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空を奪った天候師  作者: ありんこ


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3/4

【第3話】天路盤の空

朝になっても、レムナ村に雨は降らなかった。


空は白く曇っていた。


だが、その雲は薄かった。夜のうちに一度だけ村へ近づき、土の匂いを起こし、井戸の底に残ったわずかな水を震わせたあと、北の山脈へ流されていった。


村人たちは、それを見送った。


怒る者はいなかった。


泣く者も、ほとんどいなかった。


期待することをやめた村では、雨雲が逃げても、声を上げる力さえ残らない。


ミラ・セリスは、村の外れに立っていた。


胸元の天路儀(てんろぎ)は、まだ小さく震えている。


針は、西を指していない。


王都を指していた。


王都の地下にある空蔵(そらぐら)


その奥に置かれた、巨大な天路盤(てんろばん)


レムナ村へ向かっていた雨雲を曲げたのは、やはりあの盤だった。


「眠れたか」


背後から、セドリック・オルヴァンの声がした。


ミラは振り返らなかった。


「少しだけ」


「嘘だな」


「殿下も、眠れていない顔です」


セドリックは答えなかった。


彼の手には、昨夜見せた天路盤の運用記録がある。何度も読み返したのだろう。折り目が増え、端が少し擦れていた。


王都では、雨は迷惑なものだった。


天恵祭を濡らし、行列を遅らせ、貴族の衣装を重くするもの。


けれどこの村では、雨は命そのものだった。


その当たり前の事実を、セドリックは初めて目の前に置かれた。


「王都へ戻る」


彼は言った。


ミラは目を細める。


「私を連れて?」


「ああ」


「捕らえるためですか」


「違う」


セドリックは、しばらく間を置いた。


「確かめるためだ」


「何を」


「王都の空が、何の上に成り立っていたのかを」


風が吹いた。


乾いた土が、二人の足元を細く流れる。


ミラは胸元の天路儀へ手を添えた。


「王都へ戻れば、バルト宰相は私を捕らえます」


「私が止める」


「止めきれますか」


セドリックは、すぐには答えなかった。


王太子であっても、何でもできるわけではない。


王国には王国の仕組みがある。


王都には王都の正義がある。


そして、その正義を動かしているのが、宰相(さいしょう)バルト・ヴェルグラムだった。


「止めきれなくても、聞かせる」


セドリックは言った。


「誰にですか」


「私自身にだ」


ミラは振り返った。


セドリックの目は、王都でミラを追ってきたときとは違っていた。


まだ迷いはある。


怒りもある。


だが、その奥に、見てしまった者の苦しさがあった。


「私は、王都の晴天を守ることが王国を守ることだと思っていた」


彼は低く続けた。


「だが、もしその晴天が、誰かの空を乾かしていたのなら。私は、何を守っていたことになる」


ミラは何も言えなかった。


その問いは、彼自身が答えなければならないものだった。



王都へ戻る道は、昨日より長く感じられた。


行きは、ミラが追われる道だった。


帰りは、セドリックが自分の国を疑う道だった。


昼前、丘陵を越えると、王都が遠くに見えた。


高い城壁。


白い塔。


広い街道。


整えられた水路。


そして、その上に広がる空。


昨日崩れかけたはずの晴天は、もうかなり戻されていた。


王都の上だけが、薄い青に覆われている。


周囲には灰色の雲が流れているのに、王都の真上だけは丸く晴れていた。


まるで見えない硝子(がらす)の蓋を被せられているようだった。


「これが、天路盤の空です」


ミラは言った。


セドリックは馬を止めた。


「不自然だな」


「王都の中にいると、分かりにくいんです。空が晴れていることを、みんな良いことだと思っているから」


「外から見ると、違う」


「はい」


王都の晴天は美しい。


だが、そこだけが切り取られている。


周囲の雲を避け、湿った風を押し返し、王都の上だけを守る空。


それは、天から降りた恵みではない。


人の手で作られた境界だった。


「王都の民は、この空を見て安心する」


セドリックが呟いた。


「私も、そうだった」


「安心は悪いことではありません」


ミラは言った。


「でも、そのために誰かの空を曲げていい理由にはなりません」


セドリックは何も返さなかった。


ただ、王都の空を見上げていた。



王都へ戻ると、天恵祭の華やかさは半分消えていた。


通りにはまだ色布が垂れている。


花びらも残っている。


けれど、笑い声は少なかった。


民衆は空を見上げ、王立天候局の塔を見上げ、そしてミラを見ると顔をこわばらせた。


「いたぞ」


誰かが小さく言った。


「空を奪った天候師だ」


「天恵祭を壊した女だ」


「捕まったのか?」


「王太子殿下が連れている」


声はすぐに広がった。


ミラは前だけを見て歩いた。


石畳を踏む音が、やけに大きく聞こえる。


王都の民から見れば、ミラは間違いなく罪人だった。


一年に一度の祝祭を壊した。


王国の晴天を曇らせた。


天恵を奪った。


その怒りは、ミラにも分かる。


昨日の晴天を楽しみにしていた子どももいたはずだ。遠くから店を出しに来た商人もいたはずだ。天恵祭の売り上げで冬を越す者もいたかもしれない。


ミラの行動で、困った人もいる。


それは、消えない。


だからこそ、胸が痛んだ。


正しいことをしたと思いたい。


けれど、誰も傷つけずに正しいことだけを選べるほど、この国の空は綺麗ではなかった。


「下を向くな」


隣でセドリックが言った。


「私は、もう王都の敵です」


「まだ裁きは下っていない」


「民の目は、もう裁いています」


「なら、私も一緒に見られよう」


ミラは思わず彼を見た。


セドリックは正面を向いたままだった。


「私も、この空の下で生きてきた」


その声は低い。


「知らなかったで済む話ではない」


ミラは返事をしなかった。


王立天候局の塔が、目の前に迫っていた。



王立天候局の地下へ降りる階段は、冷たかった。


外のざわめきが遠ざかる。


石壁に沿って、水の音が細く響いていた。


天候局の地下には、王都の貯水路(ちょすいろ)観測水路(かんそくすいろ)が通っている。雨量(うりょう)、風向き、湿り気、気圧。王都の空に関わるものは、すべてここへ集められる。


その最奥に、空蔵(そらぐら)があった。


扉は黒い鉄でできている。


表には王家の紋章。


その下に、天候局の言葉が刻まれている。


空は、王国の安寧(あんねい)のために。


ミラはその文字を見るたび、かつては誇らしかった。


今は、別の意味に見えた。


王国の安寧。


それは、誰の安寧なのか。


「開けろ」


セドリックが命じると、番兵たちは戸惑いながらも扉を開いた。


中には、何人もの天候師がいた。


その中央に、巨大な円盤が置かれている。


天路盤(てんろばん)


王都の地図だけではない。


海。


川。


山脈。


街道。


村。


畑。


港。


雲の流れ。


風の向き。


それらが、細い銀線となって盤面の上を動いていた。


まるで空をそのまま地上へ写し取ったような盤だった。


円盤の外周(がいしゅう)には百を超える小さな輪が並び、そこへ天候師たちの天路儀が同期(どうき)している。輪が動くたび、銀線は曲がり、雲の進路が少しずつ変わる。


王都の上には、青い光の膜があった。


その周囲を、灰色の線が避けて流れている。


晴天固定。


王都の空だけを、晴れに保つ命令。


それが今も動き続けていた。


「美しいだろう」


奥から声がした。


バルト・ヴェルグラムだった。


黒い上着に、銀の飾り鎖。昨夜から眠っていないのか、顔には疲れが見える。それでも背筋はまっすぐだった。


「王都の空は戻りつつある。民もじきに落ち着く」


セドリックは彼を見た。


「レムナ村の雨雲を曲げたのも、この盤か」


空蔵の空気が凍った。


天候師たちが顔を上げる。


バルトは、ほんの少し眉を動かしただけだった。


「殿下。まずは天恵祭の混乱を収めるのが先です」


「答えろ」


セドリックの声が低くなる。


「レムナ村の雨雲を曲げたのは、この天路盤か」


バルトは、ゆっくりと息を吐いた。


「その言い方は正確ではありません」


「では、正確に言え」


「王都晴天固定のため、王都周辺の雨雲を迂回させました。その進路上にレムナ村周辺の雨路が含まれていた。それだけです」


「それだけ?」


セドリックの声に怒りが混じった。


「村では、子どもが雨を知らなかった」


バルトは表情を変えない。


「王都にも子どもはいます」


ミラは、指先が冷たくなるのを感じた。


バルトは続ける。


「天恵祭が晴れなければ、王都の民は不安になる。商人は損失を出す。地方から集まった品も売れ残る。王都の混乱は王国全体に広がる」


「そのために、辺境の雨路を曲げたのか」


「王国を守るためです」


その言葉は、強かった。


迷いがない。


だからこそ、恐ろしかった。


「辺境の村一つを守るために、王都全体を曇らせるのですか」


バルトの視線が、ミラへ向いた。


「あなたは優しい。しかし、優しさで国は動きません」


「村一つ」


ミラは小さく繰り返した。


「あなたたちは、いつもそう呼ぶんですね」


バルトは答えなかった。


ミラは天路盤を見た。


銀線が動いている。


王都の上を晴れに保つため、周囲の雲が押し出されている。


そのうちの一本が、レムナ村へ向かいかけ、途中で北へ曲げられていた。


昨夜見たものと同じだ。


いや、さらに強い。


バルトは、天恵祭を壊されたことで、王都の晴天固定を強めている。


その分、雨路の曲がりはきつくなっていた。


「固定を弱めてください」


ミラは言った。


「今なら、まだレムナ村へ雨雲が戻れます」


「できません」


「なぜです」


「王都の空が不安定になる」


「王都に一日雲が戻るだけです」


「その一日が、国を揺らす」


「レムナ村は、何年も揺らされています」


バルトの目が細くなる。


「ミラ・セリス。あなたは天候師でありながら、王国全体の空を見ていない」


「見ています」


「見ていない」


バルトは天路盤へ手を置いた。


「王都が倒れれば、地方はもっと苦しむ。王都の安定は、王国全体の柱です」


「柱を守るためなら、土台を乾かしていいのですか」


その言葉に、天候師たちの何人かが顔を伏せた。


バルトだけが、伏せなかった。


「犠牲のない運用などありません」


「犠牲にされた側へ、一度でも説明しましたか」


空蔵に沈黙が落ちた。


バルトは答えない。


それが答えだった。



セドリックは天路盤へ近づいた。


青い光の膜が、王都の上で揺れている。


それは美しかった。


本当に、美しかった。


王都の人々が安心するのも分かる。


晴れた空の下では、誰もが明日を信じやすい。


だが、その外側で曲げられた雨路が、レムナ村から雨を遠ざけている。


美しい青の周りで、細い銀線がいくつも歪んでいた。


「バルト」


セドリックは言った。


「私は、この運用を止める」


天候師たちがざわめいた。


バルトの顔が初めて厳しくなった。


「殿下。お考え直しを」


「天恵祭の晴天固定を解除しろ」


「できません」


「王太子として命じる」


「王国の宰相として、お止めします」


二人の視線がぶつかった。


バルトは静かに言う。


「殿下は、王都の民の前に立たれたことがある。彼らが何を求めているか、ご存じのはずです。民は不安を嫌います。曇り空を嫌います。乱れた天候を嫌います」


「だから、真実を隠すのか」


「真実だけで国は保てません」


「嘘の晴天なら保てるのか」


バルトの口元がわずかに動いた。


笑ったのではない。


怒りを抑えたのだ。


「殿下は、あの村を見て感情的になっておられる」


「そうだ」


セドリックは即答した。


「見たからだ。見なければ、私は今日も王都の晴天を祝福と呼んでいた」


バルトは沈黙した。


セドリックは続ける。


「見てしまった以上、知らなかったころには戻れない」


ミラは、その横顔を見た。


王都の人間。


制度の側の人間。


その彼が、初めて制度に背を向けようとしている。


だが、バルトは甘くなかった。


「では、殿下には休んでいただきましょう」


バルトが指を鳴らした。


空蔵の入口から、兵士たちが入ってくる。


天候局の警備兵だ。


セドリックの近衛兵が前へ出ようとしたが、すでに囲まれていた。


「バルト!」


「王太子殿下は、反逆者の言葉に惑わされておられる。王都の混乱が収まるまで、保護させていただきます」


「それは、拘束だ」


「保護です」


バルトの声は冷たかった。


「そして、ミラ・セリス。あなたの天路儀を渡しなさい」


ミラは後ずさる。


胸元の天路儀が震えていた。


天路盤の命令が、さらに強くなっていく。


王都晴天固定。


周辺雨雲迂回。


レムナ村周辺、雨雲進路変更。


また、雨が遠ざけられる。


また、村の子どもが空の桶を下ろす。


ミラは天路儀を握りしめた。


「渡せません」


「それは王立天候局の備品です」


「でも、この天路儀で見た空は、私のものです」


バルトの目が細くなる。


「言葉遊びを」


「言葉ではありません」


ミラは天路盤を見た。


巨大な盤。


王都全域を覆う力。


百人の天候師を束ねる国家の道具。


それに、個人の天路儀で勝てるはずがない。


だが、勝つ必要はない。


昨夜、レムナ村の外れで見た綻び。


天恵祭で、一拍だけ外した同期。


ミラの天路儀は、天路盤のように広く空を動かすことはできない。


けれど、天路盤が強引に曲げた雨路の、不自然な継ぎ目だけは見える。


なぜなら、ミラはその雨路を知っている。


子どものころ、雨上がりの畑を歩いた。


濡れた土の匂いを知っている。


屋根を叩く雨音を覚えている。


レムナ村へ向かう空の道を、体の奥で覚えている。


「殿下」


ミラは小さく言った。


セドリックが彼女を見る。


「私は、天路盤に勝てません」


「分かっている」


「でも、戻す道なら見えます」


セドリックの目が変わった。


ミラは天路儀を開いた。


金属の輪が、静かに回る。


兵士が動こうとする。


セドリックが叫んだ。


「ミラに触れるな!」


王太子の声が、空蔵に響いた。


一瞬だけ、兵士たちの足が止まる。


その一瞬で十分だった。


ミラは天路儀を天路盤へ向ける。


同期するのではない。


従うのでもない。


天路盤の線の下にある、本来の雨路を読む。


銀線が揺れた。


王都の青い膜の外側に、細い細い道が浮かぶ。


曲げられる前の雨路。


レムナ村へ続いていた空の道。


見えた。


ミラの喉が震えた。


その道は、消えていなかった。


何度も曲げられ、外され、薄くなり、地図の端へ追いやられても、まだ残っていた。


「ありました」


ミラは呟いた。


「まだ、戻れます」


バルトが叫ぶ。


「天路儀を奪え!」


兵士が動く。


その直前、セドリックがミラの前へ立った。


「下がれ」


「殿下、これは王国のためです」


「王国のためなら、王国の民を乾かしていいのか」


セドリックの声が低く響く。


「その問いに答えられない者に、彼女の天路儀は触らせない」


バルトは奥歯を噛んだ。


そのとき、天路盤が大きく震えた。


王都の空を固定する青い光が、さらに強くなる。


バルトが自ら操作したのだ。


雨路がまた、北へ曲げられていく。


ミラの天路儀に映っていた細い道が、押し潰されそうになる。


「やめてください!」


「やめるのはあなたです、ミラ・セリス」


バルトの声が空蔵に響いた。


「王都の空は、私が守る」


ミラは天路儀を抱きしめた。


青い膜の下で、王都は晴れている。


その外側で、雨路が悲鳴を上げるように震えている。


ミラはその細い道を見失わないように、必死で目を凝らした。


勝てない。


押し返せない。


けれど、戻る道は見えた。


まだ、消えていない。


ミラはセドリックを見た。


「殿下」


「何だ」


「還せるのは、天路盤が一番強く空を掴んだ瞬間です」


「どういう意味だ」


「力で曲げたものは、強く曲げた瞬間ほど、元の道との継ぎ目がはっきり見えます」


セドリックは息を呑んだ。


「つまり」


「明日です」


ミラは天路盤を見る。


王都の青い膜が、冷たく輝いていた。


「明日、バルト宰相は天恵祭の混乱を打ち消すために、王都の空を完全に晴天へ戻すはずです。そのとき、天路盤は一番強く雨路を曲げる」


「そこを狙うのか」


「はい」


ミラは震える声で言った。


「天路盤に勝つのではありません。天路盤が作った歪みを、空が戻ろうとする力に返します」


セドリックは、少しだけ笑った。


苦い笑いだった。


「危険だな」


「はい」


「失敗すれば?」


「レムナ村には、また雨が来ません」


「君は?」


ミラは答えなかった。


セドリックは、それで察したようだった。


空蔵の奥で、バルトが命じる声が響く。


「王太子殿下を別室へ。ミラ・セリスを拘束しろ。天路儀は回収する」


兵士たちが迫る。


ミラは天路儀を閉じた。


だが、もう見えた。


レムナ村へ戻る空の道。


それは細く、今にも消えそうで、それでも確かに残っていた。


そのとき、ミラは初めて理解した。


自分の天路儀が、天路盤に勝つ必要はない。


ただ、天路盤が見失った空を、思い出せばいい。


その夜、王都の空は青く保たれた。


星も見えないほど、冷たい晴天だった。


そして、王都の外では、雨雲がまたひとつ、レムナ村を避けて流されていった。

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