花鈴の面影
戸口に立っていたのは、村長とその娘・あやめだった。厚手のコートを着込み、鼻の頭を赤くしている。
「こりゃ驚いた。話は本当だったんだな」
村長はマイヤをまじまじと見つめ、目を細めた。
「顔は確かに花鈴ちゃんだ。だが、湖に落ちたら髪と眼が黒くなるなんて……まるでお伽話だ」
あやめが腕を組んで反論する。
「パパ、そんなのあり得ないわ。遺伝子的にも変わるわけないじゃない」
「じゃあ何だ、妖精が取り替えたってのか?」
「知らないよ、そんなの!」
その軽いやり取りを見つめながら、マイヤは静かに二人の「匂い」を感じ取っていた。
偽り、打算、恐れ。人間が放つそれらの複雑な匂いは、どこの世界でも同じだ。
祖母が口を開く。
「村長さん、わざわざありがとうございます。でも花鈴もまだ本調子じゃありませんし……」
柔らかく帰りを促したが、村長は頑として動かない。
「その前に言っとかんとな。花鈴ちゃんが凍った湖に落ちたのを見たのはうちのあやめだ。助けを呼んだから、こうして無事に戻れたんだぞ。感謝を忘れないようにな」
「そうよ!」
あやめが続ける。
「私が救急車を呼んだのよ!」
マイヤは穏やかに微笑んだ。
静かに発せられる威厳に押されて、あやめは先程までの勢いを失った。
「そうでしたか。ありがとうございます。……私が湖に落ちたのは、学校の帰りだったそうですね?」
「え、ええ、そうよ」
「その時、あやめさんは何をしていたのですか?」
「な、何って……別に」
「お一人で? それともお友達と?」
「あ、友達とよ。それが何?」
「でしたら、その方々にもお礼を言いたいです。お名前を教えていただけますか?」
その瞬間、あやめの顔が引きつった。
「……あんた、記憶喪失なんて嘘なんじゃ…?」
空気が凍りつく。
村長が立ち上がり、咳払いをして場を収めようとした。
「さて、長居はよくないな。婆さん、また様子を見にくる。行くぞ、あやめ」
父娘は逃げるように家を出ていった。
* * *
その背中を見送りながら、マイヤは低く呟く。
「おばあちゃん、あの人たち……信用できる人?」
祖母は、間髪を入れずに答えた。
「全く、できないね」
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てる。橙の光がマイヤの頬を照らし、影がゆらりと揺れた。
(この世界にも「裏」はあるのね……)
どちらかと言うと、マイヤには、人の裏に馴染みがあった。ノールヴァルドでは、常に、笑顔の裏に潜む嘲笑に晒されていたから。
湯呑を両手で包みながら、マイヤはふと窓の外を見る。
雪に照らされた夜の闇の中、硝子に映るのはマイヤーー黒髪の少女の姿だった。
(私は前と同じ黒髪のマイヤなのに、姿はこんなにこの世界に馴染んでいる……不思議)
部屋を見渡すと棚には、淡い金髪に青みがかった緑眼の少女の写真がいくつも並んでいる。
(……同じ顔)
硝子に映る自分と、写真の中の少女。髪と瞳の色が違うだけで、すべての輪郭が一致していた。
(彼女が……花鈴)
そのとき、湖で見た光景が脳裏に閃いた。
氷の向こうに、金髪のマイヤがいた。緑の瞳の、冬の王国の人たちにとって完璧なマイヤリリスが。
最期に、理想通りの自分の姿を見たのかと思ったけど――。
(もし、あの子が花鈴だったら……)
青森に飛ばされた私。
いなくなった金髪の花鈴。
(一体何が起こったの⁇)
答える人のいない問いに、マイヤはそっと目を伏せた。
そこに、祖母が古びたアルバムを持ってきた。
「小さい頃の写真を見たら、何か思い出すかもしれないね」
その言葉に、マイヤは静かに頷いた。
(……思い出せるわけがない。でも、知りたい。この子が確かに存在する証を)
ページをめくるたび、雪の日の写真、学校の運動会、笑顔の少女。
どの写真の中にも、温かい手とまっすぐな瞳があった。
「どんな子だった?」
「そうだね。優しい子だったよ。それに、頭がとても良くてね。大学は奨学金で東京の学校に行く予定だった」
「東京……?」
「そう、日本の首都。人がたくさんいて、誰も他人を気にしない場所さ。花鈴は言ってたよ、「ここにいると目立つけど、あっちなら自由に生きられる」って」
産まれ育った土地を出て、自分の居場所を探す。マイヤは、自分にない発想を持った花鈴に尊敬の念を抱いた。
「……素敵な子ね」
「あらやだ。あなたのことだよ」
祖母の笑顔に、マイヤはそっと微笑み返した。けれどその心の奥底で、彼女はすでに決めていた。
(謎が解けるまでは――この世界で、花鈴として生きる)
囲炉裏の火が小さくはぜ、夜の帳が静かに降りた。雪の音だけが、遠くでしんしんと続いていた。




