哲司の視点
一面の雪が、静かに音を吸い込んでいた。曇り硝子の向こうで、白い吐息がふわりと消える。
その日の午前、玄関の引き戸がコトリと鳴いた。
「ばっちゃん、花鈴の調子どう?」
低く少し掠れた少年の声。縁側に座っていた祖母が、顔を上げて笑った。
「あら、てっちゃん。来てくれたのかい。まだ本調子じゃないみたいだけど、体調はだいぶいいみたいだよ」
「そっか。よかった」
短く答える声に、真っすぐな優しさがあった。
マイヤは部屋の奥からその声を聞き取り、思わず顔を出した。
玄関に立つ少年が、息を呑んだ。
「花鈴……なのか?」
「……あなたは、誰?」
驚きと戸惑いが交錯する沈黙。
少年はしばらく言葉を探し、それからぽつりと呟いた。
「……本当に、記憶をなくしてるんだな」
彼の名は三浦哲司。この集落でただ一人、花鈴と同じ学校に通う同級生だ。
父親が猟師で、花鈴の祖父と懇意にしていた。
この集落で数少ない、花鈴一家に好意的な家の子で、彼自身も物事を総合的に捉える心を持っていた。
二人は花鈴の部屋に移動した。
哲司は学校の先生から預かったという書類やプリントの束を差し出した。花鈴が予約していたという本も図書館から借りて来てくれた。
「これ、先生から。来週までに目を通して、ここにサインして。俺がまとめて届けるから」
「……ありがとう」
マイヤは受け取ったが、視線が紙面の途中で止まる。
見慣れない線と丸で綴られた文字。魔法陣でも古代文字でもない。まったく意味が分からなかった。
「どうしたの?」
哲司の問いに、マイヤはわずかに息を呑んだ。
言葉が出ない。誤魔化そうとしたが、その沈黙はすでに答えになっていた。
「……やっぱり、違うんだな。あんた、花鈴じゃない」
声が静かに落ちた。
鋭いが、責める色はない。彼は確信を持ちながらも、ただ真実を知りたがっていた。
「みんな噂してる。花鈴が湖に落ちてから、髪と目が黒くなったって。……妖精の取り替えっこだって」
マイヤの背筋がぴんと伸びる。
「妖精」という言葉が、この世界にも存在する――。
だが哲司の口調は、信仰や畏れではなく、ただの迷信を語るような軽さだった。
「俺は噂なんてどうでもいい。……本当は、何があったんだ?」
マイヤは黙って彼の瞳を見つめ返した。
深く澄んだ黒い瞳。そこに偽りはない。
この人は、花鈴を重ねるのではなく「私」に語りかけてると感じた。
「私にも分からないの。気づいたら……ここにいた。
でも、ひとつだけ確かなのは――私は花鈴じゃない」
静かな声。
その真摯さに、哲司はごくりと喉を鳴らした。
* * *
――花鈴が湖に落ちた日のこと。
哲司は、街の花屋で手伝いをしていた。男手のない親戚の家を手伝う代わりに、少しの小遣いをもらう。
通りかかった花鈴から、東京行きが決まった知らせを聞いて、お祝いに白い花のブーケをプレゼントしたが、それ以外はいつもと変わらぬ一日だった。
帰り道、遠くで救急車のサイレンが鳴った。
音は雪に遮られ、どこか遠い世界のことのように聞こえた。
まさか、それが花鈴に関わることだとは思いもしなかった。
家に戻ると、母が蒼白な顔で言った。
「花鈴ちゃんが……湖に落ちたんだって!」
哲司の胸が強く跳ねた。
だがその直後、信じがたいことを聞かされた。その「現場」を目撃していたのが、六歳下の妹――葉月だったというのだ。
「……湖で、何があったんだ?」
その夜、哲司は布団の中の妹にそっと尋ねた。
葉月は小さな手で毛布を握りしめ、震える声で話し始めた。




