燻る火種
マイヤが、指差す方を見て哲司は頷いた。
「そうなんだよ。この湖は、小さいし地元の人しか知らない、何の変哲もないところなんだけど、中心部だけ、津軽びいどろみたいに青緑で透明度が高いんだ。その辺りは、すごく深いらしい」
「私が落ちた湖の色と似てる……」
「そうなのか。でも、よほど氷が厚く張らないと、中心に行くのは危険過ぎるぞ」
哲司は、マイヤが湖に入らないか心配そうに見つめた。
「大丈夫よ。勝手に入ったりしないから」
マイヤは、哲司の心配を察して言った。
「まずは、危なくない方法で探ろう」
哲司が約束の握手を求めると、マイヤはくすぐったい気持ちになりながらも、笑顔で応じた。
「そうね」
二人は、笑顔で握手を交わした。
「それにしても、自転車上手になったな。これならすぐ街まで行けるかも」
「街に何かあるの?」
「郷土資料館だよ。この辺りの昔話とか、伝承とかが記録されてる。調べれば、何か手がかりがあるかもしれない」
「今すぐ行こう!」
マイヤは目を輝かせ、雪が溶けてぬかるんだ道を見つめた。
「すまん。俺、今日は街で親戚の仕事を手伝う予定なんだ」
「じゃあ、乗り方を教えてくれたお礼に街まで送ってあげる。……これ、二人で乗れるの?」
哲司は吹き出した。
「義理堅いな。よし、二人乗りの練習だ!」
彼が前、マイヤが後ろ。
交代しながら街への道を進む二人の姿は、冬景色の中に小さな春の気配を灯していた。
だが、その穏やかな光景を、遠くから冷たい瞳が見つめていた。
――あやめの、憎々しげな視線が、まっすぐマイヤに向けられていた。
* * *
ガシャーン!
路地裏の暗がりに、ガラス瓶の砕ける音が響く。
古びたスナック街の裏手、地元の不良たちが屯する場所。娯楽の少ないこの街では、昼間から誰かしら集っていた。
その中で、あやめは荒れた呼吸を繰り返していた。頬は紅潮し、目は血走っている。
「荒れてんなぁ、あやめ」
金髪の少年――崇が、壁にもたれて笑った。崇は、高校生くらいの年齢に見えるが、ほとんどの時間をこの界隈で費やしてた。
生え際の黒がのぞく金髪をかき上げながら、挑発するような目であやめを見下ろす。
「あんたには関係ないでしょ」
「まぁな。でも気になるんだよ。噂の……妖精の取り替えっ子だっけ? 哲司の隣にいたろ」
あやめは無言で瓶を掴み、再び壁に叩きつけた。
ガシャーン!
破片が飛び散る音が、彼女の焦燥を代弁していた。
哲司は、穏やかで優しい。
村の行事ではいつも中心にいて、誰にでも親切だった。郷土の伝統も語れるし、狩猟にも精通している。
そんな彼が、自分にとって最もふさわしい相手であることに疑いはなかった。
彼の父はこの村一番の猟師であり、有力者。村長の娘である自分と哲司が結ばれれば、すべてがうまくいく。
それは、あやめの中でずっと「当然の未来」だった。
けれど、金髪の少女――花鈴の存在がすべてが狂わす。
異国めいた容姿。黒髪になっても、哲司の視界に入り続ける邪魔な女。
憎い。
考えれば考えるほど、その感情は膨れ上がる。そしてそれは、正当な権利という名の幻に変わっていった。
(排除しなければ……あの女を)
その呟きを拾うように、崇が笑った。
「排除してやろうか? 邪魔な女を」
あやめは一瞬息を呑む。その声音は甘く、そして冷たい。
「……できるの?」
「できるさ。俺には「手」がある」
あやめの胸の奥に、黒い熱が灯る。迷いよりも、欲望が勝った。
「いくら必要?」
「そう来なくっちゃ」
崇はにやりと口角を上げた。その笑みは、まるで夜の闇そのもののようだった。
* * *
その頃、マイヤは哲司を街の花屋まで送り届けたあと、一人で雪の道を戻っていた。
静まり返った森の中、風が枝を鳴らす。
(この世界は、私に優しいのかもしれない。……同じ雪の国でも、あの場所とは違う)
哲司と過ごした時間が、心の奥に温かく残っている。不安や孤独を覆い尽くすほどのぬくもりがあった。
たとえこの先、どんな困難が待っていようとも、彼が隣にいる限り、前へ進める――そう感じられた。
マイヤは自転車のペダルを踏み込み、風を切る。頬に当たる冷気が、まるで祝福のように優しかった。
穏やかに風が吹く中を進むマイヤの胸には、確かに小さな灯火がともっていた。
――けれど、その明かりの下では、すでに見えぬ火種がくすぶり始めていた。
まだ誰も、その炎の行方を知らない。




