氷の王子
アレックスの描いた魔法陣が光を放つと同時に、世界が反転した。
視界が白一色に染まり、身体が宙に浮くような感覚のあと、花鈴は冷たい床の上で目を開けた。
――そこは、王都の侯爵家タウンハウス。山の中腹にある本邸から、馬車で三日ほどかかる場所だ。
アレックスは、気を利かせて王太子の待つ王都へ送ってくれた。
壁は白い大理石、天井には精巧な装飾。香水と暖炉の匂いが混じり、息苦しいほどに「貴族の家」の空気が満ちていた。
「マイヤリリス様! お帰りなさいませ!」
部屋の外から一斉に駆け込んでくる侍女たち。
誰もが涙ぐみながら膝をつき、まるで戦地から帰還した姫君を迎えるかのような熱狂ぶりだった。
「……え、えっと……」
既に花鈴が向かう知らせが届いていたので、戸惑う間もなく、着替え、髪結い、化粧が次々と進められる。
鏡に映る自分の美しく装われた姿は、大人びて、青森の少女・工藤花鈴の面影はなかった。
(……まるで別人みたい)
淡いブルーのドレスの裾が床に広がる。首に巻かれたチョーカーは、まるで鎖のように喉を締めつけた。
「お支度、整いました」
侍女の合図と共に、花鈴は王宮行きの馬車に乗せられた。
隣には、屋敷から付き添いとして同行する侍女のリースがいる。
彼女の顔には緊張と、言い出せない恐怖が浮かんでいた。
「……お嬢様。僭越ながら、皇太子殿下について……少し、お話をよろしいでしょうか」
「ええ、お願い。知らないことばかりなの」
リースは逡巡したのち、唇を震わせながら口を開いた。
「――王太子ロディオン様は、「氷の王子」と呼ばれております。誰よりも美しく、賢く、慈悲深い――表向きはそう言われています。ですが、その実……人の心を弄ぶ方なのです」
花鈴は息を詰めた。
リースは続けた。
王太子は気まぐれにマイヤを呼びつけ、わざと理不尽な命令を下した。
ある時は、遠い侯爵領から王宮まで二日以内に来いと命じ――遅れたと咎め、面前で罵倒した。
またある日は、マイヤが入れた茶を「まずい」と言って捨て、隣にいた恋人のエレン伯爵令嬢の入れた茶を褒め称えた。
彼の機嫌ひとつで屋敷の空気は凍りつき、マイヤはそれでも笑顔を崩さなかったという。
「……どうして、そんなことを?」
「殿下は、試しておられたのです。マイヤ様が本当に忠実かどうか。愛を証明するためにどこまで耐えるか」
「愛? ――それは、ただの残酷さよ」
花鈴の声は、低く震えた。
リースの瞳が揺れた。彼女は一度唇を噛み、それから打ち明けるように続けた。
「……解呪の儀式は、殿下の命令で行われたそうです。侯爵家の後ろ盾を得たまま、殿下は別の女性――エレン伯爵令嬢を妃に迎えるために、マイヤ様を「災いの花嫁」に仕立て上げようとされたのです」
「……っ!」
膝の上で、花鈴の拳がぎゅっと握られた。爪が掌に食い込み、痛みが鮮明に意識を保たせる。
「聞けば聞くほど……最低な男ね」
怒りの熱が胸の奥で静かに広がる。窓に映る自分の瞳が、わずかに光を帯びた気がした。
リースが恐る恐る言った。
「お嬢様、どうか……お気をつけください。王宮は……
「笑顔の刃」が溢れる場所です」
花鈴はその言葉に頷き、目を閉じた。
幼い日の青森――自分が「異物」と呼ばれたあの村の記憶が蘇る。
周りに疎まれ、それでも寄り添ってくれた祖父母のあの温もり。そして、同世代では、ただ一人、普通に接してくれた哲司の笑顔。
(……マイヤにも、あなたのような人がいたのね、リース)
花鈴は、その事実が嬉しかった。
* * *
やがて馬車は王宮の前で止まった。
白亜の尖塔が空を突き、金の装飾が陽の光を反射して輝いている。
けれど、その美しさはどこか無機質だった。花鈴は冷たい空気を吸い込み、胸の奥で何かを締め付けた。
――ここが、マイヤの戦場。




