【第3話】天路盤の空
朝になっても、レムナ村に雨は降らなかった。
空は白く曇っていた。
だが、その雲は薄かった。夜のうちに一度だけ村へ近づき、土の匂いを起こし、井戸の底に残ったわずかな水を震わせたあと、北の山脈へ流されていった。
村人たちは、それを見送った。
怒る者はいなかった。
泣く者も、ほとんどいなかった。
期待することをやめた村では、雨雲が逃げても、声を上げる力さえ残らない。
ミラ・セリスは、村の外れに立っていた。
胸元の天路儀は、まだ小さく震えている。
針は、西を指していない。
王都を指していた。
王都の地下にある空蔵。
その奥に置かれた、巨大な天路盤。
レムナ村へ向かっていた雨雲を曲げたのは、やはりあの盤だった。
「眠れたか」
背後から、セドリック・オルヴァンの声がした。
ミラは振り返らなかった。
「少しだけ」
「嘘だな」
「殿下も、眠れていない顔です」
セドリックは答えなかった。
彼の手には、昨夜見せた天路盤の運用記録がある。何度も読み返したのだろう。折り目が増え、端が少し擦れていた。
王都では、雨は迷惑なものだった。
天恵祭を濡らし、行列を遅らせ、貴族の衣装を重くするもの。
けれどこの村では、雨は命そのものだった。
その当たり前の事実を、セドリックは初めて目の前に置かれた。
「王都へ戻る」
彼は言った。
ミラは目を細める。
「私を連れて?」
「ああ」
「捕らえるためですか」
「違う」
セドリックは、しばらく間を置いた。
「確かめるためだ」
「何を」
「王都の空が、何の上に成り立っていたのかを」
風が吹いた。
乾いた土が、二人の足元を細く流れる。
ミラは胸元の天路儀へ手を添えた。
「王都へ戻れば、バルト宰相は私を捕らえます」
「私が止める」
「止めきれますか」
セドリックは、すぐには答えなかった。
王太子であっても、何でもできるわけではない。
王国には王国の仕組みがある。
王都には王都の正義がある。
そして、その正義を動かしているのが、宰相バルト・ヴェルグラムだった。
「止めきれなくても、聞かせる」
セドリックは言った。
「誰にですか」
「私自身にだ」
ミラは振り返った。
セドリックの目は、王都でミラを追ってきたときとは違っていた。
まだ迷いはある。
怒りもある。
だが、その奥に、見てしまった者の苦しさがあった。
「私は、王都の晴天を守ることが王国を守ることだと思っていた」
彼は低く続けた。
「だが、もしその晴天が、誰かの空を乾かしていたのなら。私は、何を守っていたことになる」
ミラは何も言えなかった。
その問いは、彼自身が答えなければならないものだった。
*
王都へ戻る道は、昨日より長く感じられた。
行きは、ミラが追われる道だった。
帰りは、セドリックが自分の国を疑う道だった。
昼前、丘陵を越えると、王都が遠くに見えた。
高い城壁。
白い塔。
広い街道。
整えられた水路。
そして、その上に広がる空。
昨日崩れかけたはずの晴天は、もうかなり戻されていた。
王都の上だけが、薄い青に覆われている。
周囲には灰色の雲が流れているのに、王都の真上だけは丸く晴れていた。
まるで見えない硝子の蓋を被せられているようだった。
「これが、天路盤の空です」
ミラは言った。
セドリックは馬を止めた。
「不自然だな」
「王都の中にいると、分かりにくいんです。空が晴れていることを、みんな良いことだと思っているから」
「外から見ると、違う」
「はい」
王都の晴天は美しい。
だが、そこだけが切り取られている。
周囲の雲を避け、湿った風を押し返し、王都の上だけを守る空。
それは、天から降りた恵みではない。
人の手で作られた境界だった。
「王都の民は、この空を見て安心する」
セドリックが呟いた。
「私も、そうだった」
「安心は悪いことではありません」
ミラは言った。
「でも、そのために誰かの空を曲げていい理由にはなりません」
セドリックは何も返さなかった。
ただ、王都の空を見上げていた。
*
王都へ戻ると、天恵祭の華やかさは半分消えていた。
通りにはまだ色布が垂れている。
花びらも残っている。
けれど、笑い声は少なかった。
民衆は空を見上げ、王立天候局の塔を見上げ、そしてミラを見ると顔をこわばらせた。
「いたぞ」
誰かが小さく言った。
「空を奪った天候師だ」
「天恵祭を壊した女だ」
「捕まったのか?」
「王太子殿下が連れている」
声はすぐに広がった。
ミラは前だけを見て歩いた。
石畳を踏む音が、やけに大きく聞こえる。
王都の民から見れば、ミラは間違いなく罪人だった。
一年に一度の祝祭を壊した。
王国の晴天を曇らせた。
天恵を奪った。
その怒りは、ミラにも分かる。
昨日の晴天を楽しみにしていた子どももいたはずだ。遠くから店を出しに来た商人もいたはずだ。天恵祭の売り上げで冬を越す者もいたかもしれない。
ミラの行動で、困った人もいる。
それは、消えない。
だからこそ、胸が痛んだ。
正しいことをしたと思いたい。
けれど、誰も傷つけずに正しいことだけを選べるほど、この国の空は綺麗ではなかった。
「下を向くな」
隣でセドリックが言った。
「私は、もう王都の敵です」
「まだ裁きは下っていない」
「民の目は、もう裁いています」
「なら、私も一緒に見られよう」
ミラは思わず彼を見た。
セドリックは正面を向いたままだった。
「私も、この空の下で生きてきた」
その声は低い。
「知らなかったで済む話ではない」
ミラは返事をしなかった。
王立天候局の塔が、目の前に迫っていた。
*
王立天候局の地下へ降りる階段は、冷たかった。
外のざわめきが遠ざかる。
石壁に沿って、水の音が細く響いていた。
天候局の地下には、王都の貯水路と観測水路が通っている。雨量、風向き、湿り気、気圧。王都の空に関わるものは、すべてここへ集められる。
その最奥に、空蔵があった。
扉は黒い鉄でできている。
表には王家の紋章。
その下に、天候局の言葉が刻まれている。
空は、王国の安寧のために。
ミラはその文字を見るたび、かつては誇らしかった。
今は、別の意味に見えた。
王国の安寧。
それは、誰の安寧なのか。
「開けろ」
セドリックが命じると、番兵たちは戸惑いながらも扉を開いた。
中には、何人もの天候師がいた。
その中央に、巨大な円盤が置かれている。
天路盤。
王都の地図だけではない。
海。
川。
山脈。
街道。
村。
畑。
港。
雲の流れ。
風の向き。
それらが、細い銀線となって盤面の上を動いていた。
まるで空をそのまま地上へ写し取ったような盤だった。
円盤の外周には百を超える小さな輪が並び、そこへ天候師たちの天路儀が同期している。輪が動くたび、銀線は曲がり、雲の進路が少しずつ変わる。
王都の上には、青い光の膜があった。
その周囲を、灰色の線が避けて流れている。
晴天固定。
王都の空だけを、晴れに保つ命令。
それが今も動き続けていた。
「美しいだろう」
奥から声がした。
バルト・ヴェルグラムだった。
黒い上着に、銀の飾り鎖。昨夜から眠っていないのか、顔には疲れが見える。それでも背筋はまっすぐだった。
「王都の空は戻りつつある。民もじきに落ち着く」
セドリックは彼を見た。
「レムナ村の雨雲を曲げたのも、この盤か」
空蔵の空気が凍った。
天候師たちが顔を上げる。
バルトは、ほんの少し眉を動かしただけだった。
「殿下。まずは天恵祭の混乱を収めるのが先です」
「答えろ」
セドリックの声が低くなる。
「レムナ村の雨雲を曲げたのは、この天路盤か」
バルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「その言い方は正確ではありません」
「では、正確に言え」
「王都晴天固定のため、王都周辺の雨雲を迂回させました。その進路上にレムナ村周辺の雨路が含まれていた。それだけです」
「それだけ?」
セドリックの声に怒りが混じった。
「村では、子どもが雨を知らなかった」
バルトは表情を変えない。
「王都にも子どもはいます」
ミラは、指先が冷たくなるのを感じた。
バルトは続ける。
「天恵祭が晴れなければ、王都の民は不安になる。商人は損失を出す。地方から集まった品も売れ残る。王都の混乱は王国全体に広がる」
「そのために、辺境の雨路を曲げたのか」
「王国を守るためです」
その言葉は、強かった。
迷いがない。
だからこそ、恐ろしかった。
「辺境の村一つを守るために、王都全体を曇らせるのですか」
バルトの視線が、ミラへ向いた。
「あなたは優しい。しかし、優しさで国は動きません」
「村一つ」
ミラは小さく繰り返した。
「あなたたちは、いつもそう呼ぶんですね」
バルトは答えなかった。
ミラは天路盤を見た。
銀線が動いている。
王都の上を晴れに保つため、周囲の雲が押し出されている。
そのうちの一本が、レムナ村へ向かいかけ、途中で北へ曲げられていた。
昨夜見たものと同じだ。
いや、さらに強い。
バルトは、天恵祭を壊されたことで、王都の晴天固定を強めている。
その分、雨路の曲がりはきつくなっていた。
「固定を弱めてください」
ミラは言った。
「今なら、まだレムナ村へ雨雲が戻れます」
「できません」
「なぜです」
「王都の空が不安定になる」
「王都に一日雲が戻るだけです」
「その一日が、国を揺らす」
「レムナ村は、何年も揺らされています」
バルトの目が細くなる。
「ミラ・セリス。あなたは天候師でありながら、王国全体の空を見ていない」
「見ています」
「見ていない」
バルトは天路盤へ手を置いた。
「王都が倒れれば、地方はもっと苦しむ。王都の安定は、王国全体の柱です」
「柱を守るためなら、土台を乾かしていいのですか」
その言葉に、天候師たちの何人かが顔を伏せた。
バルトだけが、伏せなかった。
「犠牲のない運用などありません」
「犠牲にされた側へ、一度でも説明しましたか」
空蔵に沈黙が落ちた。
バルトは答えない。
それが答えだった。
*
セドリックは天路盤へ近づいた。
青い光の膜が、王都の上で揺れている。
それは美しかった。
本当に、美しかった。
王都の人々が安心するのも分かる。
晴れた空の下では、誰もが明日を信じやすい。
だが、その外側で曲げられた雨路が、レムナ村から雨を遠ざけている。
美しい青の周りで、細い銀線がいくつも歪んでいた。
「バルト」
セドリックは言った。
「私は、この運用を止める」
天候師たちがざわめいた。
バルトの顔が初めて厳しくなった。
「殿下。お考え直しを」
「天恵祭の晴天固定を解除しろ」
「できません」
「王太子として命じる」
「王国の宰相として、お止めします」
二人の視線がぶつかった。
バルトは静かに言う。
「殿下は、王都の民の前に立たれたことがある。彼らが何を求めているか、ご存じのはずです。民は不安を嫌います。曇り空を嫌います。乱れた天候を嫌います」
「だから、真実を隠すのか」
「真実だけで国は保てません」
「嘘の晴天なら保てるのか」
バルトの口元がわずかに動いた。
笑ったのではない。
怒りを抑えたのだ。
「殿下は、あの村を見て感情的になっておられる」
「そうだ」
セドリックは即答した。
「見たからだ。見なければ、私は今日も王都の晴天を祝福と呼んでいた」
バルトは沈黙した。
セドリックは続ける。
「見てしまった以上、知らなかったころには戻れない」
ミラは、その横顔を見た。
王都の人間。
制度の側の人間。
その彼が、初めて制度に背を向けようとしている。
だが、バルトは甘くなかった。
「では、殿下には休んでいただきましょう」
バルトが指を鳴らした。
空蔵の入口から、兵士たちが入ってくる。
天候局の警備兵だ。
セドリックの近衛兵が前へ出ようとしたが、すでに囲まれていた。
「バルト!」
「王太子殿下は、反逆者の言葉に惑わされておられる。王都の混乱が収まるまで、保護させていただきます」
「それは、拘束だ」
「保護です」
バルトの声は冷たかった。
「そして、ミラ・セリス。あなたの天路儀を渡しなさい」
ミラは後ずさる。
胸元の天路儀が震えていた。
天路盤の命令が、さらに強くなっていく。
王都晴天固定。
周辺雨雲迂回。
レムナ村周辺、雨雲進路変更。
また、雨が遠ざけられる。
また、村の子どもが空の桶を下ろす。
ミラは天路儀を握りしめた。
「渡せません」
「それは王立天候局の備品です」
「でも、この天路儀で見た空は、私のものです」
バルトの目が細くなる。
「言葉遊びを」
「言葉ではありません」
ミラは天路盤を見た。
巨大な盤。
王都全域を覆う力。
百人の天候師を束ねる国家の道具。
それに、個人の天路儀で勝てるはずがない。
だが、勝つ必要はない。
昨夜、レムナ村の外れで見た綻び。
天恵祭で、一拍だけ外した同期。
ミラの天路儀は、天路盤のように広く空を動かすことはできない。
けれど、天路盤が強引に曲げた雨路の、不自然な継ぎ目だけは見える。
なぜなら、ミラはその雨路を知っている。
子どものころ、雨上がりの畑を歩いた。
濡れた土の匂いを知っている。
屋根を叩く雨音を覚えている。
レムナ村へ向かう空の道を、体の奥で覚えている。
「殿下」
ミラは小さく言った。
セドリックが彼女を見る。
「私は、天路盤に勝てません」
「分かっている」
「でも、戻す道なら見えます」
セドリックの目が変わった。
ミラは天路儀を開いた。
金属の輪が、静かに回る。
兵士が動こうとする。
セドリックが叫んだ。
「ミラに触れるな!」
王太子の声が、空蔵に響いた。
一瞬だけ、兵士たちの足が止まる。
その一瞬で十分だった。
ミラは天路儀を天路盤へ向ける。
同期するのではない。
従うのでもない。
天路盤の線の下にある、本来の雨路を読む。
銀線が揺れた。
王都の青い膜の外側に、細い細い道が浮かぶ。
曲げられる前の雨路。
レムナ村へ続いていた空の道。
見えた。
ミラの喉が震えた。
その道は、消えていなかった。
何度も曲げられ、外され、薄くなり、地図の端へ追いやられても、まだ残っていた。
「ありました」
ミラは呟いた。
「まだ、戻れます」
バルトが叫ぶ。
「天路儀を奪え!」
兵士が動く。
その直前、セドリックがミラの前へ立った。
「下がれ」
「殿下、これは王国のためです」
「王国のためなら、王国の民を乾かしていいのか」
セドリックの声が低く響く。
「その問いに答えられない者に、彼女の天路儀は触らせない」
バルトは奥歯を噛んだ。
そのとき、天路盤が大きく震えた。
王都の空を固定する青い光が、さらに強くなる。
バルトが自ら操作したのだ。
雨路がまた、北へ曲げられていく。
ミラの天路儀に映っていた細い道が、押し潰されそうになる。
「やめてください!」
「やめるのはあなたです、ミラ・セリス」
バルトの声が空蔵に響いた。
「王都の空は、私が守る」
ミラは天路儀を抱きしめた。
青い膜の下で、王都は晴れている。
その外側で、雨路が悲鳴を上げるように震えている。
ミラはその細い道を見失わないように、必死で目を凝らした。
勝てない。
押し返せない。
けれど、戻る道は見えた。
まだ、消えていない。
ミラはセドリックを見た。
「殿下」
「何だ」
「還せるのは、天路盤が一番強く空を掴んだ瞬間です」
「どういう意味だ」
「力で曲げたものは、強く曲げた瞬間ほど、元の道との継ぎ目がはっきり見えます」
セドリックは息を呑んだ。
「つまり」
「明日です」
ミラは天路盤を見る。
王都の青い膜が、冷たく輝いていた。
「明日、バルト宰相は天恵祭の混乱を打ち消すために、王都の空を完全に晴天へ戻すはずです。そのとき、天路盤は一番強く雨路を曲げる」
「そこを狙うのか」
「はい」
ミラは震える声で言った。
「天路盤に勝つのではありません。天路盤が作った歪みを、空が戻ろうとする力に返します」
セドリックは、少しだけ笑った。
苦い笑いだった。
「危険だな」
「はい」
「失敗すれば?」
「レムナ村には、また雨が来ません」
「君は?」
ミラは答えなかった。
セドリックは、それで察したようだった。
空蔵の奥で、バルトが命じる声が響く。
「王太子殿下を別室へ。ミラ・セリスを拘束しろ。天路儀は回収する」
兵士たちが迫る。
ミラは天路儀を閉じた。
だが、もう見えた。
レムナ村へ戻る空の道。
それは細く、今にも消えそうで、それでも確かに残っていた。
そのとき、ミラは初めて理解した。
自分の天路儀が、天路盤に勝つ必要はない。
ただ、天路盤が見失った空を、思い出せばいい。
その夜、王都の空は青く保たれた。
星も見えないほど、冷たい晴天だった。
そして、王都の外では、雨雲がまたひとつ、レムナ村を避けて流されていった。




