涙が静かに流れる。
「私が……怖くないの?」
「怖くないよ」
その答えに、マイヤの唇が震えた。
胸の奥にあった氷が、ゆっくりと溶けていくようだった。
「ありがとう、哲司……」
二人はまた手をつないだ。
遠くで、誰かの車のライトが近づいてくる。
その光の中で、マイヤの涙が、まるで雪解けのようにきらめいた。




