初めての「約束」
「……あのとき、犬の散歩してたの。そしたら花鈴ちゃんが、あやめちゃんたちに囲まれてた。「彼氏に手を出すな」って怒鳴られて、叩かれて……。逃げようとして、湖の上に走って……。でも氷が割れて、落ちちゃったの。光がね、すごかった。眩しくて、何も見えなくなったの。で、光が消えたら――黒い髪の花鈴ちゃんが氷の上に倒れてたの。
それで救急車の人が来て、運ばれていったの」
哲司は黙って聞いていた。
信じがたい話だった。だが、葉月が嘘をつく理由などない。
つまり、「花鈴」が落ちて、「黒髪の花鈴」が現れた――。
その眩い光とは、何だったのか。
そして今、「花鈴」と呼ばれているのは誰なのか。
(……そいつは、本当の花鈴じゃないのかもしれない)
胸の奥に生まれた確信が、冷たい息とともに漏れた。
* * *
部屋の空気が静かに沈む。
祖母の気配が近くにない事を確認し、哲司は再びマイヤの向かいに腰を下ろした。
「花鈴が無事か知ってるか?」
マイヤは首を横に振る。
「ばっちゃんを……騙してるのか?」
マイヤは視線を落とした。
「おばあちゃんは私を花鈴だと信じてくれている。……だから、悲しませたくないの」
その言葉には、どんな嘘も含まれていなかった。
哲司は大きく息を吐いた。
「なるほどな。……あんたは、自分を守るための嘘をついてない」
そして、少し口元を緩めた。
「よし、分かった。じゃあ、作戦会議だ」
「さくせん……?」
「そう。これからどうするか、俺たちで考えるんだよ。どうなってるのか……真実を見つけるためにもな」
その言葉に、マイヤは目を瞬かせた。
「俺たち」という言い方が、胸の奥で小さく響いた。初めて、マイヤの横に立って同じ方向を目指してくれる存在ができたような気がした。
「協力してくれるの?」
「当たり前だろ。……あんたも俺も何が起こったかを知りたい」
哲司は花鈴の写真に目を向けた。
「……花鈴は、ばっちゃんを大事にしてた。あんたもだ。なら俺は……あんたの味方だ」
その一言に、マイヤの胸が熱くなる。
どこかで聞いたことのある言葉。
ずっと欲しかったけれど、誰にももらえなかった言葉。
窓の外では、風が雪を巻き上げていた。
薪ストーブの火が小さく揺れ、二人の影を壁に映す。
「俺が動く。あやめのことも調べる。妹にも、あの光をもう一度思い出せるか聞いてみる。……あんたは、「花鈴」として生きながら、思い出せることを探せ」
マイヤは静かに頷いた。
「分かった。……ありがとう、哲司」
「礼なんていらない。困ってるときは助け合うもんだろ」
どこまでも真っ直ぐな声。
マイヤは思わず微笑んだ。
(この世界にも、強くて優しい人がいるのね。)
* * *
その夜、外の雪はしんしんと降り続けていた。
囲炉裏の火がぱちぱちと弾け、祖母の部屋からは穏やかな寝息が聞こえる。
マイヤは窓辺に立ち、月を仰いだ。
雲間に浮かぶ銀の光が、遠い異世界の夜空を思い出させた。青や緑の美しい光が揺れるノールヴァルドの夜空を思い返すと、一つの不安が顔を出す。
(アレックス……あなたは今どうしてる?)
解呪の儀式に反対したアレックスが、困ったことに巻き込まれていないことを願う。
解呪の儀式を生き延びるとマイヤは予測していなかった。だけど、今、確かにマイヤは生きてここにいる。
(不思議……)
静かな夜風が髪を揺らす。
もう一度、湖へ行かなければ――
あの日、あの光が現れた場所へ。
その胸の奥で、小さく決意の灯がともる。
マイヤはそっと振り返った。
テーブルの上には、哲司が置いていったノートがある。哲司が文字を教えてくれたのだ。すると、最初全く分からなかったのが嘘のようにマイヤに馴染み、あっと言う間に読み書き出来るようになった。
この世界がマイヤを受け入れてくれるかのように。
ページの隅に、走り書きの文字。
> 「味方 仲間 大丈夫」
マイヤは指でその文字をなぞり、小さく笑った。
(嬉しい……)
この世界で初めての「約束」が、心の奥に刻まれた。
雪が降り続く青森の夜。
外の世界は凍てついているのに、胸の中だけは不思議とあたたかかった。




